生命意識に生きる

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生命意識に生きる(7)~誰でも、すぐ、早くを望んでいる。しかし、その前に・・ 2010/02/04

精神世界に限らず、仕事やスポーツや芸術の世界でも、要するにどんな世界でも、人はいつも自信という意識的揺れの中で、いつか自信に満ちた自分になることを目指しています。
誰もが、そのためのうまくいく「方法」や「答え」を求め、早く欲しいと思っています。

しかし、その「方法」や「答え」であっても、そこにどういうことが含まれているかまで分からずに、ただ理想的に漠然としたものを捜し求めている人がほとんどだと思います。
誰だって、何かを成し遂げるために、その目的に向かって努力をするにしても、無駄とか足踏み状態だけは避けたいはずです。

出来るならゴールまで、効率よく、スムーズに運んでいくことが理想です。
当然、その人の能力、素質、生活環境といったものも大きく左右して来ます。
だからといって、こんなことを理由にまたそのせいにしていても何も変わることもありません。
人間、何をするにしてもその土台となるのは自分、さらに言えば自分の意識次第となります。

自分の意識次第といっても、一般的には精神性とか精神力という一部分だけを見つめて、それで何とかしようとまた新たな苦しみを作って行くのです。
もちろん根性、精神力は必要ですが、「効率よく」も考えなければただのマンネリ化です。
私は「何をするにしても、まず自分の意識が一番大事だ!」と確信し、長年研究して来ました。

私はこれを個人的意識、または人間意識全体の仕組みとして考え、研究して来たのです。
今書いているブログの世界は、精神世界と見られてもかまいませんが、私が目指す意識の世界は精神世界の一部でもあり、またその全部を説明することでもあると思っています。

この意識の世界全体を知ることが、またその仕組みを知ることが、「効率よさ」とか「方法・答え」という意味につながっていくのです。
私の長い間の意識の勉強、研究というのは、すべての世界に関わる人間意識の探求ということにもなります。
人間も物も次元も、すべては根本は振動(意識)ですから、人間、世界、次元を本当に知りたければ、まず根本土台となる意識全体を研究するのは当然となるのです。

私は、一つの狭い世界に限定した宗教や精神世界の考えは、自由意識や拡大意識を考える上で、その理解から分離させるものだと思っていますが、初歩の入り口としては否定はしていません。
意識探究とは、人間を構成する、肉体、脳、心、意識、潜在意識やポジティブネガティブの完全理解から、無意識そして霊的意識の全探究です。

その中で、人間がいつまでも左右支配されているものがネガティブで、このネガティブ意識が自分にとって一番問題だということも、誰でもはっきり認識していると思います。
しかし、それであっても、人はこのネガティブを真剣に自分から離そうとはしないのです。

そう言うと、「その方法が分からないから」というかも知れません。
でも、私の経験からいうと、その方法を教えても真剣にそれと取り組もうとする人は本当に少ないのです。
自分を良くするための、目的成就を早くするための、「効率よさ」とか「方法・答え」はここにあるのに・・、それでも他の方法を探し求めているのです。

この意識を知るということがすべてでは無いかもしれません。
しかし、私は一般レベルの人に言っているのではなく、自分の可能性や自分自身をより高く向上させようと思っている人を対象に言っているのです。
自分が向上するための、また少しでも良くなっていくためのポイントは、「効率よくやっていくためのいい方法や答えは何か」ということに目を向けることもその一つです。

それは、一時的に出来ることでも、一面だけを理解して出来ることでもないのです。
目的成就のための計画、方向性が見えた時に立てる意識的計画にも、その流れにおいて適用させて行けるものなんです。
人は、この意識の仕組みに気づくかどうかで、またそれを実際に活用出来るかどうかで、自分の生涯時間を効率良くプラスにも出来、また反対にマイナスや無駄にもさせてしまうのです。

将来のことは考えにくいということで、人はどうしても目先や近い将来のことを見つめます。
その時は、自分の人生全体とか自分に関わる人のことまでは、考えが及ばないものです。
どうしても人は、見えるもの形のあるものや今の状態の延長などで考えてしまいがちです。

それが良くても、努力や頑張りが必要だと思うと、「今のままでいいです!」となるのです。
これもよく考えてみると、今のまま、今の状態がそのまま続くという保障はないのですが・・
心を考える場合、私は人間の心はけっこう曖昧でいい加減なところがあると思い、以前ブログにもしっかり自分の心を調教するように、ということを書きました。

ポジティブネガティブをしっかり理解しないと、いつまでも自分の中で感じたことが本当だと信じ込まされて行きます。
自分を変える初めにすることは、この曖昧な自分の心の成り立ちを知ることから始まります。
人は、自分の気持ちが明るく軽くなると、自分の体調もよく感じ、見るもの感じるものすべてが明るく楽しく受け止められ、細かいことも大して気にならなくなるものです。

その反対に、朝、今日の夢は最悪だったとか、出かける前にイヤなことでも起こると、今日何か悪いことが起こるのではないかと、重い不快な心でなる1日が始まります。
確かに、人の心は気分次第というところもありますが、普通はこんな感じで生きています。

まだあります。
こんな人はいないと思いますが、とりあえず、おもしろ小話になります。
私がこの世でいらないと思っているものの一つに、朝のテレビの「今日の占い」があります。
今日は少し運気が下がり気味ですので、おとなしくしていましょう。

次の日になると、運気が上昇に入りましたので、今日は何事にも積極的に行きましょう。
また、別な日は、今日は人に細かいところに気を遣うといいことがありそうです、などなど。
人というのは、自分の心でも意識でも、簡単にころころ変えられるものではありません。

もし、そういう人がいれば、おそらく明るいどころか、「人間性?」として見られるでしょう。
もし、朝の今日の占いに出た悪い内容が気になる人は、心を強くしたほうがいいでしょう。
私の場合、たまに目に入って来た自分の占いで最悪と出た場合は、「ラッキー!確率的に1年で何回最悪に会えるか、今日は最良の日だ!」こんなもので、それもどおでもいいことですが。

ちょっとつまらない話に脱線してしまいましたが、最初は心だということです。
自分でありながら、自分の心に振り回される、それは如何なものかということです。
何も知らないで、ただ今まで流されて生きて来た心というものの正体を知ればいいのです。

そうすれば、しっかり自分で自分を支配するという大事なことを気づいて行けるのです。
その本当のことを知ることが、次の意識とか潜在意識の理解につながって行くのです。
本当のことかどうかも知らない、間違っているかどうかも分からない、そんな自分の心とか意識を変えて行くのに、すぐ出来るということはないのです。

大体が「すぐ」を求めるから、それが出来なければ、それは失敗とか使いものにならないという結論で終わらせてしまうのです。
こんな繰り返しでは一生変わることは出来ません。
何故こうなるのか、何故うまくいかないのか、自分がいけないのか、間違っているのか・・

これで終わりではなく、また終わりにしないで、本当はここからが始まりなんです。
自分のことも知らない、本質レベルの心意識のことも知らないで、とんとん拍子でうまく行くことは無いと思ってください。
最初はうまく行かなくても、初めて本質レベルの心意識の仕組みに触れたと思えばいいのです。

その段階における答えを知る、そして段階を上げ、そうやって出来た自分の意識が答えです。
その答えは、次に向かうための、さらに自分を高めるための「効率的」を理解させてくれます。
その繰り返しで、私たちはどこまでも自分を高めて行けるのです。

その段階を上げる過程には、ほとんどの人が知らない意識の知恵がたくさんあるのです。
何も知らない行動もしないで、無理だ、出来ない、と決め付けること自体、自分にも失礼です。
誰もが理解出来ること、その意識の知恵はポジティブ方向でなくてはなりません。

ネガティブで何とかなるというのは、私の意識世界にはないのです。
何故なら、ポジティブの方向の先は神の世界ですから。
神の世界、それを宗教の世界として考えるのは、私から見るとまだこの世という殻の中です。
私の意識の世界は自由で、哲学も宗教も精神世界もありません。

私の意識は自由で自在、その喜びの中でさらに次なる世界を目指しているのです。
こうでないと、高いレベルの世界、霊界とコンタクトが出来なくなります。
理解納得によって自由な意識が実現して行くことを、人はあまり信じられないみたいです。

信じる第一のものは何か!
それは、信じられる自分、答えの出せる自分に向け、その意識を創って行けばいいのです。
そう言っても、信じられるものを探すのが大変、それも仕方ないかもしれません。

本当のことをしっかり解説しているものは、この世には本当に少ないのですから。
私の言うことも疑ってもらっていいのですが、そうするにも自分を良くするために前向き、建設的であれば、それはとてもいいことだと思います。
あと、心と感情は切り離して考える、ということも覚えておくといいでしょう。

ずっと前になりますが、私はそれまでの自分と人生全体を振り返ってみたことがありました。
もし、この意識の研究をして来なかったら、今頃○○さんと同じ心意識なんだろうな。
私は、長い間の意識の研究で、この○○さんの意識、観念とは全く違う自分自身に創り変えて来たのです。

これは○○さんがダメな人間だということではなく、それより何倍も自由で楽な意識の自分がいるということです。
人は、本当のことをしっかり理解して、それを実践して行けば、必ず変われるのです。
いつでも、自分を、自分の目指す自分に変えて行けるのです。

成りたい自分を目指すのに、曖昧や一時的なテクニックで変えたいと思う人はいないでしょう。
自分が望む自分になれるのは、今ではないのです。
それには、誰でも時間と努力が必要なんです。
この時間と努力というものも、「出来る」という可能性、要素の一つです。

「出来る」という意識力を出させてくれるものが無ければ、人は動けません。
「出来る」という牽引力があって、初めて人は考え、行動に移して行けるのです。

生命意識に生きる(6)~神も愛も同じこと、その言葉も要らない意識とは・・ 2010/01/28

前回までの神についての話は、あくまで神意識をどう捉えるか、また神方向にどう近づいていくかということに焦点を当てた説明でした。
神という実在の本質を完全に知ることは出来ませんが、それでも出来る限りその神の本質に近づいて行きたいものです。
その努力を通して、意識向上に沿って、私たちは神の智恵や力といったものを表現出来るようになって行くのです。

私自身も、神を簡単にイメージして、それに意識集中しているのではありません。
私が集中している神は、全次元全宇宙を創造した創造神ではなく、自分の魂(神)です。
自分の魂といっても、3次元の魂ではなく、4次元の魂ということです。

誰にもある4次元の魂は、イエス、釈迦レベルですので、まずそれだけでも十分過ぎます。
イエスのレベルと言っても、新約聖書にあるイエスの発揮した能力をずっと超えたレベルです。
このすばらしい自分の魂を意識しないで、外に他の神を求めること自体私には考えられません。

自分の魂がイエスや釈迦、その他の聖者クラスと同じだとすれば、まず私たちが目指さなければならないことも自ずと決まってくるはずです。
それは、この聖者方が説いてくれた真理への道、その意識の道を理解することです。
勘違いしてはなりません、何も宗教的に理解するということを言ってるのではありません。

もちろん、偏った精神世界で何かを目指すことでもないことは当然です。
この聖者方が説いている基本的なことは、人間意識の仕組みを知り、それを霊的(神)法則と照らし合わせ、理解を高めながら自分の魂との一体化を目指しなさいということです。
自分の意識をこの世レベルから目覚めさせなさい、と言ってるだけなんです。

その理解の段階が、ヒントやヒラメキやインスピレーションを得る、本物の神の智恵を得るための意識を創ること、それが自己意識開拓の道だということです。
それを目一杯邪魔するものが、自己固定観念や真理を知らないこの世界ということです。
神を知る意識の道、まずそのスタート点は自分の意識を知るということからです。

宗教や精神世界で、外の神や何かの力やそれとつながることを目指すことではないのです。
自分の意識からスタートするのですから、これ以上入りやすいものはないでしょう。
長い間、私がやって来た意識研究の結果、聖者クラスの説いていることは今言ったことからも説明出来ると思っていますし、私も結果的にそのようにやって来たということになります。

方向性も見えない、意識の世界の全体的枠も知らない、神秘霊的世界の単純法則も知らないでは、何を勉強しているのか信じているのか、それすらはっきりしないと思うのですが・・
漠然とした神でも自分の魂でも、それに近づくためにはそれなりの意識の拡大が絶対必要です。

意識の拡大というのは、地上的観念から脱して真理霊的世界を受け入れるために、自分の意識の枠を大きくして行くということです。
それには、当然全体的な心や意識の自己コントロール力が必要となります。
この世の観念から抜け出してあらゆる方向に神意識を拡大して行くことが、まずは自己意識成長の基本、のちの高級自己意識への土台作りをしていることになります。

意識の世界は、すべてが同時進行になるということもほとんどの人は知らないのです。
神に近づいていく意識の理解は、当然この世の生活、仕事、人間関係、その他の能力開発にも使えなければ喜びも半減してしまうでしょう。
このようなことを書いていても、私はいつも答え的なものは書かかないようにしています。

何故なら、そんなことを書いたからすぐ分るものでも、それで完成ということもないからです。
それより、神からのヒントをキャッチ出来るような意識を創るために、よく真理の言葉を考える意識訓練をした方が、結果的に大きな喜びを得ることになると思っているからです。

少しの説明ですぐ完全理解出来るというのは、意識の勉強においてはありえないのです。
とにかく、少しづつでも神に、自分の魂に近づいて行くしかないのです。
神(魂)の探究の前に、大きな全体意識(神意識世界)の枠組みを知ることが大事です。

心理学、哲学、宗教、精神世界、神秘霊的世界、人間意識の構造、歴史と人間意識、霊的法則と生命の樹、瞑想とチャクラの働き、過去世と輪廻転生、憑依の真実、ポジティブとネガティブ、観念と真理、波動と振動、霊的力と超能力、イメージと霊的推測、仏教とキリスト教、潜在意識と無意識、予言と未来、感情と理性、あるがままと悟り、、神と人間、その他。

今並べたこと以外にもたくさんありますが、このすべてを関連付けて自分の潜在意識につなぐことをすれば、非常に理解が早くなるのです。
これらのポイントとなるところを知っておけば、あなたの中に超意識の全体枠が出来るのです。
霊的全体枠が自分の意識に出来てくれば、今自分がどこにいるか、どういった意識レベルなのかもかなりつかみやすくなるのです。

知らないより知っていたほうがいい、これはそれ以上に大事なことなんです。
次は、神のあとに出て来る次の言葉で、「愛」について考えてみましょう。
神、真理、愛、さらに言葉をつなげていけば、完全、絶対、永遠となります。
その中でも愛という言葉は、どういう風に説明したらいいのかというくらい難しい言葉です。

愛は神です、神は愛です、本当はこれで終わり、でいいのですがもう少し突っ込んでみます。
悪で無いもの、ネガティブで無いもの、それ以外が愛と言えばこれもこの世的でわかりやすい。
しかし、悪には悪同士、ネガティブにはネガティブ同士、そこにも愛があるのです。

一般意識の人にある愛は、家族愛、隣人愛、人類愛といったすばらしい愛の表現もあれば、反対に観念的、感情的、打算的な面が絡む愛もあります。
その他では、宗教的な愛、献身的な愛、博愛など、愛の字が付いた言葉はいろいろあります。
その中でも最高の愛は、私は神に対する愛だと思います。

神の愛がどうのこうのというより、神の愛はすべての人に平等に与えられているはずです。
そうでなければ、完全なる神ではなくなるからです。
これは、神は人が赦しを請う前に神はすでにその人を赦しているということと同じです。

それでも人は、神に愛を求め赦しを請う祈りや行為を続けています。
霊的法則を知らないと、何も起こらない祈りをいつまでも続けなければならないのです。
いつもいつも神に向かって感謝の祈りを捧げても、それがどういう意味があるのでしょうか。

私は感謝の言葉やありがとうなどの言葉は、魂に対しても余程のことが無い限り言いません。
言葉の祈りと意識の祈りがありますが、言葉だけの祈りで何かが変わるのでしょうか。
人は何を望んで祈るのか、愛の無い祈り、神はそのたびにがっかりしているかもしれません。

霊的法則上、神である以上、愛はいつも私たちに向けて送られているのです。
私たちの意識の狭さで神の愛を受け止める強さが無いために、大事な祈りの方法にも気づかないで、いつ聞かれるとも知れない祈りを続けている人も多いでしょう。
本当に人々の神に向けた祈りが届くなら、また届いているなら、何で人類はいつも大きな苦痛や悲惨の中にいなければならなかったのかと思います。

ということは、その祈りは届いていないということです。
いや、その祈りは、神に聞かれるような祈りではないと言ったほうがいいかもしれません。
だったら、これからは神(魂)に届くような祈りをしなければなりません。
そのためには、もうこれまでやって来た空しい祈り方は一切やめて、本当の、真の祈り方を覚えなければならないでしょう。

神の愛は、人の意識の中を通って、人の意識で表現されるものです。
動物の場合は、本能的感情的なもので人間意識の愛とは分けて考えなければなりません。
動物に触れて癒される、愛を感じるというのは、本当は自分の中にある愛を感じているのです。

愛の感情でも、自分に無いものが、どうして何かに反応することが出来るでしょうか。
自己の無意識的愛の反応は、前世から引き継いだ意識や今世での人との関係によって創られた自己観念で、その反応表現も人それぞれ微妙に違うのです。
このような愛は、一般観念を基準にした愛であり、ほとんどの人がこの愛の中で考えています。

動物のかわいいやさしいシンプルな感情に触れると、人は素直に愛の感じの反応が出ます。
もちろん、人の愛、親切、優しさに触れても、内から愛の反応が出て来ます。
愛は、私たちの意識の奥から出て来るもので、それは神意識までつながっています。

神が愛である以上、神とつながっている人間は、その意識を通して神の愛を表現しているということになります。
では何故、人間を通して偉大な神の愛そのものが、ストレートに表現されないのかとなります。
その原因は、人間のカルマ、ネガティブ性がその道を遮っているからに過ぎないのです。

そのネガティブ性を取ることが、神の愛を多く受けること表現することになるのです。
自分を良くする意識改革が、神に近づくこと、愛をよく知ることと同じというわけです。
宗教がどうのこうのではなく、その教えにヒントがあるだけなんです。

外に神があるわけでも、宗教の中に神があるわけでもなく、個人の意識そのものが神とつながっているということです。
愛の表現は神を表現することと同じです。
愛を偽ることは、自分の神に背を向けることに等しいのです。
感謝、ありがとう、どんな言葉を繰り返そうと、神はすでにその人の意識を知っているのです。

自分の愛を、神(魂)を無視し、それで何を求め望んでいるのでしょうか。
霊的法則の智恵は、空しい祈りすべてを払拭してしまうのです。
愛にも段階があるのです。
それは、私たちの悟りの段階、意識進化の段階ということでその表現も違ってくるのです。

霊的本質の愛と人が思うこの世の愛とでは、その質はまるで違うものなんです。
それでもその愛は、すべての人の意識に浸透し神とつながっているのです。
神も愛もこの世の言葉です。
霊的意識においては、神も愛も必要無いのです。
本当に必要なものは、霊的意識そのもので、その段階を高めて行くだけです。

それがすべてを含んでいる完全の道ということになります。

生命意識に生きる(5)~神との一体化と悟りの段階 2010/01/21

人が自分の気持ちを神に向ける時は、何かの対象、出来るなら見える形や何かしらの行為をするといったことを望みます。
理由は簡単で、その方が集中しやすいからです。
また、神の力の顕現やその働きを為す人に手を合わせることもします。
そうすることによって、自分も神とつながれる、願いが通じると思えるからかも知れません。

イエスも釈迦も、その他の聖者方も、神はこんな姿、形をしているとは言っていません。
神は光だと言う人もいますが、それは象徴として言っているに過ぎないと思います。
とにかく、神は人型でもなく、形も色も大きさもなく、その他何かに例えられるものでもありません。

そういう何の対象も無い神であっても、人間は神に近づいて行かなければならないのです。
私たちが神に向かって行くためには、まず思考を通しては無理だと思ってください。
人間は、意識を通して神とつながっているのですから、私たちは思考から意識の世界に入っていかなければなりません。

また、神の世界は現実思考の人にとっては矛盾の多い世界に感じると思います。
ほとんどの人は、少なからず神というものに対して、疑心と矛盾をどこかに感じ持っているかもしれません。
矛盾という言葉の語源は、絶対的な強さの矛と盾から来ています。
この世的に考えれば、この話は物事のつじつまが合わないという意味で納得できます。

しかし、矛にしても盾にしても、一方だけに焦点を当てると絶対完全になるでしょうか。
これは、この世から全悪を完全に消したからといって、善だけの世界にはならないということと同じなんです。
これを意識で、霊界方向に向けてどのように変換して行くかです。

真理、霊的世界は、絶対完全の世界です。
3次元との意識比較では、一と相対という意識の違いです。
真理の世界は、完全はあるけど相対は無いという世界です。
3次元世界は、相対はあるけど完全はないという世界です。
結局、矛盾という言葉はあってもそれは真実ではなく、私たちの意識は、完全は知らないのでその方向と相対の間を動いているということになります。

私たちが神の中に矛盾を感じるということは、その疑問を解消説明してくれる智恵を知らないからです。
完全意識というものを、この世の言葉の意味で全理解することは不可能なんです。
この世から見れば、この世の意味だけで考えれば、神の世界に矛盾を感じるのは当然だと思います。

ですから、神に至る道は、3次元4次元の間の意識の変換の過程であるとも言えるのです。
この世だけに固執した、この世だけが絶対世界と考えているようでは、どんなに手を合わせようが、神、神といって寝起きから寝るまで信仰心を持っていようが、それでどれだけ神に近づいて行けるでしょうか。

神の道、神に至る段階は、科学的だと考えてもいいと思います。
もちろんその科学は、神秘科学といったレベルでなくてはなりません。
私たちは、ただやみくもに神、神では、何の進展もないということを知らなければなりません。
そのための準備段階として、この世の観念というものを知る必要があるのです。

それは基本で、それに関連して自分自身を知ること、本質レベルに意識を向けることが出来るようになって行くのです。
これを置いて、他の神の話を聞いても、それだけ理解が遅くなるだけです。
この世に宗教の教えやさまざまな内容の精神世界があるのは、私たちの潜在意識に染み付いた固定観念から自分自身を自由にするためにあるといってもいいと思います。

全体把握、霊的法則を含めた見方で、神の世界の理解のスタート点に立つことが大事です。
宗教や精神世界などの一部に入り込むから、それを盲目的に受け止めてしまうから、また新しい観念を自分に創ってしまうのです。
本当の神、実在というのは、全次元全世界の創造神しかありません。

しかし、そんな想像すら出来ない神とつながるということは、一般レベルの意識では絶対無理なことです。
いろいろな次元、世界があります。
順番に考えて見ますと、この宇宙が神の最低顕現界でその上の世界が霊界となっています。

生命の樹で言えば、その上にも神の世界があります。
私たちは、3次元宇宙から次の霊界を目指すようになっているのは、この世界より下の世界がないからと、私たちは元いた上から降りて来たからです。
この3次元に住む私たちは、霊界も知らないのに他の次元がどうのこうのも言えないのです。

知識程度で知ることはいいのですが、本当の次元などは誰も詳しいことは知らないのです。
こう考えると、私たちに一番近い神は霊界の神(魂)になります。
霊界とつながっている魂が、イエスや釈迦や聖者方になります。
霊界とつながっているというのは、完全に霊界との意識的回路が開いている、または霊界とのチャンネルになっているということです。

その霊界を動く生命が、霊界の魂であり、私たちは3次元を動く魂ということです。
霊界を動く魂は、私たち一人ひとりにもつながっている魂ですが、この世にいる魂である私たちは残念ながらその霊界の魂とは自由に交信出来ません。
何故つながれないか、交信出来ないか・・

それは、私たちの意識がネガティブであったり、悪であったりするからです。
神というものを考えて見ればすぐ理解出来ると思います。
完全な世界、真理の世界にネガティブや悪が一緒になることはないということです。
しかし、この最低世界の宇宙であっても、完全な神の顕現界なんです。

では、何故、完全な神の顕現界であるこの世に不完全があるのか・・
これがこの世的観点での矛盾になります。
意識世界や霊的世界になると、私たちは知らないことが本当に多くあります。
それを知らずして、神世界を疑ったり、矛盾だらけだといっても何の意味もありません。

大事なことは、私たちは意識、神秘、霊的なことを、あまりにも知らな過ぎるということです。
こういう矛盾解明も含め、神に関する話は本当に全体的に理解納得で進めなければならないので、霊的法則の内容は曖昧では進めることが出来ないのです。
神はどこで接することが出来るのか、それにはどうしたらいいのか・・

ほとんどの人は神を外に求め、外に祈っています。
外というのは、自分以外の対象全部、それは何であっても同じようなものです。
それがイエスであっても釈迦であっても、そこらの石や樹であっても同じです。
自分がそう信じれば、誰が何と言ってもそれが神だと信じれば、その人にとっては神なんです。

こういう人だからといって、その人をバカにすることは出来ません。
何故なら、ほとんどの人がやっている神信仰は、程度の差はあれこのようなものだからです。
人間が神と触れる唯一のところは、自分の意識の中です。
神は自分の一部、それを分光として魂になったというのが霊的真実です。

その魂が、私たちそのもので、その魂とはその次元世界の意識です。
私たちは、その意識と一体にならなければ神を知ることも出来ないのです。
まずは、霊界の魂との一体化が目標となります。
それに近づくためにこの低級3次元である私たちの意識を段階を追って上げて行かなければなりません。

それが、悟りの段階、意識レベルの段階となります。
こうしない限り、いつまでも同じ3次元世界と死後の世界を行ったり来たりの輪廻転生を繰り返すことになります。
結局、輪廻転生の繰り返しの原因となるカルマとかネガティブを自分の意識から取り除くことが出来ないからなんです。

それでもいいとする呑気な人は、その結果による自分の未来を霊的に予測出来ないからです。
また、ほとんどの人は、神を難しく考え遠くに見ています。
仮に自分の近くに神を置いて一生懸命祈っている人でも、神との意識的距離は遠く離れているだけでなく、自分の意識の段階を上げることすらしていないのです。

神を知るということは、すべてが同時進行なんです。
何が同時進行かと言うと、自分を知る、自分の意識を上げて行く、それは同時に自分のネガティブを外して行くことです。
それらはその気になったり自己暗示でその教えを鵜呑みにしたり、ただむなしく神に祈ることではないのです。

また、これを進めるために、何かの宗教や信仰組織に入ったり、難行苦行をしたり、精神世界でボランティア的なことをしたり、アセンションのために特別なことなどをすることでもないのです。
もっと、素直にそして真実に目を開き、何が必要かをよく考えなければなりません。
神に近づくためにやることは何なのか、何が一番近道なのか、そのために一番いい方法を選択しなければなりません。

このすべてを満たす方法は、霊的法則に沿って自分の意識を高めて行くことです。
他の宗教や精神世界やその他の霊的内容をよく検討してみれば、霊的知恵に沿った方法がいつの時代にもあったことが分かると思います。
霊的修行者のためにまとめたものは、一般人にはすぐ理解出来ないものです。

それが長い間、その世界だけに集まる人にだけに分かるものにして来ました。
それが現代になって、一般の人にも非常に分かりやすく理解出来るようになっているのです。
分かりやすくといっても、その勉強をしない人には無理ですが、それは何に対しても言えます。

神を知るとは、別に特殊なことでもなく、一部の人の特権でもないのです。
神を知るというのは、自分の意識の中の濁りをきれいにすることなんです。
すべては、特殊なことではない、自分を良くするための延長上にあるということです。
私たちは、すぐ神がどうのこうのではないのです。

まず、この道に入り、すこしづつ歩みを早くしていくしかないのです。
神を早く知るとか、これは早く変えてしまう方法などは無いということです。
当然です、何でも慣れるまでは練習訓練が必要なように、この意識の世界も同じです。
どうしてこの見えない世界がすぐ出来ると騙される人が多いのか、よく考えてみれば分かるのですが、これから先も気の毒な人は多くなるでしょう。

自分の運を良くする、将来の自分を良く創り上げていくには時間がかかるのです。
この勉強が難しいから、まず簡単なことから始めますという人も注意です。
もちろん基本的、初歩から始める人の場合は当然です。
それ以外の人で、難しいから簡単なことをやってから難しいことに挑戦しようとする人もいますが、こういう人はほとんど途中で挫折するのが多いでしょう。

何故なら、難しいものはどこから入っても難しいのです。
学校の勉強でも、簡単が出来れば難しいものがすぐ出来るかと言うとそうは行きません。
一番いい方法は、難しくてもその道にいて、その感じに慣れるということなんです。

そうすれば、気づき、ヒントなどをキャッチ出来る勘も同時に養われて行くのです。

生命意識に生きる(4)~神に向うことは、それは同時に自己意識を高めること 2010/01/14

神を理解するということはどういうことでしょうか。
神についての知識は、その真偽はともかく、いろいろな経路から入って来た知識量だけでも十分過ぎるくらいあると思います。
しかしその割には、まだ神のことは何も知っていません。
もし、本当の神を知ることが出来れば誰もがその方向に向かって行くと思うのですが、ここが一番難しいところです。

まず、知っておかなければならないことは、本当の神は知ることが出来ないということです。
よく、真我だの神との一体化などと言いますが、その前に順序というものがあります。
この順序を飛ばすと、いずれは混乱の中で道を見失うことになるでしょう。

とにかく神については、現代もまだ大混乱の中だと思います。
これまでの神の概念を、大まかでもいいですから、一度全体的にまとめてみることは大事です。
精神世界にしても、分野が広すぎてまだ興味本位とか願望達成的な部分が目立ちます。

少し前に書いたクリシュナムルティーの「自我の終焉」も、神に近づくための意識の土台固めだと言ってもいいかも知れません。
神は拝むもの、何かをお願いするものではなく、自分から神側に向かって行くことによって神のたくさんの表現を意識的に感じて行くことからスタートします。
宗教にしても、仏(神)に対する、これまでの気持ちの向け方を変えなければ、いつまでも昔のままで変わることもないでしょう。

人が生きるということは、いまその本質が何であるかなど分らなくても、神というものから離れることは出来ないのです。
神、神と手を合わせても、一心に念じても、焦点も合ってない、接点もない、そんなことでは、その人は一体何をやっているのでしょうか、となります。
人は神について何も知らなかったため、大きな神の愛も受けられなかった、これは世界の歴史を振り返ってみても分ります。

知らないからではなく、真剣に神に向き合って来なかったということだけです。
しかし、それも仕方ありません。
大きな野望を持った権力者たちの闘争の中に、一般庶民のほとんどが巻き込まれてしまった、これが私たちの知っている歴史です。
大きなネガティブ性である我欲の必然的結果というのが、これまでの人類の歩みだったのです。

そして、私を含め、世界中の人々が神に目覚めることから離れた結果、ここまで輪廻転生を繰り返して来たということになります。
歴史を振り返ってみても、未熟な意識同士の戦いの繰り返しでは、本質や神、そんなことを見つめるヒマも考えも出て来なかったと思います。
神に向けての真の祈り方も接し方も知らないという時代は過去です。

もう過去のことはいいとして、ようやく冷静に慎重に神を知る勉強が出来る時代になりました。
私たちがしっかり神を見つめ、信じ、その方向に向かって行こうとするなら、その道は神の信仰だけの道ではないのです。
それは、基本的に自分を知り、自分の意識を高めるということで同時進行で行なわれるのです。

今、神に対するこれまでの知識をしっかり検証もしないで、その道を進んで行けるでしょうか。
過去、人々が信じて来た神、そのような根拠の無い観念的神は、今私の中には一切ありません。
年々、これまでの神、仏信仰は、何のその説明もないままだんだん衰退して行っています。

いきなり、神がどうのこうの、真理がどうのこうの、神とつながっているからどうのこうの、といった
言葉に、ただ従順に信じなければならないということはおかしなことです。
冷静に、慎重に、よく考え、疑い、そしていろいろな本質的話を理解して行けばいいのです。

すぐに答えを出すから、あとで苦しむのです。
神に関する答えは、自分の中、知識の中には無いのです。
「あなたの中に答がある」と都合のいい言葉をいう人もいるでしょうが・・
まず最初に必要なことは、神を信仰することから始めるのではありません。
私たちは、まず神に向かう正しい道を選択しなければならないのです。

神に集中する、神に祈る、神と同調する、などは神の基本を知ってからです。
神を使う、神に命令すれば何でも叶う、神を一心に信仰すれば幸せになれる、などなど。
神は人間が想像出来るレベルではないこと、人間の感情的な思いで反応することは絶対無いということ、とにかく人が思う神は、人の中の神感情の概念に過ぎないということです。

そんな意識では、何をしてもほとんど神とは何の接点も見つけることも出来ないでしょう。
それでもがんばってやって来たのが、過去の一般的神(仏)の信仰で、それが精一杯でした。
私はこれまで一般的に信じ、信じられて来た数々の神(仏)は、私の意識の中には一切無いだけでなく、考えもしません。

外で触れる神というものは一切望んでもいないし、また認めることもしません。
外に神を求め、その神が何かしてくれる、ただその神に気に入ることをやるだけでいい、と指導してくれる人に、完全依存でただ空しい行為を繰り返す人もいます。
その反対に、自分の中にしっかりと神と接するための自分専用の神の道を創ることは、それなりに努力が要ります。

努力無しでも大丈夫、出来るなら誰でもそうしたいと思います。
では、その努力とは何でしょうか。
神に接するため、神の道に入るための努力とは、どういうことなんでしょうか。
従来の神の求め方以外に、他に道は無いのでしょうか。
神の特性、法則などを考えれば、神と触れる方法は自由です。

自由とは、どんなやり方でも大丈夫、ということもありますが、私は自由な意識で向かう方法を取りました。
この大事なことを飛ばして、すぐ都合のいいことに飛びつくから、あとでつまづくのです。
基本の準備、神を知るにも順序があり、それは神の世界だけでなく何にでもあてはまります。

それが、精神世界になると夢物語、神の世界は何とかなると思っている人が多くなるのです。
まず、神に向かう前の、また自分の意識を高めるための必要条件です。
神のことは何も知らないので、まず本当のことを知る努力。
神を疑う気持ちがあるなら、その疑いを外す努力。

神と人間(自分)の関係も知らないのなら、それを知る努力。
簡単な神の法則も知らないのなら、それを知る努力。
今までの人間がいかに神を知らなかったかの原因を根本から知る努力。
永遠の神の世界を大まかでも理性的に知るための努力。
人間意識の構造と神のつながりを知る努力。

まだまだたくさんありますが、この努力は理解納得の意識の勉強ということです。
神が、次元が、アセンションが、神の力が、神の・・がどうのこうの、そんなことは今やることではなく、あとでも十分間に合うのです。
こんな基本的なことも知らないで、神がどうのこうの、なんて言える訳ありません。

神との同調の仕方、神の方向と焦点の当てかた、神への祈りの方法、願望実現の本当のやりかたなど、私自身そんなことを始めから教えるということは絶対ありません。
何故なら、それは、相手の方に対して失礼なやりかただと思っているからです。
お金と時間のムダ使い!

何とか出来るなら・・ですが、まず無理でしょう。
基本的意識も出来ていない人が、どうやって神意識に近づけるのでしょうか。
偶然とか、そのうち神から・・・、というのはある訳ないのです。
「超能力」という言葉は、簡単を求める人には甘く心地いい言葉でしょうね。
「あるがまま」のいい感じも、1回体験したことのある人であっても、いつもその意識でいられるのでしょうか。

1回体験というのは、魂からのサービスです。
その機会を逃さず、神方向に向かって進みなさいということです。
もし、占いなどで1回みてもらったのがばっちり当り、大きな得をしたとなれば、おそらくその人はまたその占い師のところに行くでしょう。
完全依存で、また当れば、いつまでも依存していくでしょう。

神に至る個人的意識の道は、自分の努力と確信で進めるものです。
何かに依存することは、自分の神(魂)を無視することです。
どうして、このような人を神(魂)は援助の意識的ヒントを与えようとするでしょうか。
依存することで、何か自分のものになるものがあるのでしょうか。

神に至る道は、最初から、自分で自分自身をはっきり自覚して行く道です。
それは一変に良くなるということもないのです。
ずっと、一生、すこしづつでもいいので、自分のために続けて行くことです。
一つひとつ、本物、本質を理解して行くことが、年々続けて行くとどうなるかは、これもどんな世界にも共通して言えることです。

プロの世界というのがありますが、そこはその要素素質のある人の世界です。
ただし、その素質を努力で高めることが出来ない人にとっては、空しい傷あとが残るだけです。
努力したから全部がうまく行くとはかぎりません。
だからと言って、努力無しでうまく行くはずもないでしょう。

ものの考え方としては簡単なことです。
目に見える世界でも大変なのに、目に見えない世界がどうかは、なおさらです。
今の時代は特に、自分のために、神、精神世界のことは慎重に動くことです。
お遊び感覚、都合のいい願望実現は、そこに神とは何のつながりも出来ないのです。

人の中には神知識は十分ありますが、それはほとんどいらない神知識です。
その神が役に立つどころか、逆に人々の心を無知な状態に縛りあげています。
またいつの日か、宗教か精神世界の教えの中から、社会問題になって行くおかしなことが起こるかもしれません。
それはすでにどこかで準備が始まっていると思いますが、騙される人は大体決まっているでしょう。

騙す人間が一番悪いのは当然ですが、しかし、騙される人がいるからそれが成り立つのです。
騙される側の意識が分れば、騙す方はそれに沿って進めればいいだけの話です。
そこに、神とか善とか真理ということが入り、それを満たしてくれる簡単、都合のいい、努力無しで、依存出来る安心を揃えてあげれば、このような意識の人はすぐ飛びつくでしょう。

逆に、疑い深く慎重で、おかしいと感じたらすぐそこから抜け出すという強い意志を持っている人は、それほど深い傷を負わなくても済むのです。

生命意識に生きる(3)~神については、慎重に考えましょう 2010/01/07

私たちが神を求めたり信じたりすることは大事なことですが、今一度神について慎重に考えてみることも必要だと感じています。
人間は長い歴史の中で、世界中の人々がはっきりと分らない神というものを信仰して来ました。
それは、自然を神としたり、イエスや釈迦や菩薩であったり、日本でも神、仏として信仰しているのはたくさんありました。

それは現代においても大した変化は見られていない状態です。
人は「神とは何か」という疑問を抱いても、今自分の中にある神の概念をあらためて見つめてみるということまではしないでしょう。
私たちが知っている神は、子供の頃から聞かされて来た神を概念的に固定されているだけです。

本当は何の根拠もないものに、自分を認めさせているに過ぎないのです。
結局、神と自分、神とすべてとの関係やその意味、また霊的法則による神のことなどを本当に理解している人はほとんどいないということです。
それとも、何も無くても知らなくても、ただ神を信仰することが大事だと思っているのでしょうか、ありがとうや感謝することで何とかなると思っているのでしょうか。

もちろん、「これが神だ!」といって神を知ることが出来ないことくらいは分っています。
だからこそ、しっかりと、神というものを納得出来るくらいの理解が必要だと思うのです。
そう考えると、これからの時代は、神についてもっと深く知ることが大事になるはずなんです。

誰も本当の神を知らないのに、神という言葉だけでこれまでどのくらいの人が被害にあったり、ずっと苦しめられているか、今もそういう人もたくさんいるはずです。
では、どうして神という言葉だけで、またそういうことを言う人の言葉を簡単に受け入れてしまうのでしょうか。

今経済においても不安定なこの時代は、神にもすがりたいという気持ちの人は年々多くなっていると思います。
現代は宗教より精神世界に入って行き易くなっていますが、知らない人にとっては危険がいっぱいあるということも知ってほしいのですが、それはここで言っても届かないでしょう。

宗教的な神ではなく、もっと個人に近づけた神を気づかせることはいいのですが、逆に商売として、安易な方法で神を使えるといったことを教えている人も多くなっているのです。
困った時の神頼み、今本当に苦しい人は何でもいいから早くここから脱出させてほしいと願っています。

こういう意識こそ、神は何もしてくれないということを過去の歴史からも学ぶべきなんです。
夢や理想や憧れや単なる信仰や、急な思い込みの集中などで神はその人に向く訳はないのです。
神という単なる都合のいい観念形成のために、無駄な時間とお金をかけることは自分の意識の中のネガティブ性を強化していることになるだけなんです。

もっと、神の仕組みを知りましょう。
もっと、神に近づきましょう。
そのために、もう一度神についてよく考えて見ましょう。
そして、あいまいな点は特に注意するようにしましょう。
そうすれば、神を知ったふりした人間の言葉にも惑わせられることもなくなるでしょう。

これらのことは、人生においても何よりも大事なことだと知りましょう。
私がこれから神と人間について、また人生に必要な考えや注意をこの「生命意識に生きる」に書いて行きます。
それは、私がこうだと決め付けることではなく、あなた自身にも考えてもらうためです。

とにかく、それを見つめ考えて見なければ、次につながることは何も無いということです。
難しいと思うことは何もありません、素直に自然に見つめてみると何か感じるはずです。
最初は、時代に流されて信じ込まされて来た神としているものを、もう少し突っ込んで見つめてみること、まずそこからが必要だと思っています。

神とは何か、その正体は?
こうなると本当に範囲が広くなり、神に関する全部のことまでとても考えることは出来ません。
私たちが神を知るにも、当然それが神の何なのかを見極める能力も必要になります。

どんなとてつもない大きな奇跡的現象であっても、また信じられない変化であっても、宇宙的広大さから見れば、それ自体が神のすべてと認めることは出来ないはずです。
すべて順序よく考えて行かなければ、大事な方向もただの迷いの中に失われることもあります。

まず、分りやすいところからこれまで知っている一般的な神、いろいろな宗教にある神の本当の正体を考えて見たいと思います。
もちろん、神、また人が思っている神の概念を見つめ直す作業はそう簡単には行きません。
とにかくやっかいなことですが、いろいろ書きながら進めていこうと思います。

「神を知る」からスタートすれば、それに関連することがどんどん疑問となって出て来ます。
神の概念の整理からその途中に出て来る疑問まで、次々に見つめ考えながらヒントを得て行くことは、最終的に自分の意識の成長につながります。
これが意識の勉強です。

何かをただ鵜呑みに信じる、その関連性もその進展する方向性も出てこないような勉強は、ただ苦痛の連続で楽しくありません。
自分が成長して、余裕が持てて、自由な意識の自分になって行くことが楽しい勉強です。
悩む自分もどんどん減っていき、自分の将来が楽しみになるくらいの自分創りです。

これが本当の意識の勉強というもので、それでなければ私も何もしなかったでしょう。
では、その方向に向け、少しづつ話を進めてみたいと思います。
まずはじめは、何も知らなかった一人の人間として、私が入った神方向の道の歩み方から説明して行きたいと思います。

今私が求めているのは、神というより神世界の霊界意識とその魂との一体化です。
私はこの勉強に入る前は、神というものの概念はほとんどありませんでした。
はっきり言って、「神?」っていう感じで、まったく関係ないという人間でした。

若い頃でしたから超能力的なものには興味ありましたが、神仏、宗教、精神世界、その他神に関わることとはまったく縁の無い人間だったのです。
こんな人間が28年前、いきなり精神世界、神秘の世界の勉強をすることになったのです。
そのとき、私が見つめていた、また到達したいと思っていたレベルは、本物の世界です。

完全も知らない人間が、神に焦点を合わせることなど到底出来ることではありません。
このくらいのことは、だれでも考えれば理解できると思います。
しかし、とにかく私は神方向に向かって勉強を始めたということになります。
このように私の勉強は始まったのですが、今振りか返って見ればそれは神を求める冷静な見方にもつながっていたと思っています。

私は最初は何も知らずに勉強していましたが、今思えばそれで正しかったと思っています。
この勉強を始めてから数年経ってから、神や神の世界を意識していったのです。
また、一人で勉強して来たおかげで、誰にも余計な神の概念を植えつけられなかったのです。

神については、ある時から私も真剣にいろいろ考えていました。
本当の神でないものに焦点を合わせていることが何になるのか。
自分勝手に創りあげた、これも一つの神、それは自己創造神そのものでは。
それを、自分の中に神がいる、自分は神とつながっているとでも言うのか。
自分で創った神は本物の神でない、かといって本当の神も知らない。

これが人間が知っている神?都合のいい神、教えられたものを神としているに過ぎないのです。
あなたは本当の神というものに真剣に考え抜いたことがありますか。
まさか、神を怖がっているのではないでしょうね。
神を「畏れる」ならいいのですが、本当は内的には「恐れる」なのかもしれません。

もし、人が本当の神を何であるか知らないのなら、恐れることも崇拝することも、そのどちらでも何の意味があるのでしょうか。
神について本当のことも知らないのに、それに何らかの力や価値を与えるのは一体どこから来るのでしょうか。
では、少し角度を変えて神というものに近づいてみましょう。

まず、私たちが手っ取りばやく神を知る方法を考えてみましょう。
その一番いい方法としては、神を知っている人から話を聞けば早いでしょう。
あなたが知っている人で、神のことを完全に知っている人を思い浮かべてみてください。
もちろんそんな人がいるわけありませんよね。

じゃ、神を知るにはどうしたらいいのか、一体私たちはどうすればいいのかになります。
私も最初のころを思い出すと、神というのは考えることも単なる想像さえも出来ませんでした。
私がこの勉強を始めたときは、神を目指した勉強でも神を知るということでもなかったのです。

まず私が知りたかったのは、本当のこと、要は何も本当のことを知らないということが耐えられなかったというだけです。
私はこの勉強をする前は、宗教、精神世界、哲学といった世界とは無縁な人間だった、ということは始めに書きました。
20歳ころ、中国思想の荘子で意識の目覚めはありましたが、20代はそれまででした。

この勉強に入るきっかけとなったのは、真理に関した本を手に取ったからです。
その本は、精神世界を数年勉強したというレベルの人が書いたものではなく、本当に高級意識が書いた本です。
いきなりこういう本は、何も知らない人間にとってこれほど苦痛なものはありません。

理解が出来ない、何を言っているかさっぱり分からない、何度もいつの間にか寝ていました。
だからと言って、もっとやさしいものに変えようと考えたことは一度もなく、その内容を理解するために考えに考え抜いてやって来たのです。
こうなると本を読んでいても読書ではなく、書いている人の意識に焦点を合わせているといった感じになります。

こうした勉強をしているうち、その内容もどんどん広がって結局はイエスや釈迦、そしていろいろな聖者方の言っている深遠な内容まで触れていかざるを得なくなったのです。
キリスト教、仏教、その他聖者の教え、その他関連するものは本当にたくさんありました。

この間にも、私には毎年、気づき、ひらめき、インスピレーション、霊的不思議体験といったものを体験していたのです。
このようなこともあり、私自身の求める焦点はだんだん神に向くようになって行ったのです。
本当のことを、本物を知る、その究極を求めるためには真理に近づくしかありません。

真理に近づく、それは神に近づくことです。
でも、どうすれば神に焦点を合わせられるか、何でもいいそのためのヒントはあるのか・・
どんな人も、宗教や精神世界を勉強している人はそのヒントを探しているはずです。

では、神に向かうには何を焦点として、もちろん見える形のものではなく意識的焦点という意味で、それをどう定めるか、定めなくても方向性でも考えなければなりません。
ここで大きなヒントになったのが、子供のころから今も続いている霊的不思議体験でした。
もちろん、この勉強をしている間にも驚くべき不思議体験は何度もあったのですが、大事なことは私は外に何かを求めるのではなくいつも自分の中に意識を向けていたということです。 

また、勉強の中で大きな参考になったのが、「生命の樹」「カバラ」の意味でした。
私の不思議体験のすべてと意識の向上する順序が潜在意識の理解を早めたのです。
その意識の方向が、神、霊界(4次元)、それが自分の魂ということになったのです。

とりあえず、神の方向は決まりましたが、次は神をどう理解するかでした。
その進む道を慎重に決めなければなりません。
それが意識の道、悟りの段階、霊的法則の道です。

生命意識に生きる(2)~神? 人はどこまで神を知っているか 2009/12/31

一般の人はともかく、精神世界を勉強している人はどこまで神のことを知っているでしょうか。
今このブログを読んでいるあなたも、神について、意識を向け考えてみてほしいと思います。
はっきり言えることは、誰も本当の神は知らない、ということです。

誰にも漠然とした神といった概念はあると思いますが、神を説明出来る人はいません。
それでいながら、神を祭り、神に手を合わせ、神にお願いをし、神に畏敬の念を抱きます。
もし私が、誰でも結構ですが、自分の意識にある神を時間をかけて説明するとしたら・・・

そうした結果も大体想像出来ますが、おそらく聞く側においては矛盾と混乱で終わるでしょう。
それは、神の理解が今ある自分の観念や考えなどに次々と結びついていかないためです。
もっと言えば、私のする神の話は、その人にとっては全く新しい意識の世界になるからです。

その内容は、これも全く違う焦点から知ったほとんどの人が知らない神というものだからです。
私は、神全体は知りませんが、ほとんどの人が気づかない神の世界(一部)は話せます。
結局、神を語るということは、どんな人であっても神の世界の一部に過ぎないということです。

ある程度精神世界を勉強した人と比べても、私はその人よりは神世界を知っていると思います。
こういうと、かなりうぬぼれが強い高慢無知な人間だと思われるかもしれませんが。
どう思われようと、私は人間の意識分析の結果、冷静な比較で言っているだけです。

では、どうしてこう言えるのか、その説明自体がこれからする神の説明ということになります。
ただ、神の説明といっても今回ですべて言い尽くせるものでもなく、また完全な神においては途中どころか、どこまでといった線も引けないことは当然なことです。

「生命意識に生きる」ですから、今後も神についてはいろいろな話の中で出て来ると思います。
神についての話は、人によっては短絡的思い込み判断も多いので、話す前に本当はたくさんの前置きをしておきたいのですが、ここでは私の勝手な思い込みでもかまいません。

まず、人は神について真剣に考えたり探求したりしたことがあるのか、から始まります。
もしあるとしても、どの程度・・、当然壁、限界はあったでしょう。
一般的な神の概念は、子供のころから親や周りの人、伝統、行事などで知った神、またあらゆる本やメディアなどによって知った神の知識などが基本になっています。

結局、自分が知っている信じている神というのは、それを土台に自分の中で想像を最高に拡大した結果出来上がった神に過ぎません。
その自分の中で創りあげた神に対して、畏れたり、感謝したり、あるとき信仰心が芽生えたり、その結果として真剣に信心しているに過ぎません。
それであっても、神とつながっている意識でそうなっているのですが。

しかし、それでは全然神の中、というか神とは真に触れていないとなるのです。
それこそ、長い歴史の中で繰り返して来た神という一番外側だけを信じているとなります。
何故、そう言えるのか。
それは、真理、本質といった理解納得を通して全体的な霊的(神)法則を基礎とした意識で神に焦点を合わせていないからです。

一人ひとりの神(魂)とはどんな人もつながっていますが、ほとんどの人はそれを無視です。
一番近い神へのルートを無視し、人は自分の外の神に手を合わせることを教わって来たのです。
その結果は現代を見ても分かります。

まだ、自分の神も知らず、その道も気づけず、いまだ外に神を探し回っているのです。
そして、自分に合ったいい神を探せればそれを信仰し、それが自分の利益につながらなければ、また他の神探しをする、の繰り返しです。
自分の霊的意識レベルが低いと、自分の中からつながる神への道があるということも信じられないとなるのです。

新しい霊的意識の世界は、自分と神とのつながりを知ることから始まります。
もし、自分の中に、自分の神とつながる道があると分かったなら、人はどう動くでしょうか。
それでも、このことを無視するなら、人は何によって救われるのでしょうか。
自分の神を無視しながら、他の神に向かって手を合わせるくらい、自分の神をバカにしている行為はないでしょう。

でも、実際ほとんどの人はこれを平気でやっているのです。
知らないから仕方ないということで、まだ救われますけど。
実際は、ほとんどの人は本当は神を知らないということでいいでしょう。
もちろん、神全体を完全に知ることは出来ませんが、イエスや釈迦やその他の聖者がたが示してくれた霊的法則を知るだけでも、自分を救い高めるための神に近づいたとなるでしょう。

実際は自分の意識を高めることによって、それは自動的にもたらされるのだということに気づいている人は少ないのです。
その延長方向が真理(神)につながっているということです。
それを逆に宗教だとか、危険な悪につながる教えだとか、また科学的でない自己退行の道に過ぎないと思い込んでいる人もいるのです。

実際は、何の真偽も確かめもせず、根拠もな無しにこんな断定を下す人が一番遅れるのです。
しかし、これも今までひどい宗教や洗脳的惑わしや悪の道のうまい誘惑などがあることを知っているからですが、ほとんどの人はそれについてよく調べたり検証したりはしないものです。

見えない意識的世界に対して非難することは、過剰警戒心の表れの一つなのかもしれません。
もし、本当のことが分かれば、多くの人の見方、考え方が変わるかもしれません。
ただ、やさしく解りやすく気づかせる話は、まだないのかも知れません。
時間はかかりますが、その話は難解ではないのです。

それは、自分を知ることから始まり、その自分をこの先どうやって良くしていくかだけです。
それが、自分の意識成長、そのために知る本当の話(霊的法則)、その延長が神(魂)の世界につながっているというだけです。
宗教とか精神世界とか、それを勉強しても、後々それを自分にどう役立てるかが大事です。

宗教や精神世界は、自分の意識を高めるために必要なものが参考としてあるだけです。
もう一度言いますと、それだけの知識をたくさん知ったからといって何が変わるでしょうか。
自己満足でいいのでしたら、それでもいいでしょうが。

宗教も精神世界も二の次、大事なことは自分の意識を徹底して向上させるものが第一です。
そのために神とつながるのです。
何のために自分が生まれてきたのか、そして生きているのか。
ただ生きるための人生か、うまく生きやすくするために神があるのか。

自分が生きやすくするために宗教や神を信仰するのか。
そんな信仰に、どうして神が喜ぶのでしょうか。
神は人間が都合よく生きるために、テクニック程度で動くとでも思っているのでしょうか。
人は、本当の神を知らない、ということに無意識的に気づいているのです。

先ほども言いましたが、神を少しづつ理解することは難解ではないのです。
難解とか、自分には理解出来るものではない、と決め付けてしまうにも理由があるでしょう。
その理由は、本当の神でないものを神として自分の中に固定された観念が多くあるからです。

あまりにも多い、本当の神とは逆の神観念のせいで、本当のことを受け入れるまで時間がかかるということが、難解としてしまうのです。
人は真実を受け入れるにも、それまで自分が信じていたことが間違ったものであっても、それをすぐ手放すということはなかなか出来ないのです。
その間のぐずぐず期間が長くなればなるほど、それだけで人は「もういい、今のままでいいよ」となってしまうのです。

本物の知恵を受け入れるために努力し時間をかけるよりは、今のままでもいいとするのですが、その今のままが一生の苦痛の原因になるとは夢にも思わないのです。
現代は、見えない世界に対しても意外に簡単な気持ちで触れていますが、危険なこともたくさんあります。

教えの内容が本当かどうか、その言っている人が信頼出来るかどうか、は比較的識別しやすいものですが、人が簡単に陥りやすいワナもあるのです。
たくさんの人が集まっているから、有名だから、簡単に出来るから、などです。
結局、自分でよく考え判断するなど、また後で検証するなどのやるべきことを人の判断に任せそれに安易に自分を従わせてしまうということです。

確かに、どう動こうが、人の意見を真に受けようが、すべて自由でいいのですが。
ただ、いつも注意することや正しく疑うやある期間の検証作業などから離れてしまえば、あとは結果的に自己責任、自業自得で苦しんでも仕方ないでしょう。
私たちが自分を高めるために普段から出来る勉強があります。

それは、いつも人のせいにしないという自己コントロールと客観、冷静、その訓練と勉強です。
神を知るは、自分の意識の世界を信じられないくらい拡大させていくことです。
少なくても、私が神と通じている世界は宗教とか精神世界というものでは一切ありません。

この世の何かにすがりつくも、この世の何かを信仰するも無く、この世の観念にも自由です。
私は真理(神)の世界から、本当の意識の自由と生き方を教わったのです。
神を知るには、理解の段階を通して一つ一つ納得して積み上げるだけでいいのです。

これについては、もう少し説明したほうが神方向の内なる回路が開いてくれるかも知れません。

生命意識に生きる(1)~真に生きる、そして本当に正しいこととは・・ 2009/12/19

これから、本当の言葉の意味を知っていく一歩を踏み出しましょう。
「生命意識に生きる」、これは「本当に生きている」を実感することでもあります。
「えぇ!私たちは本当に生きていないの、今生きているということは・・」
「本当に生きているという意味が・・」こんなことを言うと笑われてしまうかも。

そんなことは百も、千も承知です。
大事なことです。
私が自分という存在をかけ、最初からいい加減なことを言う訳はないのです。
本当に正しいこと、本当の言葉の意味はいずれ分かるようになります。
何故いずれか。

もし、簡単に分かるようなことであれば、誰も人生で苦しむことはないからです。
実際、人は何で苦しむのか、この本当のことが分かればいいのです。
この本当のことを知って、それでもまだ苦しむ、実際そんなことあるわけないのです。

もし、それでも解放されないなら、本当は何も知っていないということです。
これは、神の法則、霊的法則です。
神の法則、霊的法則は、意識の仕組み、法則そのものです。
人間意識の仕組みを知れば、この世、人間をほとんど知ったことになります。
それでも苦しむのですか。

そういう人は、自分にウソをついているから苦しむのです。
どんなウソか。
本当はよく理解もしていないのに知ったつもり、知ったふりをしているというウソです。
もう、人はだませても、自分をだますことはやめにしましょう。

本当にそれが出来れば、自動的に人をだますことも、自分をつくろうこともしなくなります。
人と、誰かといつも比較しているから迷うのです。
一部の人を相手にして、どうして高い意識レベルまで持って行けるでしょうか。
宇宙の、地球の、日本の、今住んでいる所の、そしてその辺の誰かと比較、実に狭い!
どうしたら今、これから、そして将来の苦痛を完全に減らせるか。

余裕のない、狭い考えの、これまで習った知識重視の、本当のことは何も知らない自分の。
その自分の持ち物、観念、信念、プライドにどれほどの価値があるのか。
それが本当の自分なのか、それが本当の自分でいいのか、それが最高の自分なのか。

自分というのはこれまでなのか、これ以上どうにも出来ないのか、このままで生きるのか。
人生は疑問と迷いで振り回され流されて、いつのまにか大きな渦に巻き込まれています。
でも、どうにも出来ない、どうしたらいいか分からない、何とかなるものなんか、それもない。

私から一つ言いたいことがあります。
何も知らない、本当のことも知らない人の話はまともに聞くな、受け留めるな、ということ。
「疑う意識を持て!」
これは何もその人を疑うということではなく、言葉の意味の正しさ、価値ということです。

こうは言っても誰も出来ないことは分かっています。
何故なら、自分にそのような要素も内容的理解も意識訓練も、何も無いからです。
一生自分を救ってくれる、守ってくれる、そして高めてくれる、こんないいことを知らない。
教える側も何も知らないから、目先の一時しのぎ、暗示、テクニックでこれで良いとする。

根本解決の方法、本当の意味、それが一生続く道、それをしないからいつまでも苦しむ。
私から言えば、それは「ある」の一言、納得できる解決はあるのです。
すべて霊的、神の法則を通しての全理解の過程で自分は解放されて行くのです。
この過程を通ること、そしてそこに至った意識が、「真に生きている」ということです。

それは、「ある」と断言出来るのです。
これは私の言葉です。
また、それを証明するのは、一人ひとりの「自分」で、自分しかいないのです。
私の断言なんか聞いても、それを信じても、それだけで喜びを感じるわけもないのです。

もちろん、この理解は簡単に出来る方法なんかありません。
簡単を求めても、それを期待して世界中を探し求めてもあるわけ無いのです。
もし、あなたに余裕があってその方法を探せたら、おそらく大金持ちになれるでしょう。
その簡単な方法は、私だから知らない出来ないのではないのです。

そんな方法も言える人も、無いそしていないということです。
簡単な想像をして見ましょう。
もし、あなたの前にイエスか釈迦がいて、あなたに霊的法則の説明をしたとします。
その言葉を聞いて、あなたはすぐその法則を理解納得出来るという自信がありますか。

これで分かるはずです。
イエスや釈迦が簡単に霊的法則、神の法則を教えたとしてもです。
だったら、もう2千年以上経っている今、そして世界中で修行して来た求道者はいい方法を残してくれたはずです。
そんな方法、どこかにありますか。

いつまでも、都合のいいことばかり考え、想像し、ただ探し求め、待っているだけでは・・
今回から進めることは、ただの信仰目的のための宗教、漠然と神秘能力を付けたいというだけの精神世界、そんなことではないのです。
実際に使える意識、自分の知恵となるもの、他を冷静に見渡せる自分にすることなんです。

あいまいではない、本当に生きる、すべてに使える意識の知恵を目指すことなんです。
ただし、これは、私の行っているセッションでも、月1回のペースで1年はかかる内容です。
ここはブログで、文で伝えることになりますので、十分な説明とは行かないでしょう。

それでも、自分なりによく考えて行けば、まったく変わった自分になることも可能でしょう。
今回は1回目です。
まず、これだけは知っておいてほしい、それを言っておきたいと思います。
それは、出来るだけ全体像をつかむこと、それが大事です。

たとえば、地図で見ただけではその町の雰囲気はなかなかつかめません。
しかし、高いところ、それも全体を見渡せるくらいの高さから見れば、全体が頭に入ります。
全体を知る、これは形でも、目的方向でも、見えない世界でも、霊的なことでも・・

宗教、精神世界、これを勉強してどこに向かいたいのですか。
それがはっきり見えているのですか。
迷い無く、疑うことなく、自分の道を真っ直ぐ進んでいますか。
見えない世界です。
それを簡単に出来るという人の言葉をどうして信用出来るのでしょうか。

その人に質問してみれば分かります。
どのような返答があるでしょうか。
よく使われている「あなたの中に答えはある」ですか。
それで、納得出来るのでしょうか。
私だったらこう言います。

「あなたの中に答えを出せるものがないから、たくさん教えます」と。
たくさん教えても、まだまだその先に教えることがいっぱいあるのです。
見えない意識の世界でも、神秘霊的世界でも、仮にでも全体を把握出来なければ進むにも、不安でしょうがないと思うんですが・・
仮だからいい加減ということではありません。

服を作るにも仮縫いというものがあるように、とりあえず方向性の目安ということです。
全体像も分からなければ、お互い何を目指しているのか、そんな進め方はおかしいでしょう。

お知らせ
今後の記事掲載について

「宇宙意識圏突入への軌道」でスタートした当初は、いろいろ細かいことまで時間をかけて説明していく予定でしたが、このタイトルでの継続は終了します。

今回から、目標や内容などは「宇宙意識圏突入への軌道」の継続という形になりますが、タイトルを「生命意識に生きる」に変更して1年くらいは連載して行こうと考えています。

「生命意識に生きる」では、人の意識にしつこく貼り付いているネガティブ性を、自ら引き剥がしたくなるくらいの気づき(刺激)を与えられたら、と考えています。