生命意識に生きる

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生命意識に生きる(49)~「つまづき」、それは真剣に勉強している証!2017/07/28

今回は意識の勉強についての話ですが、その内容は誰でも直面する「つまづき」ということに焦点をあてて説明していきたいと思います。
勉強の「つまづき」ですから、その要因はいろいろ考えられます。
ここでは、あくまで哲学、宗教、精神世界(霊的な面だけ)、その他真理や本質、神などに関する勉強に限っての説明と思ってください。

説明の前に、断っておきたいことがあります。
普通レベルの人を相手に言っても仕方ないことですが、単純なあがきとして、「勉強方法なんて人それぞれなんだから・・・」という考えだけは捨てた方が賢明だと思います。
そうではなく、ここでは少し私の言うこともよく考えてほしいということです。

意識の勉強は、この世の勉強と違って見えない世界を相手にしている、それも永遠、真理、神といったものを相手にしていると思ってください。
ここまでオーバーに言うことはないのですが、実際そのくらいの拡大意識を持っていなければ、「ただの○○」で終わります。
○○は、この世の観念から出る言葉を当てはめれば何でも当てはめることが出来ます。

そのくらい、いつも言っていますが、真理とこの世(観念)はまるで違うということです。
もう一つ大事なことですが、甘い考えも捨てた方がいいでしょう。
精神世界のハッピー感覚では、まず無理でしょう。
神相手です。

だからといって、それは宗教ではありません。
神という意識、神の場の霊的意識、その場の意識と完全同調、一体化しているイエスや釈迦や聖者がたの意識を相手にする、そういう勉強を対象に言っていると思ってください。
この世のハッピーと真のハッピーを同等に捉えると、意識向上は難しくなります。

感情ではないのです。
真理です。本質です。
それ以外はいらないのです。
いらないものを大事にしているのがこの世で、けっして意識進化には目を向けないのです。

ここまで言えば、大体分かると思いますが、「つまづき」の原因はこの世、観念にしかありません。
最初のうちは仕方ないというしかありませんが、いつまでも仕方ないでは進まないのです。
「つまづき」は当然ブレーキで、それは障害ということも出来ます。

意識レベルを上げるには、どんな人もまずこの世が障害となるのですが、この仕組みが理解出来ていないとかなり苦しい勉強になるでしょう。
その勉強がイヤなら、物質最高の人生を選ぶしかありません。
当然こういう人の大事なもの、目的は当然お金になります。
「人間、お金が無ければ生きて行けないじゃないの」といった、こんなレベルの発想も超えましょう。

どんな人にとっても、初めての宗教、精神世界、意識の勉強は、新しいチャレンジになります。
もちろん、何もかも分からないことだらけというのも当たり前です。
私も最初は何も知らない状態からスタートしました。
読んだ本は少ないと書いたことがあります。

その読んだ本、研究した本は、聖者レベルの本しかありません。
一般レベルの本は最初から読んではいないのです。
とうぜん、難しいなんていうより、苦しいの連続です。
また、私のやって来た勉強は、知識集めではなく意識の中を動くという勉強でした。

この意識の中を動くというのが、真の意識の勉強、また向上が早くなる勉強だということが、数年前にはっきり分かったのです。
ですから、この世界の勉強が難しいといって悩むのではなく、どうして分からないか、出来ないか、進めないかということを先に知ればいいのです。
でも、どうしてそれを分かることが出来るのか、それを最初から分かれば苦労しないでしょう。

こう言うと、なるほどそうか、となるかも知れませんが、よく考えてみるとこれも違います。
この基本を知ることも大事な初期の勉強です。
要するに、最初は理解ではないのです。
このような勉強は、最初はいろいろなことを理解するための考えかたの準備が大事なのです。

まず、この点を知って勉強をして行けば、余計なことで悩んでいる時間は少なくなるのです。
まだ、人が気づかない大事なことがあります。
それは、この勉強をするには、真理方向の勉強にはエネルギーが必要です。
なぜなら、最初は振動レベルが合わないために少し疲れるかもしれません。

真理側というのは、この世に無い振動を含んでいるので、内的意識がついて行けないのです。
大体ここで分かれます、だんだん狭い道になっていくのです。
それは、一生懸命やるか、真剣か、要するにそれに向かっていく情熱や熱意はあるかです。

これが無い人は無理、またそういう人に無理に教えることも意味ありません。
そうじゃないという人は、そういう人相手にとことんがんばってみてください。
自分のことでも、精一杯だと思いますが。
一応、ほとんどの人のやることは本をたくさん読むことから始まります。
これは、大事というより、まずそれしかありません。

ただし、本を読むことで、そこに究極的答えを探そうとすることはやめた方がいいでしょう。
高いレベルの本以外は、ほとんど同じようなことしか書いていないでしょう。
それは、書いてある内容が少し違っていても、レベルは同じだという意味です。
何年間かけてある程度の量の本を読んだあとは、今度は自分が何を目指したいか、何が本当に知りたいか、一度よく考えそういうことに焦点を当てるといいでしょう。

そして、その分野を徹底的に勉強、探究すると、少し本物が何であるか、偽物はどういうものであるかが見えて来ると思います。
これでも分からないという人は、焦点の当てかたや目標があいまいなのかもしれません。
ここまで来ると、精神世界では知っているというレベルになり、すぐにでもセラピストになれるかもしれません。

セラピスト、スピリチュアルカウンセラーといっても、このくらいの人が多いでしょう。
しかし、意識の勉強、真理の勉強はこの程度じゃ、まだまだといったレベルです。
ほとんどの人は、冒頭で言ったこのあたりで「つまづき」を感じるのです。

このあたりで、自分はすごいレベルと思うより、この「つまづき」を感じるほうが霊性は高いと思ってください。
まだ勉強の浅い人には、ここまで理解するのも大変だと思いますが、この話を理解出来る人はもっとイヤになるくらい大きな壁を目の前にしたことがあるかもしれません。

ここまで来ると、それは「つまづき」ではなく、大いなる進化への壁という意味になります。
これから「つまづき」の内容に入って行きますが、今回はとても全部説明出来ませんので続きは次回になります。
まず、この世界をある程度理解出来た人が、次の勉強を進めていくうちに出て来る思いとはどういうものでしょうか。

実際、それが大きな壁となって、その時から進化の段階として次から次へと出て来るのです。
そういう時の思いは、「果たしてこれでいいのだろうか、これで正しいのだろうか」という判断の迷いで、それが次なる意識向上のポイントになるのです。
そのとき、一歩方向を間違えれば本来の道からどんどん離れて行きます。

ここはとても大事なところです。
こうして、堕落していった宗教者や求道者、精神世界の人たちも多くいるのです。
要は、「検証」です。
自分が進んで来た道が「これでいい」と言える確信があるか、それとも迷いの中のままかで、この先の向上の度合に大きな差が出るということです。

私もこのような壁を何度も通って来ましたし、苦しい時期が長く続いたこともありました。
今振りかえって見れば、一歩間違うとすべて終わりという瞬間もありましたが、自分の魂や見えない援助によって救われて来たのです。
やはり、自分一人では無理ということも知っています。

私は実際にそういう自分の体験や努力で知ったことを、このブログやセッションなどで話しているのです。
今の私以上の意識、その先については保障はありませんが、今の自分までの意識ならいくらでも参考になるだろうと思っています。
話は飛びましたが、人は結局いつも今の自分に確信を得たい、それじゃなければ、けっして自分は間違っていない、そのどちらかが欲しいのです。

それがないと、先に進むにしても迷いの意識がある以上、かなりのブレーキになるということも理解出来ると思います。
ここまでやっている人は、たいしたもので、自分の将来を楽しみにしていいと思います。
確信は、何も正しいことだけが問題となるのではありません。

この辺の勉強になると、何が間違っているかに気づくことや、その間違いの影響を知るだけでも大きな成長につながるのです。
正しいことばかりだけの道がスムーズに行くのではないのです。
失敗も、わき道に逸れるも、気づけばすべて大きなプラス材料になるのが、このレベルの意識で、それを冷静に捉える意識でなければなりません。

意識の道、意識の成長向上の段階は、私は潜在意識までならはっきりと示すことは出来ます。
その方法は、全くこの世のやり方とは違うのです。
意識自体をいろいろな種類や段階に分けられない人は、精神世界を勉強しても自己意識成長の段階がはっきり見えないということになります。

それで、自分は成長した向上したと言っても、まだまだのレベルです。
霊的進化は、死んでも終わらないくらい永遠で、このくらいでいいも無いのです。
はっきり言って、真理方向、神に近づくということは、甘い考えでは無理なんです。

神を甘く見られるというのも、私からみればあまりの驚きで「すごい!?」となりますが。
次回は、願望実現にも関係する「意識で動く」とはどういうことかを、なるべく分かりやすく説明したいと思います。

生命意識に生きる(48)~知っていますか、過去、現在、未来の見方を! 2011/07/21

「もう遅い!」という言葉は言いたくはないが、本当にみんなどう思っているのだろうか、と考えたくなります。
何のことかも言っていないので、「何が!」となるでしょう。
最近言ってきたことです。
真理方向に向けての自分の気持ちのあり方です。

3週間くらい前になりますが、久しぶりに私の魂から示唆がありました。
その内容をはっきり示されたというものではありませんが、私は気持ちの引き締まるような思いになり、かなり考え込んでいました。
その時私が思ったことは、「覚悟!」でした。
要するに、そろそろ覚悟しなさいといった内容に感じたのです。

また、この2,3日、私の内的意識に押し寄せるような感覚も続いています。
そのせいで、私は自分の理性が少し乱れ、かなりのミスを連発してしまいました。
私にとって、それは普段あり得ないことです。
ミスといっても、誰かに迷惑をかけたというものではなく、自分のドジです。

その押し寄せて来る感じというのは、「何ともいえない不安感」です。
それは、私自身のことではなく、その前の「覚悟!」とつながるものだと解釈しました。
「いよいよ、か!」
やはり、人類は目覚めの段階に入らざるを得ないのか、といった気持ちです。

私の中で、「黙示録の内容に変化あり、その進行過程に大幅な変更あり」と、このような感じが自然に浮かんで来ました。
それについて、早速分析してみました。
「なるほど、その方がいいかもしれない」と、思ったのです。
それは、黙示録の計画では、徐々に世界は悪化、超ネガティブの方向に向かって行くという内容でしたが、それが変更されたのです。

その変更は、とてつもない悪化がまず先に来る、そしてそれはしばらくの間続くということでした。
それから、少し落ち着いて、人々は何が本当かを見つめる時期に入り、またそれから一気に最後の決断を迫られるということになりそうです。
少し落ち着いて、といっても今の状態から見ると、それでも最悪状態なのですが・・

私は、これからはこのような未来について、たとえいろいろ分かったとしても、もう余計なことを言うのはやめようと思っています。
今まで言って来たことで十分だと思っています。
霊的法則はいつも働いています。
その霊的法則は、絶対公平で平等です。

人々は、今の自分の状態をみて、周りと比較していろいろ不平を言います。
私は、「さんざんこれまで好き勝手なことをして来たくせに!」と思っています。
神はどんな人にも、「自由に好きなようにやっていい」と、これまで許して来たのに・・

それでも霊的法則に生きるのではなく、まだ自分の都合のいいことばかりを望む、そしていつまでも神を利用しようとする。
バレバレだと言っているのに、まだ期待している。
人々に、これからは霊的法則的にも、神の「もう無理だ!」を教えなければならないのです。

それは、「神に反することばかりでは・・」ということをです。
霊的法則、イコール神です。
それを何とか出来る、神に勝てると思っているのでしょうか。
また、神に隠れて・・とか、霊的法則に引っかからないように・・とか、心のどこかにそういう思いがあるのでしょうか。

私はもう少し神、霊的法則を真剣に見つめ、考えてくれればと本当に思います。
それがはっきり分かれば、誰も神に反することは本当に馬鹿げたことだと思えるでしょう。
霊的法則に適った生き方とはどういうことでしょうか。
それは宗教的でも精神世界的でも、道徳的でも、その他何でもないのです。

それがどういうことかがはっきリ分かれば、ごくごく自然で本当に気楽な普通となるでしょう。
その意識とこの世の意識とはまったく違うものなのです。
どちらが正しいかではないのです。
そんなつまらない考えに囚われ足踏みしているから、どんどん神から離れていくのです。

大体、この世の中から正しい、矛盾の無い答えを探そうとする自体、それはこの世的永遠という言葉に騙されているのと同じことなんです。
哲学は思考を鍛えるにはいいのですが、真理から見るとご苦労さんの世界です。
この世の言葉の意味では答えは出ないのです。
人が目覚めるのは、何かこの世では考えられないものに意識で触れるときです。

それは、まず自分から出る内的一歩の神でもいいのです。
それが、この世ではないものの「何か!」に意識が向いた、惹かれたというだけでもいいのです。
この世から、少しでも自分の内的意識が別な方向に動けばいいのです。
それは真理方向ですが、その一歩が無ければ、次の一歩は絶対見えないのです。

霊的なもの、真理、本当の意識に触れるには、思考だけでは絶対無理なのです。
もうはっきり言いたいですね。
絶対、絶対、絶対無理だと。
ここまで言っても何かに期待する人、やってみなければわからないと甘やかす人がいます。

その「やってみなければ・・」という言葉の中に、どのくらいの覚悟とやる気があるのか・・
うまく言葉を並べて何とか自分を正当化しようとしても、バレバレです。
この世レベルの精神世界なんかは、全部見抜いていく方法はいくらでもあるのです。

それでもやれるというなら、堂々とやってみればいいだけですが、結局は何もしないでしょう。
どうして、ここまで神と人間は離れてしまったのでしょうか。
本当に、この世に騙されなければ・・、誰でも早く気づける意識にあるというのに、残念です。

この世とは人です。
みんながみんなを騙している、騙し合っていることが普通となりました。
普通が一番と、のんびりしている人の何と多いことか、「大丈夫かな?」も、もう遅いか!
この数十年の間に、日本人はすっかりアメリカ的意識になってしまいました。

嫌なものは見ないように、早く忘れるように、早くポジティブに切り替えるように、そしていつも気持ちを明るく、ハッピー・・に。
こういうと、「これの何が悪いのか」と食ってかかられそうです。
とてもいいことじゃないですか、私もしっかりこうなれば最高だと思います。
しかし、違うでしょう。

意識の深いところから見ると、まったく違う自分を装っているだけではないでしょうか。
逃げてる、しっかりと本質を見ようとしない、ポジティブになればすべては変化すると思っている、明るい気持ちになるように強引な自己暗示の繰り返しで潜在意識をマヒさせている。

その結果がハッピー、今のアメリカがその結果のハッピーになっていますか。
物事の本質を見ない、宗教も名ばかり、神に誓うことをみんなの前でやっておきながら平気でそれを破る。
それ自体もみんなが認めて、そんなことは当たり前といった雰囲気。
よく見れば、何なのアメリカの神は?? アメリカ人って。

その結果が、今のアメリカ、それに追従して来た日本人はこれから・・・
もう逃げ場はありません。
前から言って来ました。
自分のネガティブからは絶対逃げられない、最後は自分で自分のネガティブを何とかしなければならないのです。

それがだんだんひとり一人に迫って来ているのです。
たとえ、それが今すぐ起こらなくても、いずれ早いうちに必ず来るのです。
神と戦う者はどういう人間かは決まっています。
すでに真理はその準備に入っているのです。
今の生活がどうのこうの、それを言えるのも今のうちかもしれません。

人はそうして、長い輪廻、先延ばしで生まれ変わりを続けて来たのです。
私も、本当に反省をしてようやく生まれ変わりに終止符を打てそうです。
ここまで神を無視して来たことに対する反省は、真剣に真理に向かうこと、それ以外に何があるでしょうか。
私は真に自分のすべてを、自分の魂に委ねているのです。

あなたの魂も、いつもあなたのすぐそばでささやいているのです。
「捨てなさい!」と。
でも、みんな「嫌だ!」と言って、これからもずっとこの世です。
みんな本当に知らないのです。
この世にも、自分の中にも、何一つ根本から信じられるものは無いということを。

ずっと「イヤだ!」を通して、結局黙示録の最後まで行きたいのでしょうか。
「覚悟!」
「もういつでも大丈夫です」と言えるまで充分に分かりました。
ありがとうも感謝もないです。
それが「一体」

生命意識に生きる(47)~あなたが何をすれば、神は喜ぶのか! 2011/07/14

私は仏教のことは大体のことしか知りませんが、真理の方向という点では聖書と同様だと思います。
聖者方の言葉も同じです。
これらの内容のほとんどは、けっして道徳的なことを説いているのではないのです。

真理と比較すると、道徳的なことは人間がネガティブの波に押し流されないようにするための防波堤のようなものかもしれません。
道徳的というのは、あくまで真理の前にあるクッション的要素に過ぎません。
あまりにも道徳に縛られると、真理どころか自分の自由さえ失うことになりかねません。

簡単にいえば、真理は意識で道徳は思考で理解していくものとなります。
また、別な見方をすれば、真理は永遠で、道徳は時代と共に変化して行くものです。
全部がこうだとは言いませんが、この世の常識や人間心理に関わるものは、真理ではなく道徳ということになります。

このような本などに書かれてあることは、当然自分の理解の範囲で解釈するしかありませんので、どうしてもこの世的になるのは仕方ありません。
なかには、どうしてもその深い意味でしか理解出来ない言葉もあります。
そういう時人は、それは理想だよ、といって、さも自分が正しいかのような言い方をします。

結局、現実的には無理だから理想の世界にしてしまうだけなのですが、意識は違うのです。
ちょっと前になりますが、フト頭に浮かんだことがありました。
それは、人は真理の本の読み方を知らないのではないか、ということでした。
当然、誰でも最初から深い意味など分かるわけありませんから、そういうことを対象に言っているのではなく、あくまで意識的な見方のことです。

まず、真理は真理、この世はこの世という意識の分け方で読んでいるか、ということです。
真理的な意味が分からなければ、この世の意味で解釈しようとし、それがこの世で不可能と思えばそれを理想として、真理を特殊なものとしてしまうのです。
こう言えば、何かが違うということに気づく人もいると思います。

その本を書いた人、その人が言ったことなど、その人の意識がその本に入っているのです。
聖書はイエスの説いた真理の振動を含んでいるのです。
おそらく仏教は、イエスの説いた真理に向かう意識訓練的なことを説いているのではないかと思っています。

何故なら、かなり高い意識レベルの般若心経を読めば分かるからです。
他の聖者方の本にも言えます。
真理の道に入るために、この世のネガティブ、観念、無知といったことを気づくように書かれた本が多いからです。
それはけっして霊界がどうのこうのではないのです。

それらしいことを書いてあったとしても、やはりそれはこの世の人が真理の世界に気づくために言われているだけで、けっしてそんな程度の世界ではないのです。
たとえ、聖者レベルの人が書いた霊界の世界であっても、この世ではそれは忠実に再現出来るものではないのです。

ですから、私たちは霊界がどうのこうの、次元がどうのこうのと夢中になるのではなく、しっかりそのような意識に触れられる自分を用意することが大事なのです。
今のあなたの意識よりたった一段高い真理レベルでも、今のあなたにはそれを理解することも意識することも出来ないのです。

この仕組みをしっかり分かると、次元がどうのこうのと言っている人よりは意識のレベルアップも早くなるのです。
あまりにもこの世とかけ離れたことを言うと、当然人の意識回路は飛んでしまうでしょう。
なかには次元や生命の樹などカバラの研究をしている人もいると思いますが、私はそれは一番後に回しているのです。

これもよく考えれば分かることで、結局時間の使い方にもつながります。
自分の意識レベルをしっかり知れば、今やるべきこと、土台作りは何が必要かが分かるのです。
次元を例にとれば、たとえば霊界の4次元、その上の世界もまだありますが、霊界にも入れない意識でこの世より高い次元をどうして知ることが出来るのでしょうか。

それより、霊界を知る、神を知る、そのために必要なことをすることが優先順位から考えても正しいと思うのですが。
ただ、興味を持つとか知識的に知っておくということは当然それも必要なことですが、要は探究の土台を知る、作ることが一番大切だと思います。
ちょっと精神世界を知っている人が、次元的な研究をしてかなり詳しい本を出したとしても、おそらく私はその本を読むことはないでしょう。

何故なら、おそらくそのレベルの知識を集めたに過ぎないものだからです。
本当のことを知らないで書く本など、暇つぶしなら読む人もいるかもしれませんが、知らない人が読めばまた一つの決め付け的印象が入るだけです。
現在の精神世界は、そのような本がけっこう多いのではないでしょうか。
ちょっと文才のある人は、たくさんの本を読むことで、その内容を自分なりにアレンジすれば一冊の本くらいは作れるのです。

ここにも波動とか振動が入るのです。
本を開けば、その人の意識レベルが振動をして分かるのです。
何も知らない人が、知ったかぶりで書いた本ほどつまらないものはありません。
ただ、初歩の人にとってはそれも勉強の一歩ですが。
とにかく、真理方向に向けて一生懸命がんばっている人は、もう一度勉強の仕方を考えてみるといいと思います。

長い間勉強をしてきたが、今ひとつ自分が成長しているかどうか分からない、という人は何か勉強のやり方、それは間違っているとはいいませんが、ポイントがズレているかもしれません。
私がこれまでの30年間の意識の勉強から、今の精神世界や宗教を見ると、本当にこれで勉強しているのかと思うことが多いのです。

これについて、人が私のことをどう思っても関係ないのですが、この真理の勉強は焦点の当て方が最も大事なことになるのです。
それが、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く・・・」で、言い表されています。
私はつくづく思います。

今回の福島原発事故で関わっている専門家やマスコミ関係、指導的立場の人たちをみると、ここまで真理とかけ離れているのか、と唖然とします。
意識の低級性と頭の良さは関係がないのです。
それも知識を集めただけでなる頭のよさ、それは記憶の倉庫としては大したものですが、人間としてはさびし過ぎる味気のないものです。

それにしても、真理と大きくかけ離れた人の何と多いことか。
本当にこのままで大丈夫なの、と心配したくなります。
この世と真理側は、全く違う世界なのです。
何が違うかというと、ただ一点、ネガティブ性の度合いです。
真理との比較になれば、完全にこの世のすべては失格です。

ほとんどの人は真理側の言葉や勉強は、とてもいいことだということは知っているのです。
ただ、動けないのです。
その道に入れないのです。
何故か、簡単です。

弱いからです。意識が弱いからだけです。
それも仕方ないと、ここでは言っておきます。
何故なら、この世の生活が、ネガティブに関わらなければならない生活があるからです。
この世と真理側、その意識はまるで違うのです。

ほとんどの人は、この世のネガティブにどっぷりつかりながら、真理と言う言葉に、甘い勘違いに焦点を合わせているだけに過ぎないのです。
だから、いつまでたっても分からない、それだけでなく動けないのです。
しかし、いつかは大きい気づきに直面させられるのです。
今回の福島原発事故もその一つですが、また元の世界が恋しいらしく焦点がぶれて来ています。

だったら、また! その目覚めのため! それが必要なんですか。
今目覚めなければ、意識を正さなくては、神から最後の白い杖まで取られてしまいますよ。
今のあなた!
いつかは周りの人、一人でもいいですから真理のいい影響を与えられる人になってください。

あなたは神に何もしなくていいのです。
ありがとうも感謝も、その他の祈りも何も要りません。
そんなことは、神もあなたに要求しません。
大事なことは一つしかないのです。
それは、あなたはどうすれば「神が喜ぶ」ことを出来るかだけです。


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コメント

おはようございます。土曜日セッションありがとうござい... (moon)
2011-07-19 09:02:42
おはようございます。土曜日セッションありがとうございました。あれから両親の家に行き次の日父の 市場に行きたい の一言で富良野から函館の朝市に行き先変更でした、天気も良く楽しい旅行でした 急でしたので何と日帰りで行きましたが びっくりしました!延べ11時間運転してた事になりますがヒーリングカードを仙骨と首に貼って行ったところ疲れが無いのです、ちょっと自分でも信じられない感じです 今までの体力では無理だと思いました ありがとうございます!後は タロットで出た良い結果を楽しみにまた勉強続けたいと思います。ヒーリングカード凄いですね。

早速ヒーリングカードを使っていただいてありがと... (F・H・S)
2011-07-19 21:26:45
早速ヒーリングカードを使っていただいてありがとうございます。
いい結果が出てよかったです。
このカードは遊ばせておくのはもったいないですから、いろいろなところに当てて活性化に活用してください。
また、わからないことがありましたら質問してください。

生命意識に生きる(46)~「神に近づく」、そのために自分を準備しましょう。 2011/07/06

人はどうして神をを知ることが出来ないのでしょうか。
どんなに神のことを詳しく書いてある書物を読んだとしても、結局分からないとなるのは何故でしょうか。
神とは何か、まずそれを、たとえ漠然と知るだけでもいいのですが、それも出来ないのはどうしてでしょうか。

「たとえ神を漠然と知るだけでもいい」というのは、本当の神に近づいた考えだけでもいい、それだけでも何も知らないよりは自分の内面が違って来るのです。
それは、宗教に入っているから、精神世界の勉強をしているから神に近づいているということとは違うのです。
あなたがまず気づかなければならないことは、神は偽物とは全く接点がないということです。

神を求めるということは、何かとの交換条件の思いがあってはならないのです。
一般の人の思いからいえば、いつも一心に拝んでいるから、感謝ありがとうを毎日唱えているから、霊的勉強をしているから、誰よりもお布施を多くあげているから・・
神側からみれば、「だから何なの・・」と、私は勝手にそう思っています。

この世の人は、真の「引き寄せの法則」の意味も知らず、単なる「引き換えの法則」にどっぷりつかっています。
本当に多くの人は、何もしないで簡単に実現出来る方法が大好きなんです。
ちょっとそんな話でもあれば、すべてを後回しにしてそれに夢中になる用意は、いつでもです。

何回も同じ繰り返しをしていても、まったく学習能力の欠けている人の何と多いことか。
この意識の奥深くにあるのは、やはり努力をするのはイヤ、必ず何とかなる方法がある、もしかしたら誰かが・・、結局白昼夢、夢と期待が自分の人生を支配しているだけなんです。

焦点が違う意識、それにどうして神が同調出来るのでしょうか。
期待という祈りで何とかなるのなら、今ごろ世界は地上天国でしょう。
でも、今の世界、そしてこれからは、最悪のゴールに向かう坂を転がって行くだけなんです。
のん気な人は、まだ期待の中で、「人間はそこまで愚かではない」と言うでしょう。

こんな言葉は、私は今まで何回も見聞きして来ましたが、結果は見て感じての通りです。
誰も気づいていない大事なことがあるのです。
たとえこれから人類が相当な努力をして世界をいい方向に変えて行こうとしても、人間ひとり一人が持っている意識的負債のことまで考えられるかどうかということです。

何も考えていない人にとって、何もかもすべては遠いことなんです。
せめて自分から、自分の意識だけはしっかり成長させて行けば、まだまだ救いはあるのですが。
救いの方向は神を理解することからです。
神を理解するというのは、哲学でも、宗教でも精神世界だけの勉強でもありません。

その他、神秘や霊的なことの勉強だけをすることでもありません。
神秘や霊的なことは、もっと自分の意識的基本が出来、理解が増して初めて出来ることです。
何でも順番というものがあるのです。
初歩の第一歩は、自分や社会、世界、そして歴史を大きく見渡して、何が正しくて何が間違っているかを正しく見つめることです。

はっきり言って、何が正しくて何が間違っているかの見方も、ほとんど出来ていないのです。
これじゃ、いくらでも言葉巧みに誘導されれば、うまく騙されてしまいます。
正しく見つめるというやり方は、この世の言葉の意味だけでは答えが出て来ないのです。

それは、道徳ではなく真理、まず一段上の真理側の意味との比較から見て行けばいいのです。
そうして出た内容自体も、すべての答えではありません。
大事なことは、理解の段階、その進め方を知ることにあります。
意識が成長する、そのやり方を知ればいいのです。

どんな人も、あとは自分でやっていくしかないのですから、自分の頭、意識の動かし方を知ることは絶対の基本となるのです。
それが少し出来るようになった時、そこで初めて「神とは何か」のいろいろな話を自分の中で見つめ検証して行くのです。
もちろん、この世で言われている神ではなく、真理としての神についてです。

ここまで出来れば、これまでの曇ったあなたのフィルター、心の目からうろこが何枚も剥がれ落ちていくのが感じるでしょう。
これで初めてあなたも、神に意識を向けることが出来るようになるのです。
ここまで理解出来たあなたは、それからは神に対する意識もガラッと変わるでしょう。

どういう風に変わると思いますか。
あなたは初めて「真剣」という意味が、あなたの内から強くこみ上げて来るのが分かるのです。
それは何故か! 真剣でなければ神と同調することは出来ないからです。
この世でいう真剣と、理解出来た意識が内から感じる真剣とでは、まるで振動が違うのです。

そのとき、あなたは昔の自分がやって来た「夢と期待」に対して、もう二度と同じことをやるもんか、と言うでしょう。
この世の無知を知り尽くした者は、間違った観念が自動的に剥がれ落ちるのを待つのではなく、自ら捨てることをするのです。
まずは、この土台を作ることだけを目指してください。

あとは、どんな波が来ても、たとえいったん沈んだとしても、必ず魂の援助でまた本当のことに触れさえてもらい浮上して来るでしょう。
これが意識の強さです。
何も無い人と、知っている、気づける人との違いで、それが深い意識に根を張っているのです。

どんなにがんばっても、いきなり神に触れるということは法則上無理なことです。
また、人が求める神というものがどういうものかを知ることも大事なことです。
それは単なる比較を使うことで、この世の観念が真理に比べいかに未熟かを知るためです。

未熟に生きることが幸せと感じない自分に気づきます。
神に触れるということは、人が考えるようなこの世、物的な幸せの実現ではないのです。
人が神を知ることが出来ない理由の一つに、もっと大事なことがあります。
それは、人は今の自分の意識、要するに分かりやすい言葉で言うと、「自我」というものが障害となっているのです。

こういうと、「そんなことは知っているよ」というかもしれませんが、もう一歩進みましょう。
「自我」というのは、自分のネガティブ性を指しているのではありません。
多くの人の意識は、すでにネガティブ性で生きていますから、いまさら「自我」がどうのこうのではないのです。

もちろん、ネガティブ性は大きな障害ですが、ここで言う大事な理由というのは、今の自分の意識で、今の自分の意識を保ったまま神を知ろうとすることが問題だと言いたいのです。
この考え、この意識が無くならない限り、また気づいて変えない限り、同じ繰り返しの神の求め方はずっと続いて行くということです。

「自我」イコールネガティブですが、それは悪という意味ではありません。
神と反対ものを持ったまま、神を知ろう理解しよう触れようとしても無理だということです。
今の自分の意識というものをよく理解出来れば、それがどうしてかがはっきりして来ます。

まだ物質的な自分が・・、それが今の自分です。
その物的意識の自分は、はっきり分かりやすいモノを求めるのも自然なことです。
神が形のあるもの、目に見えるものであれば最高でしょう。
しかし、神の性質上というか次元とか霊性という面からしても、こういう顕現はないのです。
神は実在です。

すべての次元は、この実在の中にあるのです。
このすべての次元を人はどのようにして意識出来るのでしょうか。
すべては実在の中ですから、その中には無というものもありません。
この世から見れば、4次元は振動的にもまったく触れることが出来ませんので無となるかもしれませんが、何も無いという世界は神の中には無いのです。

ですから、瞑想で無になるという言葉も物的霊的で考えるとそれぞれ別な意味があるのです。
はっきりいって、瞑想で何にも無くなった自分がいてどうするのでしょうか。
人が今の自分という心で神を思っても、またその神が何かであったり、イメージの中にあったりした場合でも、それは神とは違う何か別なものに集中しているということになるのです。

神に集中するには、神がこういうものだと決め付けることから離れなければなりません。
誰も、神はこういうものだと言えないはずです。
聖者方でさえも、だれも神はこうだと見える形を示したことはないのです。
当然です。

聖者方が記した本の中の神は、顕現された属性的意味合いのものです。
神は全次元に顕現している、すべての段階の意識に浸透している神意識、振動です。
私たちが思える本当の神は、これが基本です。
これを自分の意識の中でどのように拡大していくか、その神をどのように意識化していくか、その長い集中訓練の中で神と触れる回路を着実に開いて行くのです。

それを簡単にやる方法を知りたいのでしょうか。
あったら、私にも教えてください。
それが本当なら、これまでの私の意識的智恵を全否定する用意は、いつでもありますよ。
そうなれば、私の意識を創り直してくれたキリスト、仏陀、聖者方の教えも全否定になります。

生命意識に生きる(45)~人は心から自由を求めながら、ずっと不自由の中にいる! 2011/06/30

聖書にこのような言葉があります。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」

イエスの言葉は、人間と真理の関係を説いているのであって、古いも新しいもありません。
聖書の読み方、理解の仕方がわかれば、霊的法則というものも納得出来るでしょう。
「狭い門から入りなさい」というのは、何もわざわざ狭い門を探して入れということではなく、どうにも出来ない人間意識の弱さ、ネガティブ性を知った上で注意していることです。

人間の意識、その中でもネガティブ性に関して言えば、どこの国であってもいつの時代であっても大きな違い、差はないのです。
聖者方から見れば、人間意識のネガティブ性というのは、完全に把握されていることなんです。
この世のあらゆる事象に対する人間の反応は、今も昔もほとんど変わりがないのです。

ネガティブ感情は別として、この世は感情表現が大切にされています。
感情表現はある程度必要ですが、それが極端になるとその裏には、何かに対する執着が隠れているのですが、普通は気づくことはないでしょう。
私としては、意識の中のこの世の感情はほとんど無くしてきたのです。
日本人は、「和」を大切にするからみんなと一緒に行動する、居ることを美徳とする、と思われるところもありますが、本当にそうなのか。

厳しいかもしれませんが、私はそうは思わない、本当は「臆病」なんでは。
いや、いつの間にか臆病になってしまったのかもしれません。
そして同じ思いの仲間がたくさんいれば、自分は正しいと勝手に思い込むのです。
「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」

人間意識のことなどはそれほど重要視されなかった日々の生活に追われていた昔と違って、現代はどうでしょうか。
意識革命という言葉はかなり前から出て来ましたが、それも一般の人にはあまり浸透して行きませんでした。
その結果は、今です。

一応、精神世界なるものは随分浸透しているようですが、まだまだ、どこか日本人はのんびりしています。
それとも、あきらめたのかな、結局、なるようになると思っているのか。
しかし、霊的法則は容赦なく自分自身に降りかかって来るのです。
「(神を)知らなかったから」で許されるとでも思っているのでしょうか。

個人のすべては、その人の魂がすべてを知っているのです。
閻魔大王の正体は、それは自分の魂と思えばいいでしょう。
きっちり、寸分の狂いもなく、あなたの意識を完全公平に裁いてくれます。
それでも何とかなると思えますか。
この世は苦しい、それ以上に来世も、ここまで考えたことがありますか。

来世は遠い世界ではないのです。
すぐ次のあなたの生、人生です。
今生で、生まれ変わりをストップ出来れば最高ですが、次は地獄のような世界が待っているのです。
「しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。」

神に通じる門、要するに自分の魂との回路を開くということですが、それに気づき受け入れるまでは不安定な意識が続きます。
だから簡単で安易な道を選びたくなるのが、人間心理というものです。
しかし、よくこの言葉を理解して見れば「命に通じる門は・・」と答えが書いてありますよ。

それでも、あえて挑戦したいのです、人間は。
簡単で安易な道探しを、無駄な努力をしてまで。
大いなる夢と希望を持って、死ぬまで探究して行ければ大したものですが。
こんな繰り返しで、人類はとうとうここまでやって来ました。
聖書で理解出来ないなら、とうとう次は黙示録の世界か。

すでに、完璧に人間意識が知られていたとおり、人はそのままその世界に入っていくのか。
誰も抵抗しないのか、そのままそんな世界を受け入れるだけなのか。
抵抗出来る力は、人を救える智恵は唯一つ、それは真理の力だけです。
それでも、この世の観念が普通で正しいと信じていたいのか、真理よりも、神よりも。

いずれ、どんな人も、みずから完全な証拠となる答えを受け取る時が来ます。
黙示録に、このような感じの言葉があります。
そのときは、何を思っても、どんなに反省しても、それでだけでは「もう遅い!」と。
そのとき、そこにいる人の叫び声が、今私の内側で聞こえます。

何と言ってると思いますか、想像してみてください。
「それでも神か!」です、どこまで行ってもダメか。
「それを見いだす者は少ない」
誰がどんなにその道を示しても、それをしっかり見つめて行こうとしない限り、その代わりは誰もやってくれないのです。

「チャンスを逃すな!」そのうちやるよ。
何年後?振り返ったとき、その時始めていれば今頃は・・・なのに。
結局、神がどうのこうのではないのです。
神がどうのこうの、それ、もっと後のことです。
まず、自分の意識をしっかりその道におかない限り、何も始まらないのです。

よく簡単に、「あなたはもうすでに神とつながっています」という人もいますが、その人自体神とつながっているのか、と質問したいですね。
何でも、冷静によく考え抜いてみれば気づけることはたくさんあるはずです。
宗教や精神世界に対して、私は言いたいことがたくさんあります。
それは、分析して見れば、おかしいことがたくさんあるからです。

人は、分からないから信じるのか、それともわからないから疑うのか、です。
これも分からない、要するに何をどう考えていいかを分からない人は多いのです。
あなたは私も疑った方がいいですよ、このことは前にも書いたことがあります。
何故なら、私を疑うということはきっといい勉強をすることになると思うからです。

ただ、何の土台もなく人のことを批判することは、とてもはずかしいことです。
しっかり本物意識を目指せるように、真理方向に入ってください。
まず真理に気づく方法は、真の言葉の意味はこの世的な言葉の意味とは全く違うということを知るといいでしょう。
言葉の意味についても、以前書いていますので、しっかり読めば分かると思います。

それは、言霊。
真理の言葉には、神の霊、振動が入っているのです。
この世の言葉は、その抜け殻です。
今の日本を例にとれば、政治家が何とか言葉の意味をあいまいにしてその場を乗り切ろうとする、お粗末さだけが目立つ言葉しか使えない、これがこの世的言葉です。

この言霊を含んだ言葉の意味は、誰かをつかまえて言うということではありません。
そうではなく、この言葉を自分の意識の中で使うことによって自分の魂との回路になるのです。
その回路もない、ネガティブな意識だけで神(魂)とつながろうとしても無理です。

神とつながる、触れるということは、深い意識でのことなんです。
どうして、そこに他人が入ってくることが出来るのでしょうか。
これは本人だけ、自分だけの意識の世界なんです。
これは孤独の世界なんです。
でも、人の言う、この世の孤独とは全然意味が違うということも分かると思います。

孤独に絶対的喜びがある、それに早く気づくといいですね。
あなたは、孤独の反対語は何だと思いますか? 最後に答えを書きます。
こんな全体的な意識に気づくにも、最初は大変だよ、少し勉強がつらいよ、というと。
即、「回れ右」これがほとんどです。

このような人は、自分が良くなること、良くなっていくことを信じられない人なんです。
焦点の当て方に、大きな問題がある人ということにもなります。
「大変、最初はつらい」何でもこんなことは当たり前だと思うのですが、それだけに焦点を合わせることしか出来ないのです。

ヒントは焦点の当て方、イコール言葉の意味の変化、それで一段成長です。
先ほどの問いの答えは「一体」です。 

生命意識に生きる(44)~神を知る、神に触れる、その喜びはどこから! 2011/06/23

神のことを「わかる」となるまでには、どのようなことを理解して行かなければならないのでしょうか。
神は宇宙にあるどんな存在より人間の意識に一番近くに在るといわれるのは、魂という神意識が人間意識と一体であるからです。
しかし、この「一体」ということを私が意識化している範囲で説明していくにも、大変時間がかかることです。

ここで勘違してほしくないことは、人間意識と一体といっても、それは物的人間意識ではないということを知ってください。
もし、物的人間意識が神意識であれば、すでに私たちは神と一体となっているからです。
神に一番近くいる人間ですが、しかし、人間にとって神は一番遠い存在なのかもしれません。

本当は、神は存在ではなく実在といいますので、そのように言葉を分けて使ってください。
神を「わかる」となるまでには、どうしたら、そのきっかけでも掴めるのでしょうか。
それは、「神を知る」ことが先か、それとも「神に触れる」ことが先かのどちらかになるのですが、どちらもとんでもないことに感じるかもしれません。

これも、スピリチュアル系では簡単に使っている人も多いと思いますが、新しい観念は新しい世界として映るのですから仕方ありませんが。
今言ったこと自体、この世的な発想では何のヒントも掴むことは出来ないでしょう。
一般人にとって、「神を知る」という言葉は本当の意味からするととても遠い言葉になります。

ましてや、「神に触れる」などというと、何を言っているのかそれこそ思考すら出来なくなってしまうと思います。
人々が、神、神と言う割には、本当のことは何も知らないということすら気づいていないのです。
それは神に関する本当のことを知らない、というならまだいいのですが、全く違うものを神としていることにも気づいていないということです。

「神を知る」でも「神に触れる」でも、これは意識の中でわかることですから、それは人によっても違いがありますのでどちらが先ということもないのです。
神を知る、触れるにも、障害となるものは沢山ありますが、大なる障害はこの世、観念です。
この世のことを頭に入れながら神を知ろう、考えようとするから、いつまで経ってもきっかけとなる何かに触れられないのです。

その触れるというのは、神ではなくヒント、気づき、発見というきっかけに過ぎません。
また、神というとすぐとんでもないレベルの力を求めるから、いつまでも気づけないのです。
「神とは何か?」簡単に言えば物質的この世と物的自分以外のものです。

ちょっと厳しいことを言えば、「人間はすばらしい」と思っているから神に近づけないのです。
私はずっと人間であることが情けなく思って一生懸命勉強して来ました。
神を「わかる」となるまでには、自分の意識が神意識に同調しなければならないのです。

当然、最初から神意識と完全同調なんてあり得ないことですから、無理なこともする必要はありません。
だからといって、自分の都合のいいように神を信じ、思い、祈っても、それはほとんど神に通じないということも知っておくべきです。
神意識と同調するということは、霊的法則との同調は絶対基本です。

霊的法則と言うと、とても難しく感じるかもしれませんが、霊的法則も意識にも段階があるように霊的意識レベルと対応していると思っていいでしょう。
どんなにあがいても、人がすぐ神を知ることも触れることも出来ないのは、順番を無視しているからです。
一切余計なことを考えず、またより道もしないでこの順番を知ることに努めれば、短期間にこの世を一気に離れることが出来るでしょう。

要するに、この世的無知な観念レベルから一気に上昇して、下界を見られるということです。
順番はこれまでも随分書いて来たことです。
まず、絶対的霊的法則を基盤に、意識の仕組み、霊的仕組みを理解することです。
霊的法則というと、霊界側、神だけのこと、超越的霊的仕組みと思い、それを知るにはとんでもない努力をしなければならないと思っている人が多いと思います。

ここで冷静になってしっかり見つめてほしいと思いますが、どんな物事でも理解するには順序があるのですから、霊的なことであっても同じことが言えるのです。
霊的法則と人間意識の仕組みと霊的世界の仕組みを知ることは、最終的にこの3つが一つの自己意識になるということです。

それで初めて、神意識との同調という段階に入っていけるのです。
そのあと、「神を知った」という意識が出て来るか、または「神に触れた」という内的体験的なものが素直に感じるか、ということになるのです。
そのとき、自分の内面から自然に喜びが湧いてくるのです。
しかし、その喜びは神が与えてくれたものではないのです。

私たちが神の何かを知ったり、触れたりしたとき、まず驚きというか超感動的なものが来ます。
それに触れたとき、その内的反応として出て来るのが喜びです。
この世で言うと、他からの感情的感動的喜びとでもいいましょうか、でもそれではないのです。

この喜びは自分の内的意識にあって、神意識に触れたときに出て来る特殊な反応なんです。
ですから、さらに高いレベルの神のことを知ったり、触れたりすると、前回よりもっとすごい喜びの反応が出て来るのです。
それは、自分の奥に在る霊的意識そのものの反応ということです。

神意識との同調、これを知った者は、神はこういうものだというのではなく、無意識的に神のことがわかるということになるのです。
それは、言葉で表現することが不可能、ということもはっきりわかるのです。
しかし、今まで知ることも触れることも出来なかった神に関わる話を、いろいろな角度から一緒に考えるようにしていけば、あなたの潜在意識も必ず反応して来ると思います。

無知はどこまで行っても、この線を越えることは出来ないのです。
しかし、霊的無知はこの世という範囲内においては、そういう自分を正常としているのです。
自分が正常としているこの世の観念からなる意識は、いつかは目覚めなければならないのですが、その時は喜びとは逆の苦痛を伴った気づきからということは仕方ないでしょう。

それでも、自分だけは何とかなると思っている人の何と多いことでしょう。
霊的法則上それは無いのです。
神の法則は公平なんです。
どんな人にも平等に、その人の意識レベルに法則は適用されるのです。
それが信じられない人は、この世だけ見て、周りと比較判断しているからわからないのです。

霊的法則、意識の仕組み、霊的仕組みを知らないとこの世の観念で見るしか、またそれですべてを決め付けるしか方法はないでしょう。
本当のことを知らなければ、疑うことも信じることも出来ないはずなんですが。
このように書いていますが、おそらくたくさんの質問をしたくなると思います。
しかし、私がどんな回答を出しても、誰もすっきり理解することはないと思います。

何故なら、霊的法則と人間意識の仕組みと霊的世界の仕組みの理解の段階で人は納得出来るようになるからです。
すべて仕組み、神も仕組み、霊的世界も仕組みが無くて、どう創られるのでしょうか。
ここまで書いても、まだ神とすぐつながれるから大丈夫と思える人がいるでしょうか。

仕組みです。
すべては、神も仕組みを創造し、その自分の創造した仕組みの中で、一定期間の永遠と一体化しているのです。
神自ら創造した霊的仕組みを、人間が何とか出来る、科学が何とか出来るとでも思っているのでしょうか。

全部、完全でなくても、この仕組みだけでも知るだけで、まずどれだけ自分が楽になるか。
この世は一体何をして来たのだろうか、とつくづく思いたくなります。
だれでも本当の喜びを感じることが出来るのに、どうして神とは反対のものを信じてしまったのでしょう。

これも、輪廻転生、多くの人が正常として来た人生、その因果法則をそのまま受け続けて来た結果と考えれば法則通りなんでしょう。
ここでいきなり話の焦点を変えてみますが、あなたは悪の意識がわかりますか。
では、超悪党の意識がわかりますか。
神を知ると同時に、その反対の意識もわかることが出来るのです。

この世は相対の世界ですから、神と逆の意識もあるのです。
最後に、あなたは悪魔の意識がわかりますか、悪魔って、ですか?
悪魔の意識がわかれば、地球の未来も予測可能でしょう。
こうやって、神ではないものを明確に識別出来る自分、そういう自分に意識を高めていくことが神に近づくことになるのです。

あなたの中から、神でないものを認め自分の意識からどんどん外して行けばいいだけです。
どんどん外して行くと、どんな意識的塊が出来ると思いますか。
それは、あなたのほとんど全部、となります。

生命意識に生きる(43)~「神を知る」それは神の概念に縛られていては無理! 2011/06/16

人々が何の悩みも苦労もなく平和で幸せに生きていられるときは、神のことはそれほど重要なことではないでしょう。
おそらくこのような時は、真剣に神の話しなどをすると鼻で笑われてしまうかもしれません。
しかし、いったん不安や恐怖に直面すると、何か見えない力、それはどんな力でもいいのですが、それにすがるしか方法がないのも人間です。

どんな最悪の状況にあっても、最後に神や仏に思いが向くという人は、根拠も無くただ神を否定する人よりはまだ霊性を失っていないのかもしれません。
そんな最悪な状況にあっても、それでも神は何もしてくれないのは霊的法則という絶対秩序があるからです。
神に近づく最短距離は、これ(霊的法則)をしっかり理解しその意識に生きることなのです。

その意識になるための心構を、私は自分の読み物を通して書いて来たのです。
あなたは神を知りたくはないですか。
知るといっても、これが神ですよ、ということでないことくらいは分かると思います。
神意識と触れ、だんだんあなたから神に近づき、そして神の振動になって行くということです。

そういうと、誰もが考えることは、「いつ、どのくらいで?」「すぐそうなるの?」です。
だからもっと世界の歴史を振り返って見て欲しいと思っているのです。
そのことにも、けっこう触れて来ました。
次のように言えば納得するでしょうし、どんな人の疑問にも答えることになるかもしれません。

あなたが非常に高いレベルの霊的性質を自覚しているなら、純粋意識というものがわかるなら、そして人間意識がほとんど理解できているなら、かなり早く神意識に近づけると思います。
今のことに自信が持てないなら、私と同様に真剣に意識の勉強するしか方法はないでしょう。

宗教や精神世界に触れている人は、特に霊的なことをバカにして生きている人よりは神に近づいているでしょう。
神から遠く離れている人のために、これからも神はネガティブを通して人に目覚めの機会を与え続けていくでしょう。
しかし、このような言い方は本質から言うと正しくはありません。

実際は、神はネガティブとはまったく関係していませんから、人間自ら作り出したネガティブによって自らを罰していくというだけです。
これも霊的法則の一つです。
霊的法則といえば、すぐ超能力に直結するものだと勘違いしている人も多いのです。

こう見ると、神は人間に何にもしないということが分かると思います。
これで本来のアセンションの意味も理解出来るでしょう。
一人一人の意識次第が、神と関われる条件だということです。
さらに言えば、神と関われるという前に、人はそのための必要条件を満たしていく意識作りが必要ということも理解出来ると思います。

何も知らない人間だけが、自分で作り出した神の概念の中で、一人芝居、時には妄想の一人相撲で汗をかいて苦しんでいるだけなのです。
意識の高いレベルからこの世、人間意識を見ると、実に狭い世界の中で輪廻転生を繰り返し、そして人生はすばらしいと言っている人が多いのも事実です。
人生がすばらしいかどうかは、この世だけを見ている意識では本当の答えは出せないのです。

神から離れた意識は、「井の中の蛙」的意識と同様なんです。
人生がすばらしいかどうかだけに焦点を当てる人は物的な人で、人生だけでなくいかに神に近づけたかどうかが、この人生を有意義に生きられたとなるのです。
これが宗教的という人は、もう根本から理性的に何も考えられない人だと思いたくなります。

神に関することは、もう従来の宗教的観念から脱皮していかなければならないのです。
いつまでも、宗教と神をつなげて考えることは、いったん捨ててみるのもいいのです。
宗教の中でも、真に神や仏の意識に触れられた人は、ほんの一部だと思います。

これからは、進化した意識の中で真理というものに触れ理解していかなければ、いつまでも古い意識を引きずってそれに振り回されて行くしかないのです。
人間意識の向上を考えた場合、長い時間をかけて来た結果が、今出ているのです。
その意識がまだ未熟と思えるなら、人類は意識の使い方を誤っているか、使いものにならない意識で生きているかのどちらかなんです。

これは神の理解を含め、人類全体の平和ということを見ても分かるはずです。
私は、そのようなものから出て来るものを初めから無視し、期待も持たなかったのです。
すべてを見わたし、意識そしてあらゆるもの全体を通して見つめないから、いつまでも本物が見えて来ないのです。

過去の伝統は、それはそれで先人の努力の結果ということです。
しかし、それが意識の進化に役立たなければ、私たちは別な道を探究するしかないのです。
全く進化のないものに流され、それに呪縛されている意識に、何故いつまでもおとなしく従わなければならないのでしょうか。

それが、ただ流されて行く、ただ流れの中に生きていくという人生だと思います。
「もうこのままでは」、と長い輪廻転生の中で、もうそろそろ気づきのチャンスを真剣に自分に生かし、大きく拡大した意識の自分を目指して行ってもらいたいと思います。
その機会というのは、ほとんどが苦痛や悲しみを通して来ることが多いのも事実です。
そうでもしなければ、人間はとことん物質に囲まれて幸せに生きることだけに意識が向いていくからです。
ボォーとしていても、嫌だといっても、何とか逃れようと思っても、時代的に無理です。

これからの時代は、いよいよ神が現れて来る世界になって行くのです。
と言うと、あなたはどのような神を思い浮かべるでしょうか。
自由に、出来る限りあらゆるイメージの中で理想の神を作り出してみるのもいいと思います。
しかし、それとは反対に、まったく別なことも考えて見ると、どうなるかです。

私たちは、神について冷静に素直に、また醒めた見方で考えて見ることも大事だと思います。
本当のことを言うと、私たちは神を、はっきりこれが神だと知っているか、またそう言える誰かを知っているか、から自分の心に線を引いてみましょう。
誰かは、神は人の中に、それぞれの人の中にいると言います。

それは、聖者レベルがいう意味とは違うのです。
ひとり一人の中にいる神は、その人がこれまで集めた観念で創り上げた神に過ぎないのです。
一般的観念上の言葉の意味と、聖者レベルが言う言葉の意味は、霊的度合いでも振動的レベルでもまったく違うのです。

人はその自分で創り上げた神に対して、都合のいいものを繰り返し印象付けているのです。
よくよく考え、じっくり自分に集中してみれば、これは間違いのないことだと分かるはずです。
それでも、神様仏様ですか。

智恵ある人、自己意識の目覚めにある人は、今すぐ、この世の観念から写しだされる神を捨てなければならないのです。
まず、意思で今です。
もう一度、深い意識から、仮の全体からでもいいですから、冷静に見てみましょう。

自分にも確信が持てない、それで創り上げた神が、どうして自分を知ってくれるのか。
それが一体何をしてくれるのか、本当に心からその神を信じて一生一体化を目指して行けるのか、これです。
歴史的に繰り返されて来た大きな戦争で人々は苦しみ、そして原爆まで落とされた国が、それを知っている世界はまだ大事なことにも気づかず、そんな自分たちのネガティブ意識も真剣に見つめず、それでも神ですか。

もし、あなたが神だったら、そういう気持ちになることは無理だと思いますが、真剣に間違いを変えようとしない人を幸せで生きて行けるように援助するでしょうか。
それが「神の愛」だと、勘違いしている人の何と多いことでしょう。
人間から見る神と、神から知る人間の意識的距離は、どのくらい離れているのでしょうか。

人間が思う神がいるなら、それならとっくにそのようなすばらしい世界になっているでしょう。
絶対的な神を、この世の無知な観念で考えてはいけない、そんなレベルでは同調も出来ない、そんなことより神意識にほとんど触れていないと理解した方が、まだ目覚めていると思います。

予言を待つまでも無い未来に突入し、いよいよ神が現れるときが来たという感じです。
いよいよ神が現れるといっても、神とは一体何でしょうか、どうこれから受け入れて行けばいいのでしょうか。
まったく次元の違う3次元よりはるかに超えた絶対完全が地上に現れる?
それは霊的法則上無理なことです。

しかし、地上には人間には、負わされた霊的法則があるのです。
神は、霊的法則としてこれからはっきり人間を通して顕現してくるのです。
神がいるかいないかではないのです。
私たち、いやすべては神の中にあるのです。
これは大きな目覚めのヒント、自己意識の霊的向上に大きな拡大意識をもたらすでしょう。
 
宗教の数だけ神がいる、神社の数だけ神がいる、その他人の数だけ神がいる。
それ以外にも、この世には人間が作ったに過ぎない様々な神が人々の心の中で祀られているのです。
世界中には、数えるにも大変なくらい多くの神が信仰されているのに、どうして真の平和が実現されないのでしょうか。

霊的に何も知らないことを無知といいますが、それはイコール物的人間、イコール無知です。
この無知というのは、バカという意味ではなく霊的知識、智恵が無いという意味です。
「霊的なことは科学で証明されてないから」、ということをまだ言っている人がいます。

その前に、科学は霊的なことを十分に研究したのか、人は霊的知識をしっかり持っているのか、が抜けています。
どこか焦点が違うのでは、非常に偏見、そしてゆがんで公平な見方が出来ていないのでは。
人は本当に、正直どう思っているかわかりませんが、私はこの先の世界を予測したとき、人の思う神は、いずれ完全に崩れていくしか無いと思っています。

その地獄が来る日を、無知で流される人生で直面するのではなく、なるべく早く気づいてもらいたいと思っています。
宗教も精神世界も神を知るまでのもの、霊的法則に気づくためにあるに過ぎないのです。
神との接点は、その奥にあるのです。