名言・格言

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名言格言 ・・・名言(21) 「人生には解決なんてないのだ」 どう理解する? 2015/03/26 

★☆ 名言(21)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
 
わかるだろうか・・・人生には解決なんてないのだ。
ただ、進んでいくエネルギーがあるばかりだ。
そういうエネルギーをつくりださねばならない。解決はそのあとでくる。

★☆ ・・・・・・・( サン=テグジュペリ 1900-1944 )・・・・・・・☆★
          < フランスの作家、操縦士 >

解決がないなんて、何を言っているのだろうか、どう解釈していいのだろうか。
エネルギーをつくり出すと言っても、この文だけを読むとそれこそ迷言になる。
この意味を説明する前に、私が説明している名言の解釈について触れておきたい。
名言の解説も随分長い間離れていたが、また今年から始めている。

それで、大事なことを書き忘れていたのが、この名言を言った人の意識レベルである。
これからは、波動測定で名言を言った人の意識レベルや特徴を載せていくことにした。
これまでの記事を含め、これから「第三の目の世界」とリンクさせて測定結果を載せていきたい。(「第三の目の世界」・・偉人・賢人・有名人をご覧ください 2018/10/01)

測定結果をその都度このページに載せると、文量が多くなるのでそうすることにした。
これまでは、写真や書が残っていない人は測定出来なかったが、これからはすべてARRでやっていくので、どんな人の意識も分かるので名言も分かりやすくなると考えている。

私が解説している名言は、本人の意識レベルを中心にして名言の意味を考えている。
その方がピンと来るだろうと思っているからである。
しっかりとした名言は、本人の努力と経験が染みこんだ意識から出るものだから、少し難解であっても、その意識レベルから解釈したほうが伝わると思う。

本人の意識レベルより高い意味で考えても、また低い意味で解釈しても本当のことは伝わらないだろう。
今回は、サン=テグジュペリの意識測定であるが、以前にも写真から測定している。
測定結果は、「第三の目の世界」に載せている。

サン=テグジュペリは「星の王子さま」の著者としても有名で、すでに知っていると思う。
まずは、サン=テグジュペリのARRで、彼の意識を知ってもらいたい。
「人生には解決なんてないのだ」
彼は知っていたのか、彼は44歳で亡くなっているので、本当にいい意味で若くして…となる。

すごいというか、この世的な言葉で言えば悟りの意識である。
以前にも書いたが、この世には本当の答えなどないということだ。
この世は観念といって、限界のある意識の中で真理とはほど遠い世界である。
彼が到達した意識から読むと、彼の思いはずっと真理方向を見つめていたことになる。

おそらく、子供の頃から、それは前世的意識の引き継ぎということもARRで判断出来る。
「人生には解決なんてないのだ」というと、現世的な解釈をする人には、何をバカなことを言っているんだ、となるだろう。
そういうこと自体がこの世界の観念そのもので、結局それ以上のことを考えることは不可能でなのである。

真理と観念のレベルの差は、それを知ったものにしか分からないのは当然である。
これはバカにすることでも、バカにされることでもなく、ただ知らないというだけだ。
真理を知らない現世的な知識がすべてと信じている人は、意識の広さも分からない。

真の解決も答えもない現世的観念の世界が人間社会である。
「真の解決も答えもない」といった言葉にも、思いっきり引っかかる人もいるだろう。
それを理解するには、その説明をするだけでも相当な量になるのも確かだ。
大多数の知らない者によって、意識成長の見られない歴史は繰り返されるのである。

サン=テグジュペリは、若くしてそれに気づき、自分のエネルギーを向ける先を変えた。
その方向は、すばらしい彼の意識の世界、それは真理方向しかないはずだ。
ただそこに向かっていくエネルギーが、彼のすべての意識。
その意志、熱意、情熱が彼のエネルギーとなって進んで行けるということだろう。

どんどん自分の意識が上がっていくにつれ、そのエネルギーも強くなっていく。
そうやって、どんどん意識は上昇していくだけである。
そして、それまでの自分の過去意識を振り返れば、それは済んだこと、自動的解決だ。
意識が高くなる、真理に近づくということが、観念という答えが見えることになる。

ああだこうだと争っていることのむなしさ、エネルギーのムダが、うんざりするほどよく見えてくる。
解決や答えの無い世界で争うのではなく、ポジティブ的発展性のある方向を見据えて動けばいいのだが、どうしても「我」というネガティブは絶対席を譲らないものだ。

サン=テグジュペリの意識は、相当高いレベルの意識なってこの世を去っていった。
彼の意識から感じるのは、もう生まれ変わってこの世に戻ることはないだろう。
サン=テグジュペリは、子供の頃から、いや前世から神の世界がすべてだったのだから。

この内容で、彼の本を読んでみるとどのようなことを感じるだろうか。
私は彼の本を読んだことはない、というより、これまで真剣に勉強した本は真理系の本で20冊くらいだから、そういう意味では無知である。
それでも、人の意識を知るには、ウィキペディアとARRがあれば、それほど不自由はないので本当に助かっている。

やはりARRがなければ、深い読みも人の意識全体をまとめることも難しいものである。

名言格言 ・・・名言(20) もう一度よく願望実現を考えてみよう 2015/03/15

★☆ 名言(20)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                                  
書物を読むということは、他人が辛苦してなしとげたことを、容易に自分に取り入れて、自己を改善する最良の方法である。

★☆ ・・・・・・・( ソクラテス BC.469-BC.399 )・・・・・・・・・☆★
          < 古代ギリシアの哲学者 >

今の時代、自分が知りたい勉強したいと興味を抱いたものは、書籍やネットを通してほとんど学ぶことができるだろう。
もし、自分が求めるレベルに早く到達したければ、その専門家から学ぶことで実現しやすくなるものである。
書物に書かれてあることは、レベルにもよるが一応その道を熟知した者が書いているのである。

大事なことは、このソクラテスの名言にあることをどう理解するかである。
この言葉は、専門的な分野で考えれば、すべてに通じることである。
このブログは、全意識の世界のことに焦点を当てているので、それに沿った話をしたい。
「他人が辛苦してなしとげたこと」というのは、つらい思いの中で苦しみながら到達したということであるから、そこには当然努力の過程も入っていることになる。

ソクラテスの時代はどのような書物があったかは分からないが、書物というものはそのくらい価値あるものだったに違いない。
現代は多様化過ぎて、本を選び方次第では、何年か先の自分の在り方まで影響することもあるだろう。
どちらにしても、いつも自分を磨く意識があれば、本選びも自然に変わってくるだろう。

この名言を現代に当てはめて本を探すとなると、どのような本がピッタリ来るだろうか。
それは、一つの事を目指し様々な苦難を乗り越えて実現または成功した努力家の人生で、大体は偉人レベルとされている人物になるだろう。
そのような人が残す言葉が、このような名言になっていることが多いのもうなづける。

しかし、それがちょっと方向が変わると、成功哲学的なテクニック本に変身してしまう。
このような本を読むと、自分の心や意識を変えてがんばろうと、誰でも最初は感情的になりその気になる。
私も、10年以上前になるが、けっこう売れていたこの手の成功哲学的な願望実現の本を買ったことがある。

何のために買ったかというと、目的はただ一つその内容を意識的に分析するためである。
結果的に、その本の分析は途中で止めてしまった。
何故なら、あまりにもデタラメで、自分勝手に本を売らんがための改ざんだらけで、その分析がいっぱいになりすぎて、さすがに嫌気が差したからである。

翻訳される前の原文はすばらしいと思うが、本当にあきれてしまった。
成功、願望実現のその会社が今はあるかどうかだが、思った通りの結果になっていた。
よく登場する、自分の思いや願望を実現させた偉人という人たちをみれば、願望実現や成功の方法は教えてくれているのであり、特別な方法などないのである。

願望実現や成功する方法はあるのである。
方法というのは言葉上そういうしかないので使っているが、それは潜在意識に関係する。
ただ、潜在意識そのものには、願望実現する力はないのである。
だったら何の潜在意識か、こうなると潜在意識の役目を知ることでしか答えは出せないので、その説明も簡単には済まない。

誰もが心の中で、うまく行く方法、願望が実現する方法を血眼になって探していると思うが、こんなことは早く自分から外した方がいい。
それより、必要なことを一つ一つしっかり身に付けていった方が、まだ自分の思いを満たせる可能性は高くなる。
人間意識の世界のことになるが、私がこれまで学んできたことで確信を持って言えることがある。

これはムダを無くし、回り道をせず、時間を大切に使うためにも言っておきたい。
趣味で精神世界に触れている人には関係ないことでもある。
もし、あなたが真剣に自分の意識成長を求めているなら、本を選ぶにも慎重になった方がいいだろう。

私は、これまで真剣に勉強して来たのは、聖者方や聖人とされる方の本である。
それ以外の本の数は少ないが、ほとんど目を通すくらいのそれこそ読書であった。
イエスや釈迦、その他の聖者方や聖人の教えにすべての答えがある、というのが私の結論である。

それは真理であり、智恵であるから、私は長年その真理、智恵の中で自分の意識回路も創られて来たと思っている。
この中にすべての答えがあるのに、何故宇宙のどこどこの星からのメッセージが必要なのであろうか。
そのメッセージが、これらの方の真理、智恵を超えた何かをもたらしているのだろうか。

もし、それが趣味やそれでワクワクしたいなら、それも気分転換にいいかもしれないが。
イエスや釈迦、その他の聖者方や聖人の教えが難しいのではなく、その解釈の仕方に慣れていないだけなのである。
宗教ではなく、イエスや釈迦、その他の聖者方や聖人の教えを理解していくだけで十分である。

ほとんどの人は基本という足下を見ないから、スタート点が見えない気づけないのである。
それは誰もが始めなければならないスタート点に立つこと、それが準備ということである。
その他の意識成長というと、人生の中で苦労し努力して、この世の観念を身を以て知るしかないだろう。

自分がすべてを、それも一からやる必要はないのである。
先人が残してくれた智慧をどう理解納得していくかだけだ。
まずそれを受け入れ、よく理解したところから自分流の道が開けていくのである。
まず受け入れること、そしてよく理解すること、これを無くして「自分が自分が」では。

また、「自分なんて」といった思いも間違った思いであり、ネガティブである。

名言格言 ・・・名言(19) 焦ることによってプラスになるものは何も無し 2015/03/05

★☆ 名言(19)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
         
あせることは何の役にも立たない。
後悔はなおさら役に立たない。
前者はあやまちを増し。後者は新しい後悔をつくる。

★☆ ・・ (ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749-1823)・・☆★
      < ドイツを代表する文豪 >

この2つの言葉、「焦る」と「後悔」の意味は、当然誰もが知っている。
「後悔」は、名言にあるとおり、結果で気づくことだから、せいぜい出て来るのは反省か、新しい後悔につながるだけで、それは嵐が過ぎ去った後の後片付けに過ぎない。
「焦る」と「後悔」は、1セットにしていいくらい関連しているので、「後悔」したくないなら「焦る」の意味をよく知っておいたほうがいいだろう。

「焦る」の意味を深く知ることは、とても重要なことである。
「焦ってはだめだ」ということはみんな知っているが、それでもいつも焦りにはまり、そして後悔しているだろう。
これだけは、あなたもどうにもならないと思っているだろうか。
あなたは、「焦る」という潜在的反応意識を分析したことがあるだろうか。

それを気づいている人でも、何で焦るのかだけを見つめているにすぎない。
だから、その言葉を知っているだけで、本当の意味など理解していないとなるのである。
その意味を知っていれば、そうならないように普段から手を打つはずである。
手を打つとはどういうことかというと、焦りの中にいる自分を冷静に観察するということである。

これはとても難しく感じると思うが、実際難しいことである。
焦りは、そう簡単にコントロールできるものではない。
しかし、このコントロールの中でしか、真の焦りの意味は理解出来ないだろう。
また、焦っている最中に、何を焦っているかどうかなどを、どう客観的に分析するかということも難しいものである。

それでも、これまで触れなかった「焦る」について、さわりだけでも話しておきたい。
今回は、少しでもその本当の意味を知ることと、それを活用していく智恵をつけてもらえればと思っている。
そうは言っても簡単なことではないので、きっかけでも掴めればいいかもしれない。

「焦る」はそれほど大したことではないと思うかもしれないが、意識成長にとっては大きな障害と言えるので、甘くみないほうがいいだろう。
まず、一つ一つの言葉の意味に深く入って見つめていくことから始めたい。
「焦るな」、分かってもいてもどうしても止められない、どこから湧いてくるのかこの焦りは、本当に強い感情レベルの力を持っているものである。

焦りながら、それでいて物事を着実に進めていける人は、相当な能力の持ち主である。
何故なら焦ることは、智恵や注意力やエネルギーなどが遮断され、欠落するからである。
これらの欠落をなるべく少なく保つことは、本当に冷静に広く物事を把握できているといった意識が支えにないと無理である。

では、普通の人が焦るといったいどういったことが起こるのだろうか。
それは、気づかないまま進行するので、必ず途中で苦しくなっていくだろう。
焦るというのは、本来するべき考え方を無意識に飛ばしたり、当然気づけることを見逃したりすることになる。
それだけではない、もっと大事なことは、焦りは何らかのネガティブ感情を引きつけていることにもなる。

このネガティブ感情が、だんだん生命エネルギーが入って来る回路を狭くしていくのだ。
結果、余計な疲労や集中力が散漫になっていったということも、振り返ってみればあなたにも思い当たるところはあるだろう。
これが、焦りの背後で潜在意識レベルで進行していることの一つである。

おそらく、注意すべき点がうすうす感じていても、焦っているときは、それにかまっていられないとなるから、ますます悪化していくのである。
焦りは一度しっかり見つめない限り、だれも焦りの中にいる自分は止められないだろう。
あるところまで進んでいくと、このようなことにもうすうす気づくのであるが、それでもそれをどう止めるかとなると、そういう自分がいないことまで気づけるだろうか。

結局、どうにもならなくなるところまで進んで、ギブアップとなる。
「焦る」とは、本来前もって知っておくべきことを無視し、ただ、その到達点だけを見つめているために起こる、勝手な自己過信による内的摩擦に過ぎないのである。
今の自分の実力、目標達成の安易な決め込み、このギャップを甘く見ているために起こる自滅への行進といってもいいだろう。

結果をみて、自分を知ることの反省は大事だが、しかしそれは後悔することではない。
名言にあるように、焦ることはたいして役に立たないが、後悔はもっと役に立たないということも知っておくべきだ。
何故、焦りはあやまちを増し、後悔は新しい後悔をつくるのだろうか。

それは、今いったように焦りの本当の意味を知らずに、焦るなと言っても必ず焦りのパターンにはまるからである。
「焦る」というのはネガティブだから、それを止める自分や智恵がなければ、どんな人もそのワナにはまってしまうのである。
当然、ほとんどは人の意見なども無視するものだ。

焦りはよくないことだと、だれもが知っていると思うが、それを超えて見つめることをしないのは、焦りを分析しようとすることも思いつかないのかもしれない。
結果が後悔になって、またいろいろ考え悩んでも、せいぜい新しい後悔に入っていくのみで、それも後悔のネガティブ仕組みが作るワナにはまってしまうだけである。

まともに、真剣に悩み考えていることが、実際はネガティブのワナに引っかかっているということにも誰も気づけないだろう。
何故そう言えるのか。
それは、いつまでも同じ繰り返しの中にいるからである。
この世のとりあえず良い考えというものの中には、たくさんの落とし穴がある。

しっかりと反省、後悔、そして真剣に悩んだ結果が、どうしてネガティブのワナの中に縛られていると言えるのかと、何か訳が分からなくなるかもしれない。
その判断は、焦りをコントロールできるのか、同じ繰り返しをしないのか、しかない。
ゲーテにしても、自ら苦しんだ経験で言っている言葉だと、私は思っている。

「焦ることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。」
何の役にも立たないのだから、これに抵抗して何か反対意見を言う必要もないだろう。
その辺の人が言っている言葉でなく、一流の人が言っている言葉の中にはそれなりに体験した意識的理解が含まれているのである。

だから「名言」は、感情的な気分で理解してはいけないのである。

名言格言 ・・・名言(18) 自分を変える、生き方を変えるは、どこから・・・ 2015/02/25

★☆ 名言(18)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★

一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである。

★☆ ・・・・・・・・( プラトン BC427-BC347 )・・・・・・・・・・☆★
           < 古代ギリシアの哲学者>

この名言は、本当はソクラテスの言葉である。
だが、弟子プラトンの著「クリトン」に出てくる一節なので、プラトンになっている。
正当すぎる言葉だから、どちらが言っているかはそれほど問題ではない。
大事なことは、この言葉の本当の意味である。

一言でいえば、この言葉はソクラテスが人生をかけて探究してきたことの確信になる。
「善く生きる」に似た意味のものは、昔から哲人、賢人方によって言われてきている。
これと反対の言葉が、「単に生きる」ということである。

何も考えず、毎日をその日暮らしの延長で、要は流されて生きているということになる。
大事なことは、「善く生きる」という言葉の意味を深く理解することにある。
哲学者ソクラテスが確信したことであるから、その内容は言葉以上の価値がある。

「単に生きる」人は、「善く生きる」ということがいったい何になるのかと思うだろう。
人生は無理せず、楽しく毎日を過ごしていくことが、いったいどこがいけないのかと思っているかもしれない。
この名言は、「単に生きる」を否定しているのではなく、価値ある人生に目覚めることを教えているのである。

そう言うと「単に生きる」は価値の無い人生になるのか、となるがどうなのだろうか。
これは、「単に生きる」が価値ある人生にどうやったらつながるかを考えれば、答えは出るはずである。
「単に生きる」は普通に生きると取ってもいいが、どちらにしても「善く生きる」の本当の意味につながるものは無いのである。

古代の哲人や聖人が残してくれた名言をみると、現代にも通用するものは多い。
ということは、今も昔も、人間意識というのはまったく同じようなところでつまづいているということがわかる。
プラトンの師であるソクラテスが「無知の自覚」を一生探究したことは、人間意識の成長の根本的姿勢というもので、現代の人たちも学べるのである。

「無知の自覚」無くしては、「善く生きる」など出来るものではない。
「善く生きる」人生を歩んでいる人は、自分を知る、気づくことを無意識であってもやっているのである。
知らないままでいい、今の自分のままでいい、それが自分らしくていい。
これは、「単に生きる」を象徴していることにしかならない。

「善く生きる」というのは「単に生きる」側からみると、道徳的に感じるかもしれない。
道徳的といっても、本当の意味で考えていけば、人の生き方にとってプラスになる。
しかし、それを都合の良い解釈にすれば、逆にこれほど人を束縛するものもない。

道徳的に正しいは、あくまで人間観念の中の規律で、都合のいい信念に似ている。
現代は、本当の意味も知らずに、いろいろな視点から勝手に解釈する人が多くなっているので、大事なことを話しても通じず、物別れになりやすい。
道徳と勘違いされやすいもので、釈迦の「八正道」がある。

これを簡単に言うと、「正しい見方」「正しい考え」「正しい行い」など、すべて「正しい・・・」
といったことが八つあるのである。
何でも「正しい・・・」とつくと、だれでも道徳的と感じるのは仕方ないかもしれない。

しかしこれは間違った解釈だ、釈迦レベルがわざわざ道徳レベルを説くわけがない。
「善く生きる」は、その最高の実践は、釈迦の「八正道」になる。
「善く生きる」の基本は、自分が知らないこと、そういう自分を素直に認めることから始まる。

「善く生きる」は、無知な自分を救うことであり、自分の罪を赦す行為でもある。
また、「善く生きる」は、人にとって、ごく普通にしなければならないことである。
プラトン(またはソクラテス)も、これを一番大切なことだと言っている。

「善く生きる」、それがいったい何になるのか、ではないのだ。
逆に、「単に生きる」ことが、不幸や苦悩に会う原因になりやすいのである。
この名言の意味を考えようとすることが、「善く生きる」につながる。
とにかく大事なことは、言葉の深い意味を知る・気づくことを意識することである。

それは、単に国語辞書に載っているようなことではなく、智恵になるように解釈していくことが大事である。
国語辞書に載っている言葉の意味は、普通のコミュニケ-ション的なものには間に合うと思うが、自分の意識成長にはそれほど大事では無い。
結局、「善く生きる」は、本当の言葉の意味を知っていくことで理解が増していくのである。

名言格言 ・・・名言(17) 自分に勝つ、これで先がよく見えるようになる 2015/02/18

★☆ 名言(17)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★

どんな些細な勝利でも、一度自分に勝つと人間は急に強くなれるものである。

★☆ ・・・・・・ ( マクシム・ゴーリキー 1868-1936 )・・・・・・・☆★
         < ロシアの作家>

この名言は、自信につながることについて言っている。
強くなれるというのは、当然自信がつくということである。
しかし、自信というのは非常にもろいもので、失うのも早い。
どんな人も、自信を欲しがり、そしてつけたがる。
本当の自信というものがどういうことかも知らないため、自信を持ったとしても、いつも迷っている。

自信というものを定義できるのだろうか、「自信とは何だ」それこそ哲学になってしまう。
自信の真の意味というか、その根本となるところを知ることが本当の自信につながると思っているが、そこまで理解することは大変難しいことだろう。
あなたは、自分の心の中で「自信」という言葉を浮かべてみると、どう反応するだろうか。

おそらく、一瞬心が重くなる感じがしたのではないだろうか。
自信過剰、それが病的なら問題だが、それで成功するのも失敗するのも自分なのだから、過剰気味でどんどん進んで行った方が、足踏みしているよりはいいだろう。
自信過剰でも、自信は一時的に付くものではないので、その人に自信が付くにもそれなりの背景があるものだ。

ただ自信を付けたいと思う前に、自信についてよく考えてみたほうがいいかもしれない。
本当の自信を持てるように、まずデタラメで後に何も残らない無味乾燥な自信から考えてみよう。
無知でも自信を持って生きている者もいるし、思い込みで自信を持っている者もいる。

これでも、なかなか自信が持てない人よりは、まだ明るく生きているかもしれない。
どうしようもない、厚顔無恥といった者も、自信満々に振舞うから、これもまたすごい。
一番イヤなタイプは、無能だが地位やお金の力で自信ありの人間ではないだろうか。

開き直りの自信もあり、精一杯自信ありを繕っている者もいるからかわいい。
内心はドキドキだが、表面的に余裕ありを見せている人もこのタイプか。
いつかバレルのに、そのときはすべてが崩れるのをどうしてわからないのか。
自信なんていうものは、本来あってないもの、人間関係の中だけのものである。
危険を顧みない、勇気を持って進むというのは、本来の自信とは関係ないことだ。

今自信が無いという人は、どんな勝手な自分の尺度を持っているのだろうか。
人を計る尺度は大きいもので、もしかすると自分を計る尺度は小さいのでは…
人が勝手に言ってる自信なんてほっておけばいいのに、何をそんなに気にするのか。
本当に自信を持っている人のそばにいないから、分からないのかもしれない。

本当に自信を持っている人は、人をバカにしたり差別的な目で見たりはしないものだ。
そういうことをする人間の自信なんて、心の中で笑ってしまえばいいだけだ。
それが出来れば、逆に少しは自信がつくと思うのだが、少し心で笑ってみればどうかな。

もう一度言うけど、周りで言っている自信なんてまともに考えないほうがいい。
自信だ、プライドだ、信念だ、こんなことより自分に素直が一番だよ。
自分に素直な点を見いだせなくて、何の自信を付けたいのだろうか。
注目してもらいたいのは、「自分に勝つ」といった言葉である。
他の誰かとか何かの対象ではなく、自分自身に勝つ、相手は自分ということである。

「己に勝つ」「敵は自分の内にあり」という言葉を耳にしたことがあるだろう。
ほとんどの人の中にある敵は、他の誰かであり、ライバルとしている誰かだ。
本物の自信をつけたければ、他人なんか考えない、相手にしないことだ。
自分に勝つだけでも、一生かかるということを知っているだろうか。
ほとんどの人は、自分を出来る限り擁護して他人を責めることばかりだ。

それで自信とは何だ・・・、学歴、資格、地位、それともお金の量か。
そんな人に限って、「人間性」などは死語になっているのかもしれない。
小さいこと、一つずつでもいいから、自分の短所、ネガティブ性に勝っていくことだ。
それを繰り返し、自分に勝つ、そして超えることをクセ付けることだ。

どうしてこれがわからないのだろうか、焦ってやっても自信などつく訳も無いのに何故、無理を夢み期待するのか。
百里の道も一足から。
千里も同じ、未来も一生も同じだ。
一歩ずつ、自分を良くしていくことだ。それが一番自信につながっていく。

他のことは、その準備があって付いて来るものではないだろうか。
本当の努力もしないで、人と比べることだけで、どうして自信を気にするのか。
何か根本が間違っていないだろうか。
デタラメの中には本物はない。
誰も気づいていないが、本物はあなたの中にあるんだ、至宝も…。

名言格言 ・・・名言(16) 苦しい自分から、どこまで逃げられるか 2015/01/24

★☆ 名言(16)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★

苦しいから逃げるのではない。
逃げるから苦しくなるのだ。

★☆ ・・・・・・(ウィリアム・ジェームズ 1842-1910)・・・・・・・☆★
          < アメリカの心理学者・哲学者>

辛い悩みや問題から、早く抜け出したいと苦しみながらがんばっている人もいるだろう。
逆に、辛い悩みや問題があっても、ポジティブ思考といって適当な理由を付けて逃げている人もいるだろう。
人は苦しくなると逃げ出したくなる。

これは当然だ。
ただ、このどちらを選択するかだが、その人の性格や抱えている悩みの大きさによっても違ってくるだろう。
どのような方法を取ろうとその人の自由だが、ウィリアム・ジェームズは、「逃げるから苦しくなる」と言っている。

当然こう言うには、それなりの根拠を持ってのことだと思うが、この名言については私もまったく同感である。
悩み問題は、自分のネガティブである。
ネガティブといっても悪という意味ではなく、自分を邪魔するものや障害という意味だ。

自分のネガティブからは絶対逃れられないということも、私は何度も言って来た。
絶対逃れられないものから逃れようとあがくこと自体、苦しくなるのは当然である。
「だから、苦しいから逃げるんだ」といえば、いつまでも堂々巡りになるしかない。

それとも、そうしていると逃げ上手になれるのだろうか、それも、いつまで・・・
では、どうしたら辛い悩みや問題から解放されるのか、その方法はあるのだろうか。
名言からすると、もし逃げないとするなら、逆に向かっていくしかないとなる。

しかし、それまで散々がんばって苦しんで来たのだから、もうやりようもないはずだ。
特攻隊じゃないのだから、無理に突っ込んでいっても意味がない、同じ結果になるだけだ。
今ここで、その解決方法を全部説明出来るものではないが、根本的ヒントとなることを話してみたい。

まず、悩み問題を解決する方法というのは、今の自分より高いレベルの知識や智恵をつけるしかないということを知ってもらいたい。
悩み問題はネガティブだから、それに勝てる力をつけるしかないのである。
その力は、いきなり真理とか霊的智恵といったものではなく、まずはこの世的な面で使える技術として知っていけばいいのである。

それは、ポジティブネガティブの理解、観念の理解、人の心、意識の理解になる。
こういうと、何か難しいものと思う人もいるかもしれないが、今の自分はそれでつくられているのだから、それを理解していくことが自分のためである。
この仕組みを簡単に言えば、あなたはネガティブの正体を知らないために、ネガティブにいいようにだまされているとなる。

もっと言うと、ネガティブのワナにかけられ、それに縛られ、何の抵抗も出来ず言いなりになっている、ということである。
これが、あなたが疑うことのないこの世の観念とそれからなる自分という意識の仕組みである。
ネガティブからの解放は、これがどうなっているかを徹底的に解剖することにある。

これを一変に出来るということは誰も出来ない。
少しずつできることが力を付けていくことになる。
これが大変だからといって、他に簡単な方法を求めたくなるのである。
基本的なことを覚えるまでは大変だが、その後は見方考え方も大きく変化するだろう。

テクニックである程度までやるのか、それともネガティブの正体を暴いていくのか。
その結果は、目先か自分の人生全体か、お飾りか本物か、といった自分そのものだ。
意識の世界には、あなたの知りたい答えがあると考えていい。

もちろん、いくつも段階があるのだが、高くなるほど下の意識はよく見えるのである。
それは、理解によってだれでも上がって行ける世界である。どんな人もである。
観念の世界は、意識の世界以下である。
心の世界は、意識の世界の下に位置するのである。

心の世界、観念の中にいれば、人は悩むに決まっているのである。
それは、答えがあいまいな混乱の世界だからしかたない。
この中でいくら考えていても、いつまでも堂々巡り、早くこれに気づけることは幸せだ。
因果法則というものがあるが、もう一度それについて真剣に考えてみるのもいいだろう。

考えがそこまで回らなかった、軽率すぎた、無知だった、感情的になりすぎた、結果を少しも考えることはなかった、何とかなると思った、など失敗の原因もいろいろある。
これらのネガティブが原因となって、その結果が最後は自分に降りかかってくるのである。

逃げれば何も得られないが、智恵を付けていけばおまけ付きで自分に返ってくるものだ。
何故逃げる、逃げても自分のネガティブは消えるものではない。
苦しみは、ネガティブをポジティブに変えないために、だんだん積もっていくからだ。

それが、いつか自分に返ってくるだけ、それが分かればもう逃げようという考えにもストップがかかるだろう。
苦しみは、いつもその人に寄り添ってそのチャンスを見逃さない。
人は、因果法則によってうまく誘導され、苦しいことに直面させられるのである。

逃げる、フタをする、見て見ないふりをする、不運として片付ける、ポジティブ暗示をかける、うまく逃げ通せれば頭が良いとする、こういう都合の良い方法も最大の逃げだ。
自己責任、自分が蒔いた種は自分で刈り取るしかない、でいつか目覚めるかもしれない。

つらいだろう、本当に苦しいだろうが、問題が起きても逃げずにそれに直面するべきだ。
逃げることをやめ、それに立ち向かって超えたなら、きっと心の奥底から何ともいえない喜びが湧いてくるだろう。
やらない者には、いつまでもその喜びはわからない。

「人は苦しみに直面しない限り、この意味が分からない」
しかしなぜ人は、負担が大きくなるまで自らを追い込んでしまうのだろうか。

名言格言 ・・・名言(15) ひらめきを得るためには・・・ 2015/01/15

★☆ 名言(15)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
               
ひらめきは、それを得ようと長い間、準備、苦心した者だけに与えられる

★☆ ・・・・・・ (ルイ・パスツール 1822-1895)・・・・・・☆★
          < フランスの生化学者・細菌学者 >    

ひらめきとは、すばらしい考えやアイデアなどが瞬間的に思い浮かぶことだが、それをインスピレーションといっている人もいる。
一般的には、どちらの言葉でも同じような意味になるが、私はこの2つの言葉の意味をはっきりと分けて使っている。
そうするのは、人間意識が高い段階の真理に入ると、この世にある言葉の意味ではどうしても的確に表現することができないからである。

ひらめきとインスピレーションは、意識向上段階では分けて考えた方がいい。
意識が高い段階に入っていくと内的世界になっていくが、その世界を理解しやすくするには、その表現の仕方が大きなカギになる。
たとえば、私が様々なものを測定している波動振動測定にも言える。
要は、言葉上は「波動」と「振動」の違いで意味はほとんど同じであるが、私が使うときは、この2つの言葉の意味はまったく違うのである。

私の波動振動測定の記事を長い間読んでいる人は、おそらく他の人よりは波動振動の分ける意味やその違いを知っているはずである。
このように意識の段階が上がると、ひらめきとインスピレーションの意味も違って受け取れるようにしたほうが意識の感じも掴みやすくなる。
インスピレーションは考えではなく、ズバリその答えか、先の結果を知ることである。

この世は観念の世界であるが、いずれはこれから抜け出し意識の世界に入っていくことになる。
その意識の世界も、なるべく意識で感じ取れるようにすることで理解が早まるのである。
言葉の意識が重なったが、いま私が説明したことは、真理の世界からみたことになる。

ここで取り上げたパスツールの言葉のひらめきは、この世のことに関することになる。
以前、名言格言の(9)でエジソンを取り上げたことがあるが、本当のひらめきやインスピレーションがどのようなものかは、体験したものでないとわからないのである。

パスツールもひらめきは、長い間、準備、苦心した者だけに与えられると言っているとおり、彼も本当に長い間大変な努力をしたということがわかる。
ただ、パスツールの名言は、彼が本当に言いたいこととは違うような気がする。
この名言をよく分析してみると、ひらめきを得るために努力するものではないと私は思っている。

ひらめきは、自分が求めるもの、目指していることに対して、真剣に努力をしている者に来るのである。
それは簡単に来るものでも、何かの条件を満たしたから来るというものでもない。
パスツールの名言は、自分が真剣に求めているものを得よう(または、到達しよう)と長い間、準備、苦心した者だけに与えられる、ということになる。

長い間の準備と言っているように、何事も成就するには、当然時間はかかるものと思ったほうがいい。
また準備と言うと、一般的解釈では寝る時間も惜しんでといった努力が準備そのものだと思うかもしれない。
しかし、ひらめきに関しての準備というのは、今言った努力とは少し意味が違う。

ひらめきでもインスピレーションでもどちらにも言えるのだが、準備と言うのは意識的準備以外には考えられないのである。

あなたにも、これまで何らかのひらめきが来たことがあるかもしれない。
しかしそのひらめきは、科学的なことや誰も知らない発見など、本当に驚くようなものではないはずだ。

何故なら、そのようなレベルのひらめきを受け止められる自分ではないからだ。
要はそれを受け止められる自分、またはそのような意識になっていないということだ。
ひらめきを受け止められる自分、その意識になることが、準備ということである。

物事をただ漫然とやっている努力は、スキがありすぎてひらめきを受け止めるような意識、その準備にはならないのである。
私はこのひらめきやインスピレーションというものをこれまでたくさん受けてきたので、それがどういうものかは本当によく知っている。
このことは共通して、意識の世界やその他どの世界にも言えることである。

どんなことにも共通する努力や勉強や訓練は、工夫の仕方、意識の仕方、集中の仕方、気づき方、考え方、これ以外のことも、しっかり鍛えることが本当の準備である。
そこまでやらなくてもという人もいるが、このことはそこまでやる人に気づいてもらうためのものである。

そこまでやらない人には関係ないことであるが、マイペースで一つのことをやり通している人には、いつかひらめきが来る可能性があるのである。
「継続は力なり」という言葉があるが、継続はひらめき、成就といった流れで、結果的に自分に力をもたらすのである。