導きの一本道

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導きの一本道 ~人間意識を分ける枠組を知っていこう! 2013/06/13 

今回は、人間意識の全体枠について説明してみたい。
分からない意識もあると思うので、出来る限り拡大した意識で受け止めてほしい。
どこまで把握出来るかだが、意識枠の感じを掴めれば自己意識の拡大を感じるだろう。

意識の全体枠という内容なので、本当に抽象的表現になるがそこは大きく捉えてほしい。
とにかく、全体的枠組みを知っていれば、あとはその中に当てはめていくだけである。
他にも意識の分け方はあるので、まとめて覚えていれば意識の理解も早くなるだろう。

人の意識の段階は、神方向に向かって順に心、意識、潜在意識、無意識、霊意識となる。
これを私は、波動、振動、霊的振動、霊的エネルギーという段階に分けて当てはめている。
霊的エネルギーは霊的質量といったもので、このレベルは無意識のはるか向こうの霊である。

これらを元に人間意識を段階毎に分けると、別な角度から個々の人間を把握しやすくなる。
これから説明する人間意識の段階的分け方は、すでに「第三の目の世界」でやっている。
この方法はとても重要で、人間意識のレベルの差を知るにはこれで充分だと思っている。

まず、人の意識でわかりやすい分け方として、善と悪がある。
人間意識の善悪は、世界中で昔から人を悩ますもので、それは今も同じだと思う。
宗教的にも善悪のことはうんざりするほど説かれているが、それ以上何も説明は無い。

善と悪、どちらの意識が高いか、神に近いかは今さら説明する必要もない。
では、人の意識の善悪をどこで分けるのか、どこで線を引くのか、となる。
しかし、きっちり善悪を分ける線を引くことが当然不可能なことは、誰もが知っている。
この世界は、何でもすぐにはっきりと答えを出したがる教育をするが、それも無理がある。

ゆとりの無い教育を続けて行けば、人の意識はだんだん狭くなるだけだ。
だったらこうしよう、私はこのように考え、すべての人間の意識を段階をつけて分けた。
まず善悪だが、これを善悪のみの意識として考えずに、この2つの距離を大きく離してみた。

善は、無条件に誰が考えても、思っても、感じても絶対的に善い意識である。
逆に、悪は無条件に誰が考えても、思っても、感じても絶対的に嫌悪する意識である。
この2つのことがそのまま当てはまらない人は、本当の善の感じを知らないからに過ぎない。

この善と悪の意識の間を大きく開き、とりあえずその善と悪を両はじの方において置く。
これだけでは人間意識を理解することは出来ないので、いったんこれは横において置く。
次に、この善悪の間を埋めるための意識を用意する。

それが、ポジティブネガティブである。
このポジティブネガティブを4つの段階を決めて善悪の間に置くとしよう。
ポジティブ側に、P1、P2、P3、P4、(P5以上は絶対的善である)
次に、ネガティブ側にN1、N2、N3、N4(ネガティブは、N5以上は必要ない)

P1とN1の間に0を入れても、無くてもどちらでもかまわない。
N4は絶対的悪なのでそれ以上は悪魔級ということで、知る必要もないだろう。
反対に、P5以上は偉人聖人、聖者、大聖者といった意識を知るためにも覚えておいた方がいい。
もう一度、ここで善悪を入れて並べてみると分かりやすいだろう。

悪魔級、超悪、N4、N3、N2、N1、0、P1、P2、P3、P4、偉人聖人、聖者、大聖者となる。
これが人間意識の全体像で、すべての人間はこのどこかに入るのである。
これは真理レベル、私が知っている意識の最高点から見た分類法である。
今までは、ポジティブの測定結果もP4あたりでそれ以上は詳しく載せて来なかった。

しかし、これからはP4,5,6といった感じまで載せるようにしていこうと考えている。
ポジティブ振動の感じを、何となくでも感じられてくると、ネガティブにも敏感になる。
ネガティブ波動に敏感になるということは、自然に自分を守ることにもつながっていく。

「君子危うきに近寄らず」、波動の感じで見極められれば、後でありがたく思うだろう。
この意識の各段階は、当然人間性にも密接に関係しているのである。
意識の波動測定が出来なくても、人は直感を生かしてこれと似たようなことをしている。

誰かと会ったとき、その人の印象を何となく感じが良い、悪いと思ったことがあるはずだ。
フト感じるものこそ大事にしてほしい。
あなたの魂が教えてくれるときもあるので、直感を大事にしていくといいだろう。

あなたの意識はどこに属しているのだろうか。
それが分かれば、自分の意識をどうして行けばいいかが分かるはずだ。
人の意識は、波動振動、アカシックレコードリーディングによる意識測定で出てくる。
不思議なことだが、私はこの意識測定でほとんど間違うことはないと思っている。

本当は、もっと深いことも分かることがあるが、それは公表できないものが多い。
人は、自分の意識まで騙せる人はいない、また本当は心もそうだ。
ただ、心はいろいろなことを自分に思い込ませたり暗示をかけたりすることは出来る。

どんなに飾り繕って、表面的に人を騙せても、その人の本心は出て来るのである。
とにかく、自分の意識を知ることは意識成長の目安になる。
少しでも意識について本当のことを知っていけば、どんな人も意識成長はするものだ。

導きの一本道 ~ダウン症とアルビノの人たちの根本意識 2013/06/02

サイト「無限振動パワーの世界」の謎が謎でなくなるとき・・・振動の神秘!
ここにアルビノとダウン症の人たちの意識を調べた結果を載せてある。
すでに目を通した人もいると思う。
今回、何故このような人たちの意識を再度説明しようと思ったか、それにも意味がある。

肉体と意識の違いをはっきり理解するために、今回はそのことをいろいろ説明してみたい。
彼らの容姿(形態)は、肉体レベルから見ると遺伝子疾患や染色体異常によるものだろう。
肉体的側面から言うと、このような医学的判断の説明は受け入れるしかない。

ただ、人間は肉体とは別に意識というものがある。
この意識に注目した場合、肉体の形態と人間意識を同じレベルで判断していいのかとなる。
この内容が分かると、一般的に思われていることとは大きなギャップを感じるだろう。

この誰もが気づけないギャップを知ることが出来たのは、波動振動測定のおかげである。
人間本来の価値は、物的なことよりその人の意識にあることはこれまで何度も言って来た。
聖人聖者方をみても、人間本来の価値は意識にあるというのは疑う余地もないだろう。

あなたも、今聖者方の意識に向かって勉強している段階にいるということである。
今回は、意識と肉体の違いについて、この人たちの意識を参考に説明してみたいと思った。
その前に、慣れていないと、ちょっと気持ちが悪くなる話だが解剖学の話をしてみたい。

医学の解剖学の本は、カラー写真で本物の死体の解剖の一つ一つが詳細に載っている。
もちろん、顔まで写っているのだが、頭の骨を外して脳を見えるようにしているとか。
独学だが、私は医学の解剖学や病気に関することを長い間勉強していた。
夜中の1時過ぎ頃からこのような写真を見るのは、最初かなり緊張したのを覚えている。
これにも慣れて来ると、夜食を食べながらこのような写真を見ていても平気になっていた。
別に頭がおかしくなった訳では無く、これも意識訓練として同時に進めていただけである。

解剖された死体の肉体の塊を見ることに、だんだん慣れて来ると何かが違うと感じて来た。
それは、「肉体のどこにその人の意識が入っているのだ」ということだった。
人間は、いや動物もそうだが、表面の皮を一枚剥げば、ただの骨と肉の塊にすぎない。

細かい話をすると長くなるので、ここではそれ以上の説明は続けられない。
このようなはっきりとした意識の目覚めは、私をより意識の世界に集中させていった。
真理の世界を目指している修行者に求められるのは、意識と肉体の分離である。
これは遠い過去から一環として変わらない、これが根源的執着の原因でもあるからだ。

この理解を通して、もっと拡大した意識に繋がる霊的法則や生命に入っていけるだろう。
真に物事を考えたいのなら、物的の中ではなく真理(霊的)から見つめることである。
これについての答えはすでに出ている。

長い歴史、人類は今日まで命を繋いで来たが、未だ明確な答えも出せず混乱の中にいる。
知識の集積もいいが、その応用の仕方までは知らないようだ。
物事の正しい使用法を知らないのは、根本にネガティブ意識があるからでしかない。

アルビノやダウン症の人たちの意識は、このような人たちと比較すると本当にすばらしい。
少なくても、この世では優秀とされているネガティブ人よりは、神に近いところにいる。
アルビノやダウン症の人たちの今生は、最後の潜在的なネガティブの処理の人生だ。

難しい内容かも知れないが、私は魂意識の霊的法則からそう信じている。
彼らの意識は、今の意識からもう二度と堕落することはないだろう。
特にダウン症の人たちの意識は、気づかなくても周りの人たちに愛のままであることだ。
彼らの今生は、頭脳や知性など、またこの世的人生なども対して重要性はない。

魂(神)の愛を表現するには、一般的人間性などは邪魔になるだけだ。
彼らは、悟り系を通した意識向上ではないが、愛の意識的理解はこれで充分なのだろう。
意識測定で感じるのは、ダウン症の人たちの意識はやさしさと愛そのものである。
アルビノの人たちは、ダウン症の人たちと違って知性には問題ないと思う。

彼らは、悟り系だから、まだ自己コントロールが出来ている意識にあるのだろう。
アルビノの人の意識は、悟り系でも純粋意識に近いといった方が良いかもしれない。
彼らの通すべきことは、今の容姿(肉体的形態)でも自分を崩さないことだ。

そして、自分のすばらしい意識に自信を持つべきだと言いたい。
アルビノやダウン症の人たちは、自己意識の最後の仕上げで今の形態にいるのである。
医学的に遺伝子疾患や染色体異常による肉体の中にいるが、意識の質は全員同じだ。

人間は、人種や種族によって同じような形態に集まっているが、意識はバラバラである。
それを考えると、全員が同じ意識の質、レベルということも不思議である。
医学的には、遺伝子疾患や染色体異常がこのような意識を創るとでも言うのだろうか。

神秘医学を知らない肉体重視医学でも、そこまでは主張しないだろう。
アルビノやダウン症の人たちは、今生が地球最後、輪廻はストップだと私は思っている。
P4~5、これで充分だ。
これからもいろいろな形態のポジティブ人間が出て来る可能性があると、私は思っている。

もちろん、反対のネガティブ性の強い人間にも言えるだろう。
これからの時代は、すごい世の中になっていくというのは前々から言っている。
いずれ霊的法則の究極、ハルマゲドンのことも話すと思うが今は結論だけを言っておく。
この地球はネガティブ人のものだ。

これが霊的法則の結果だ。もっとわかりやすく言うと・・
いつか地球最後の日が近づいた時、そこに残っているのはネガティブ人だけだということ。
過去、世界中にいた先住民をどんどん追いやって今の世界に君臨している現代人。

急速な勢いの科学進歩はすばらしい、人間はすばらしい、とこのような人たちは言うだろう。
本当かな?
私はネガティブな人が重要ポストに就いていなければ、と思うことがある。
もしそうであれば、科学は最低今の倍は進歩していると思っている。

すべての善いものを失わせるのは、ネガティブ意識なのである。
このことがはっきり自覚出来れば、意識の向上進化も早いのだが・・

導きの一本道 ~ 「神の臨在感」、自分も神の中にいる 2013/05/25 

どんなすばらしい千、万の言葉より、一回の体験でわかる。
初めて触れるその感じを、「神の臨在感」というには何かためらいがあるかもしれない。
しかし、その体験は、絶対言葉では表現出来ない本当に初めて感じたことには違いない。

それと似た感じはこの世にはない。
それは人間の意識の中だけに現れるもので、それに触れるチャンスは誰にでもある。
神の臨在を感じるにしても、人によってその種類が少し違うかもしれない。
その感じは、無数にある神の属性の一部かもしれないが、神の臨在感としていいだろう。

自分の意識内でしか体験出来ないことだから、人が感じた臨在感の質は誰も分からない。
しかし、臨在感の体験がある者同士なら、その感じはどういうものかはわかるはずだ。
私は「あるがまま」といった感じも、神の臨在感に入れていいと思っている。

パワースポットで感じる内的感動や打ち震えるくらいの大感動も、神の臨在感の一部だ。
厳密には、臨在感はこの世的なものから感じるものではないが、これも内的意識の作用だ。
高級意識、高級振動に触れる、それは霊的なことに気づいていく準備になる。

臨在感を感じる、それはいつなのかを知ることは出来ないが、これだけは突然訪れるものだ。
この内的感じは、それに触れれば誰でもすぐわかるくらい何もかもすべてが違う感じである。
人間は根本意識の部分では神と繋がっているから、神の感じに反応出来るのである。

それまで、神が何であるかを分からなくてもだ。
その感じは、神という言葉を抜きには語れるものでは無いことに不思議を感じるだろう。
その後、全員とは言えないので99パーセントと言っておくが、大変化が起こるはずだ。

それは、自分の人生の見方、考え方に大きな変化が訪れるということになる。
これだけは、神の臨在感を体験した者しか理解しようがないと思っている。
しかし、人は意識向上の段階を上がっていけば誰でもそれに近い感じの体験が始まる。
これも魂からの援助、導きで霊的法則の一つである。

この神の臨在感を体験することだけは、魂(神側)が決めることなのである。
魂においては、私たちの内的意識のすべてを知っているのは当然なことである。
では、神の臨在感について、もう少し突っ込んだ話をしてみよう。
神の臨在感、その内容や感じの説明というものは、どこにも書いていないだろう。

私の多くの神の臨在感の体験は、あくまでこの世の言葉に落とした説明になる。
間違っても、その説明内容と同じものとは捉えないでほしい。
また、表現自体は霊的なことなので矛盾することもあるので頭に入れておいてほしい。
神の臨在感を体験した瞬間は、自分の意識はその感じのみに引き込まれている。

あまりにも衝撃的で驚きと信じられない思いで、舞い上がっているのかもしれない。
または、本当に奥深くから込み上げてくる喜びの戸惑いなのかもしれない。
とにかく、それは突然来るので、何の判断も出来ない自分にとっては最高のパニックである。

良い意味でのパニックを体験するのは、これ以外には考えられない。
最初は暴れたくなるくらい、すべてが満たされた最高の状態になったのを覚えている。
この感じを何度か体験するうちに、少しは落ち着いて感じられるようになって来た。

それからは、神の臨在感にも種類や質を感じ取れるようになった。
やはり、霊的な段階にも種類や質があるということである。
種類や質は、この世レベルの心では明確で分けやすいが、霊的になると言葉がない。
最初の頃に感じた神の臨在感は、これが地上天国か、神の国かと思ったほどだ。

その質が上がると、ここは霊界かと思うようになった。
もしかすると、霊界の入り口に無意識的に足を踏み入れていたのかもしれない。
私が体験した神の臨在感の最高意識は、ここまで話した内容のかけらもない世界だった。
その感じは、今ではほとんど残っていないが、それを体験したということは覚えている。

このような感じは、間違っても脳の勘違いで創られるものではない。
何故なら、脳は肉体の一部で物質だからである。
物質の限度を知ると、意識向上に対する考えも変わり、大きく飛躍する何かを掴むだろう。
真理、霊的なことを物的方法で何とか解明出来ると思っている科学者がいるのには驚く。

そのような科学者の頭や意識は物的だから、仕方ないと言えばそれまでだが。
もう少し、神の臨在感の質について話してみよう。
神の臨在感は、すべての人にとってまったく新しい、初めての霊的体験になる。
だから、その感じの質についても、「初めて知る」といったことになる。
その質には段階があるが、初めは自分が受けられる意識レベルに合ったものになる。

自分に合ったレベルといっても、それがどういうものかを今言えることでもないが・・
すべては意識段階によるのであって、自分の意識の準備、ネガティブ性の克服次第だ。
すごい意識レベルでなくても、魂の援助として臨在感に近い感じを体験する人もいる。

しかし、それを偶然体験したとは、考えることは出来ない。
神の臨在感と偶然、その接点を考えることは不可能だ。
要は、いつでもあなたと神(魂)は、何よりも近くにいるということである。
望むことは、どうしたら神の臨在感を体験出来るようになるか、だと思う。
私は、いずれこの体験が出来るようになるために・・、その話をしているのである。

それには、そのきっかけになることの体験、その積み重ねしかないと思っている。
難しい表現だが、そのきっかけとなるものに大きなヒントが含んでいるのである。
いつもと違う感じは、何らかの次なる体験のきっかけやヒントを含んでいるものである。

しかし、この個人的きっかけの話は、その話を聞かなければ次のことが言えない。
簡単に言えば、良い感じを体験したなら、忘れないうちに意識化することである。
瞑想でもその意識集中でもいいから、その対象となる感じを内的に拡大していくのである。

それをとことんやる。
それが次なる体験を呼ぶ基盤となるのである。
やはり、この内容の話は難しい、参考になればいいのだが。

導きの一本道 ~ 「神の臨在感」、神がそこにいるとは・・ 2013/05/16

神が何であるか、どういう形、色、姿、質なのかなどは誰もいうことはできない。
また、神が何であるか、これも人から教わって知ることはできない。
真に神を知る、神に近づくことが出来るのは、ただ個人の意識を通してのみ可能である。

この世で知る神、この世で聞く神の話、この世で見る神の造りものは、すべて象徴である。
神の臨在感に触れると、幻想の神々は一瞬にして自分の中から一掃されるだろう。
神の臨在は、この世にあるすべての霊的知識を集めても感じることはできない。

神の臨在を感じることが出来るのは、たった一つ、自分の意識の中だけである。
人間であれば、誰でも神の臨在感に触れることは可能である。
しかし、それには「どうやって?」といった方法などはない。
誰がいつ、神の臨在感に触れられるかは、誰も分かることもできない。
神の臨在感を体験したければ、そのための準備が必要なだけである。

そのための準備が、真理霊的方向の意識の勉強である。
この真理霊的方向の意識の勉強は、過去から修行者や求道者のやっていることでもある。
各宗教には様々な修行法があるが、私は霊的理解と意識訓練のみでそれを可能にしている。

この意識の勉強、修行の中で誰もが求めているものは、神の臨在感に触れることだろう。
人がどんなに勉強や訓練、また難行苦行をしようと、必ず壁やつまづきが出て来る。
その壁の背後にある意識を知ると、神の臨在感を体験しやすくなるのである。

その壁の背後にある意識を分かりやすくいうと、クリシュナの本からも説明出来る。
「自我の終焉」は、その壁の背後にある意識、この世の観念からの脱却を説明している。
その結果、クリシュナは「あるがまま」の意識を理解出来ると言っているのである。

クリシュナの「あるがまま」は、私から言えば神の臨在感を体験するための入り口である。
精神世界では、この「あるがまま」を非常に都合良く考えている人もいる。
この世に通じる言葉の意味で、高い意識レベルを理解しようとしても無理である。

一般の人は、国語辞典に載っている言葉の意味で、真理を理解しようとしている。
すべてのつまづきは初歩からで、原因も初歩レベルでこれを超えない限りは厳しいだろう。
神の臨在感は、具体的に分かるように話すことはできない。
とにかく、それについて私が体験したことをいろいろ話すしかないのである。

本来なら、その体験自体、その感じも言葉では表現出来るものではない。
それでも、私はこれまで何とか言葉で表現することをやって来た。
神の臨在感については、説明の順番なども要らないので思いつく順に書いていこうと思う。
まず、神の臨在感はどういう感じがするものか、それから入っていきたい。

その感じは、この世にあるもので表現出来るものは一つもない。
例えであっても、またその感じに似たものでも、この世にはそのようなものは一切無い。
地上で最高に良い感じがするところは、超自然的な力を感じるパワースポットだろう。

それよりもっと良い感じと残るものは、何かすばらしいことに内的反応する大感動だろう。
神の臨在感とパワースポットの違い、神の臨在感と大感動の違いはこうである。
パワースポットで言うと、深い瞑想と瞑想に入る前のリラックスとの違いである。
大感動で言うと、自分と一切関係のない力の顕現と感情に触れた内的作用との違いである。

神の臨在感とは、霊的エネルギー、魂からのエネルギーを感じることでもある。
そのエネルギーが何であるかなどを考えること自体、ムダなことになる。
この神の臨在感は、自分の意識で感じるのだが、それをどこで感じているかもわからない。
ただ、そのエネルギー、ここでは神の臨在感を霊的エネルギーとして思ってもいい。

そのエネルギーは、自分のすべて、内的意識から肉体のすべてまで全浸透しているのである。
この神の臨在感の中にいる瞬間は、これ以外の他に一切意識が向くことも無いのである。
「ただ神と共にいるのみ」これがすべてである。

ちょっと厳しい見方をすれば、それが神の臨在感であるかどうかは断言出来るものではない。
しかし、そう言うしかない、本当に信じられないといった感じしか他に何も浮かばない。
だから、臨在感、圧倒的なエネルギー、絶対的意識力となるのである。

私は、神の臨在感だからといって、うっとりとした癒やし系の感じだとも言っていない。
神の臨在感はエネルギーでもあるから、霊的最高バランスエネルギーと言ってもいいだろう。
神の臨在感は、一つだけの霊的エネルギーの感じではない。

神の臨在感にも、種類、質、そしてエネルギー的段階もある。
私は、これまでけっこうな数の神の臨在感に触れてきた。
神の臨在感には種類、質があると言ったが、悟り的意識段階によっても感じが違うのである。
これまで私が感じた最高の神の臨在感は、まったく違う世界という表現を超えた世界だった。

もしこの先あなたが神の臨在感に触れたとき、あなたにも判断出来るように説明してみたい。
神の臨在感とは、この世の言葉で表現すると、安心、至福、歓喜、大悦、愛となる。
このような感じの言葉になるが、しかし本当はこの言葉から来る感じとはまったく違う。

この言葉の前に、超を10個つけても表現出来ないくらいのすばらしさを感じるだろう。
すばらしい感じという言葉も物足りなさを感じるくらい、まったく違うものである。
今言ったことは、一応、一般的想像の延長上で「何となくこんな感じ」というレベルである。

しかし、どんな人もこの感じに触れたときは、こう思うだろう。
「こんな感じは、これまでの人生で初めてだ! 本当の神って、すごい!」
「これが神というものか・・」
「感謝という言葉も出したくないくらいだ、本当にありがたい」
「宗教も、神の教えも、何もかもすべてが違う!」

「無智、あいまい、真理に遠いものなどは神意識には無い」
「この世は神の世界とはまったく関係ない、神の感じとは似ても似つかない」
「これが神の臨在か、これが神なんだ、この中を生きていくだけだ」
「もうこれ以上の言葉も出てこない」

次の言葉が、あなたの内的意識を刺激するきっかけになってくれればいいのだが。
私が神の臨在感を、素直な思いで表現するとしたらこうなる。
「絶対超越の中に抱かれる」
それが自分のすべて、すべての過去生までに浸透し、丸ごと抱かれている感じだ。

これが長年の意識の勉強の後半で体験させてもらった、数多くの霊的体験からの思いだ。
どんなにがんばって、これに近いものをこの世で探しても絶対見つけることは不可能だ。
だから、この世の意識範囲では触れられないし、また潜在意識でも無理である。

さらに上なる意識になると、無意識レベルだが霊界に近い振動でなければならない。

導きの一本道 ~この世に、どれだけの本物があるのか・・ 2013/05/07

意識の様々な質やレベルについては、これから先少しずつ説明していこうと思っている。
その前に、「神」を知ろう。
私もあなたも、いや誰でも最終的に目指すところ、行き着くところは神しかないだろう。

神以外は2の次だ、3次元存在の意味は、人間の神性復活以外に何も無いのである。
私たち人間には見えない霊的という世界も、神以外には何も無いのである。
私はこのことについて、たくさんのことを話すことができる。
神と私たちは、どのようにつながっているのか、神が顕現する精妙な意識の道がある。

それを分かりやすく例えるならば、振動の段階で説明しても理解しやすいだろう。
波動は霊的レベルでは低い部類なので、霊的な説明においては登場することはない。
この説明も近いうちにすると思うが、それを理解するにも意識の仕組みは基本となる。

すべての存在の最高位に在るのは根源神、そして私たちはその根源神の一分身である。
しかし、この偉大なる一分身である内的自己意識に気づいている人はほとんどいない。
この偉大なる自分の魂を無視しておいて、他の神を追い求めている始末だ。

さぞかし、自分の魂(神)はがっかりしているだろう。
神ががっかりするというのはあくまで例えで、本当はそのような意識などはないが・・
ただ気づかない、目覚めない人間に、神は最後の「愛」を示していくことになるだろう。

気づき、目覚める人にとっては、それは真の「愛」だが、とことん物的な人には・・
神の「愛」も分からない貪欲で物的な人には、それは超苦しみにしか感じないだろう。
神の「愛」はすでに人間意識に浸透し始めているが、それでも今はまだ2割程度だ。

神の愛が、この先3割、4割と増していくと、この先の時代はいったいどうなるのだろうか。
これからのあなたは、この神の一分身である自分の魂を目指して行くだけである。
「神の一分身である自分の魂」それが今、そしてこれからあなたが目指す神だ。

誰かが言った神ではない。
それは、イエスでもシャカでも、その他の〇〇神でもない。
この世には、神はたった一つしかないのだ。
それが、「神の一分身である自分の魂」ということだ。
信じられないかもしれない、またどうやって信じればいいかわからないかもしれない。

初めは誰も分からない、分かる方法も知らないだろう。
人の本質は「神の一分身である魂」でありながら、意識的ギャップは宇宙大そのものだ。
「自分を通して分かるしかない」、これは誰に対しても当てはまる言葉である。
「神の一分身である自分の魂」を知りたい人は、たった一つの方法しかない。

それが「意識の勉強」だ。
精神世界でも宗教でもない、何か他のものに対する信仰でもない。
また、祈りでもない、感謝でもない、このような行為は超基本で当たり前過ぎるものだ。
それは自動的同調でなくてはならない。

祈りや感謝の行為は、人をポジティブ方向や神的震動同調に向ける作用はあるが・・・
注意すべきことは、自分の魂(神)に対しては絶対作為的にならないということである。
神のために何かをしていれば救われる、守られる・・、誰が言ったのか、それは本当か。

私はそんなことを思ったこともしたことも、それは一度もない。
私はそのようなことに関する話も、一切信じないでここまで来た。
「そんな程度で、神が喜ぶ訳ないだろう」という思いが、私をウソから離してくれた。
私が他の神に見向きもしないで信じてやって来たことがある。

それは、「神の一分身である自分の魂」が喜ぶことをする、ということだけだった。
これまで一度も、イエスやシャカ、その他の神にも手を合わせた記憶などは無い。
初詣、これも行ったことは無い。

自分の先祖の墓に行っても、手を合わせたことは一度も無い。
それでも、私の「神の一分身である自分の魂」は、これまでずっと私を援助してくれた。
これが証拠である。
私は今、超最高の、至福の意識の中にいる。

この、今の意識は二度と失うことも低下することもない。
意識の段階を通して、自分の未熟性を一から高級ポジティブに変換させて来ただけだ。
いつも今が最高の満足状態の意識の中にあるから、過去の大変だったことは忘れている。

ここまで来るには、けっこうドロドロした苦しみの中の毎日で、その30年間だった。
一人で勉強するということはどういうことか、これもいずれ話すつもりだ。
この内容からも、「意識の勉強」のポイントが掴めると思っている。
よく過去の思い出話で「あの時が一番良かった」と言う人もいるが、私には一つも無い。

私は楽しかった思い出も無い、「寂しい人」と思われるかもしれない。
しかし、これも私が目指して来たことなのである。
過去のどんな時より、いずれ「今が一番最高」と言い続けられる自分にするぞ、と。
その他にも、決めたことがあった。

「あの時、あれをやっておけば今頃・・」こういう言葉も絶対言わない自分にしよう。
このような言葉は、この勉強を始めて今まで、一度も言ったことも思ったこともない。
そのくらいやって来た。

まだやり足りないくらいだ。
1日の時間が24時間と限られているので、これだけは仕方がない。
これから、このような意識の仕組みも話していければと思っている。
だから、この言葉の感じを、少しでもあなたに知ってもらいたいのである。
思いを込めて、あなたに伝えたいと思っている。

ただ、どこまで伝わるかだが・・
それは、神の臨在感。

導きの一本道 ~真の「自己意識に目覚める」スタートを切ろう 2013/04/30

長い間、私はこのブログで「意識の勉強」という言葉を使ってきた。
もう完全に、この言葉はあなたの意識に浸透していると思っている。
このブログは、最初から意識のことだけを説明するようにしてきた。
それも極力、潜在意識に結びつくようなことを中心に書こうと思っていた。
ブログを始めた時から、本当の潜在意識を理解するきっかけつくりが目的だった。

潜在意識中心の説明は、HPの「潜裡眼」を始めた時から意識していた。
当然、ほとんど無視されることも予測済みだった。
当時は、潜在意識を理解するのは難しいということも分かっていたのである。
それより、10年くらい継続して書いていれば、何とかなるだろうと思っていた。

「何とかなるだろう」というのは、潜在意識に目を向ける時代が来る、ということである。
意識の勉強を継続しながら、その過程をしっかり残していくことを考えていた。
これは生きた良い証拠になる、一貫したものが残るだろうと読んで書いていたのである。

現実にそうなった。
努力の結果で、私自身も最高に満足出来る意識というものを実感している。
自己満足でもいい、超最高の自己満足の境地である。
振り返ってみると、「潜裡眼」から始め、「七光導」そして「ポジティブ意識の知恵」

今年で10年経った。
その間の、私自身の意識向上、気づき、不思議体験などの変化の段階も書いてきた。
すべてありのままの証拠となるもので、この道を通ることは向上の早道だろうと思っている。

私がはっきり言えることは、意識の基本理解なくしては絶対意識向上は無いということだ。
潜在意識から無意識、そして霊意識。
気づきからヒラメキ、そしてインスピレーション。
不思議体験から神秘体験、そして霊的体験。

波動から振動、そして霊的エネルギー。
拡大意識から無限意識、そして永遠意識。
混沌世界から根源神、そして永遠神。
現在、精神世界で説明されている潜在意識についても、これまで何度か書いてきた。

大して使いもののならないことに夢中になっている人を気の毒に感じる。
意識の勉強が何であるかをまるで知らないために時間の浪費にも気づかない。
どうすれば、いかに早く効率よく意識の成長が出来るかは誰も知らない。
ほとんどの人は知らないはずだ、たとえ高い地位に就いている僧侶でさえも・・
また、簡単要求は、考え方、捉え方、また自分の無知にも気づかず認めないからだ。

こういった思考になるのも、心や意識の教えを無視している学校教育の弊害なのか。
人間意識から離される教育で作られるエリートが、人間最高レベルの頭脳なのか。
真のエリートもいるが、お粗末エリートはその何倍も多いだろう。

知識蓄積型エリート、それはそれで・・それよりあなたは神性人間を目指してほしい。
とりあえず、哲学や精神世界や宗教につながる意識の勉強について話そう。
この世には、2つの勉強方法がある。
一つは、これまで私やあなたがやって来た、「覚える」といった勉強法だ。

もう一つは、これが私が言ってきた「意識の勉強」というものだ。
この意識の勉強は「覚える」といったことではない。
最初は、知識から勉強するということでは、どちらも同じかもしれないが。
「覚える」勉強法は、知識から知識蓄積のみが目的である。
「意識の勉強」は、知識から意識、要は自分自身の意識にすることである。

知識から知識蓄積も、その知識は自分の意識になることでは同様だが、違いはある。
その違いは、この世的か霊的方向かの違いである。
もっと分かりやすく言えば、この世はどこまでも限界内のことでしかない。
霊的方向は、この世レベルからの脱出である。

霊的方向を分かりやすく順に並べてみるとこのようになる。
この世にある知識、潜在意識の理解、真理の理解、各種内的神秘体験、霊、神方向。
この世的意識にとどまる人生か、霊的意識(神)方向に向かう人生か。
人間の意識としては、どちらの方が神から要求されるだろうか。

イエス、シャカ、聖者方は何をしにこの世に来たのだろうか。
地球旅行を満喫するために来たのか・・
宗教を広めるために来たのか・・
「意識の勉強」についての説明は、これからも続けていく。
しばらく、これまでとは違う感じで、あなたの意識に刺激を与えていきたいと思っている。

「意識の勉強」の材料は、あなた自身の意識ということも忘れてはならない。
あなたの意識は、意識成長のための充分なテキストになる、充分過ぎるくらいだ。
真剣に、少しずつ自分のペースで進めていけば、意識成長しない方が超不思議である。

導きの一本道 ~どうすれば、望むような意識成長が出来るか! 2013/04/20

今回から、しばらくの間「導きの一本道」というテーマで続けていこうと思っている。
内容は、初歩の人にとっても大事な意識の勉強の仕方に関することになる。
意識の勉強の仕方といっても、段階的に教えることでもその具体的方法でもない。

これから説明していこうとする意識の勉強の仕方は、大多数の人が知りたいことだろう。
それは、誰も知らない視点、意識をよく理解した私の真実の説明ということである。
早速、その一歩を踏み出してみたい。

私がこれから話していこうと思っている意識の勉強の仕方の基本部分からである。
意識の勉強の仕方といっても、私はこのことを最初から知っていた訳ではない。
今、私の意識の研究や霊的世界の探究は、30年を超えたところに入った。
しかし、私のこの世的な意識の勉強、探究は、大体済んだと思っている。

本による勉強もほとんど終わりと思えたのは、3年前くらいからだろうか。
その頃から霊的体験も深くなり始め、それが確信に変わって来たのが一番大きかった。
そしてついに、意識の世界の全体像をまとめて説明することが可能になったのである。

それは「一と全」、私が話す内容はどんなことでも、最終的にはつながっていることになる。
その大事なポイント、エッセンスをこれから話していこうと思っているのである。
早速とても大事なポイントを言おう。

「人のせいにすることはやめることだ」まずこれである。
相当、反論を浴びせられそうな言葉だが、これは真実だ。
もちろん、人のせいによる迷惑な影響を受けることはある。
私は、自己コントロールに関連した意識成長の意味を知ってもらいたいと思っている。

これは、真理を理解するために、目指してほしいことの一つである。
もし、この意味を知って、さらに自分の意識が上がれば真の意味が分かるようになる。
いつまでも人のせいにしているようでは、けっして真の意識成長は望めないであろう。

どんなに知識を集めても、無理は無理、これは霊的法則だからである。
霊的法則に反して突き進むことは不可能、それでも神に勝てるとでもいうのだろうか。
真理は真理だ。
霊的法則は真理だ、神だ。

素直に受け取り、その中で理解出来るように努力する、これだけだ。
素直になるという言葉も要らないくらいだ、「これしか無い」の一言だけでいい。
ほとんどの人はこの意味も知らないため、それこそムダな抵抗をしながら生きている。

ムダな抵抗を一生続けても、1万回このような意識で輪廻を繰り返しても同じだ。
何故、これ以上の説明が必要になるだろうか、「これしか無い」。
しかし、正しくても人は納得出来ず、疑いと受け入れの迷いでどうにも出来ないでいる。
だから、その思いを払拭するために、いろいろ説明して解放に向けて行きたいと思っている。

こういうことの理解が意識の勉強だから、精神世界や宗教は私の中では要らないとなる。
この内容だけに関わっていると終わってしまうので、またいつか出て来たときに説明する。
ここでまとめると、「人のせいにする心は自分の意識の未熟性によるものだ」となる。

今の私自身も、この言葉を完全に無くせるように、いつも自分を見張っている。
自分自身を知ること、いつもよくしっかり見つめること、これが未熟からの脱皮につながる。
「絶対、今の自分の意識は未熟すぎる」、これがスタート点と思えたらすばらしい。

次にいこう。
あなたは、これまで意識のことや精神世界や宗教などをずっと勉強して来たと思う。
その期間が20年以上の人であっても、その内容をまとめることが出来るだろうか。

10年前後の人はどうだろうか。
この勉強が、どこに進んでどう役立つかまで、まだはっきり掴めていないのでは、と思う。
精神世界や宗教を20年以上勉強している人でも、全体をまとめるのは難しいだろう。

だからといって、この先この勉強をしていても何も分からないままだということではない。
私のセッションでは、まずそのことから説明しているが、その内容は膨大だ。
このブログでも、その一部を説明することになると思うが、相当な回数になるだろう。

やはり意識の勉強では、どうしてもここが大きなつまづきの原因となるところである。
この点は、とても重要なことなのでもう少し話しておきたい。
意識の勉強から真理の勉強に入り、充分な理解に達するには一人では無理である。

こう言われると、勉強する意欲が薄れそうになるかもしれないが、その先を知ってほしい。
これは意識の高いレベルの話であって、ある程度までは自分でも意識を高めて行ける。
ある程度のレベルというのは、本でいえばクリシュナムルティーの「自我の終焉」である。

また、真理も入り口レベルまでなら一人でも出来ると思うが、それ以上奥には入れない。
何故なら、真理の中は意識的感じ、それも霊的感じを要求されるからである。
努力を重ねて一人で進めて行っても、死ぬまでそこまで到達出来れば・・いい方である。

言葉では真理と言っているが、まったくこの世レベルの意識とは違うと思っていい。
この世レベルの意識から抜け出た意識状態が、真理を理解する段階と思ってほしい。
今の私自身は、真理のかなり深い部分まで入っている。

しかも、ここまで誰の指導も受けずに一人でやって来た。
だから、ここまでの内容なら、いろいろと指導し、教えることは出来るのである。
「一人でここまでやって来た」といったが、これは表面的なことで言っているだけである。

はっきり言うと、もし本当に自分だけの力で、となると、それは完全に無理だったとなる。
どういうことなのだろうか。
今私がはっきり言えることがある。
それは、どんな人も自分一人で最高意識に高めることは、「絶対不可能」ということだ。

日本で言えば、最高意識レベルの空海であっても例外ではない。
以前このブログに書いた、「自力と他力」の中にもヒントはある。
私のことで言うと、これもいつも言って来た魂の援助が私にはあったからである。
もう一つ、何回か本当に大事なところで意識の中に現れる聖者の教えもあったからである。

これが無かったら、今の私は絶対無いということは、変な言い方だが自信を持って言える。