真精神世界

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真精神世界(16)~意識向上(悟りの段階)の成果は、楽の実感!2018/10/15

観念から離れ真理方向に向かってその理解を深め体得していく段階を悟りというが、またそれは意識向上でもある。
自分の意識を混乱させる迷いから離れるためには、必ず意識向上が必要である。
しかし、多くの人は難しい言葉が出てくると、その言葉に特別高いものが含んでいると勘違いしているところがある。

特に、悟りという言葉であるが、その言葉を使わなくてもその意味は意識レベル向上ということと同じだと考えていいのである。
悟っていく段階は、特別な修行や何かの覚醒技法などを行うだけでは到達の道が遠くなるだけでなく、一般的ではない。
また、悟ったという言い方にしても、それがどの程度かをはっきりと示すことができないので大変あいまいで難しい言葉に感じてしまうのである。

「悟る、悟った」という言葉を使うことなく、それを意識レベルの段階で示した方がよりはっきりとわかりやすいものである。
そうすると、自分自身の意識レベル向上の目安にもなり、さらに意識レベルアップのために何が足りないか、また何が必要かまで気づきやすくなるのである。
しかし、意識レベル向上にしても、どのように進めていけばいいかは誰もはっきりと分からないために、長い間迷うことになる。

当然だが、意識向上で向かう方向は真理、神方向になるのは間違いない。
では、真理をどうやって理解していけばいいのか、また神とは何か、神を理解していくには神の何を分かっていけばいいのか・・・
これは、意識向上、悟りの段階の根低になくてはならない基本的なことである。
こう考えると、実際に分かっていないことだらけなはずである。

スタートからこの分からない世界をどうやって知り、また目指していけばいいのだろうか。
一般的意識から見れば、このような世界は全く見当もつかない何のことか少しも分からない世界に違いないのである。
意識向上の道は、絶対意識の勉強が必要な道でもある。

意識の勉強と言っても、何を指して言っているのか、また何をしていけばいいのかもほとんどの人が分かっていないと言っていいかもしれない。
宗教は、神を知る道に入るのかもしれないが、実際はどの程度理解しているのだろうかと思う。
精神世界になると、今は意識向上など関係ないといったものもあるので、精神世界もいずれその中で分離が始まるかもしれない。

仏教そしてキリスト教、それ以外の宗教や霊的教えは歴史を通してたくさんあった。
しかし、宗教離れという言葉があるようにそれもだんだん薄らいで来ている。
また、精神世界も、今は何か行き先を失って来ている感がある。
意識向上しても、それが何になるのかと思っている人もたくさんいるだろう。

こうなると、人は意識向上とか悟りとか言う前に、意識というものを全く理解していないということになるのである。
こんなことは今さら言うことでもないが、本当に心、意識というものが何であるか知らないという人は本当に多いのである。
心、意識が何であるかを知らずに、意識の勉強などできるはずもないのである。

ここまで随分長い前置きになってしまったが、今回から基本的なことに戻って、意識の世界を捉えやすく説明していきたいと考えている。
心、意識といってもその範囲は広いので、順序よくまとめながらの説明はできないと思うので、自分なりに整理しながら理解してもらいたい。
私自身も、この意識の勉強をする前は、本当に何をすればいいか分からなかった。

これから説明していくことは、たくさんの意識の勉強をして来たことで私自身が確信していることである。
その内容が合わないという人は、それはそれでいいと思っている。
これからいろいろと話を進めていこうと思うが、その前に結論を先に言っておきたい。
その結論というのは、私の絶対的確信である。

それはどういうことかというと、意識向上や悟りという言葉に変えてその成果または結果を一言で表現するなら、「楽」という言葉になる。
これからあなたは、絶対的「楽」を目指してはどうかと思う。
「楽」といっても、怠惰な気持ちや堕落していく意識状態ではない。
また、物的快楽を追い、その中で生きていくことでもない。

「楽」とは、この世の迷い、苦悩、不安など、要は自分を自由にさせないものから解放された意識状態である。
意識向上や悟っていく段階が上がると、この「楽」の域に入っていくのである。
これ以上の段階になっていくと、次は「楽」を土台に「解脱」という到達点が見えてくるのである。

ここで、また難しい「解脱」という言葉が出てきた。
「解脱」という誰もが理解できない難しい言葉であっても、その前の意識はすべて「楽」になるということで少しはその感じが理解できるかもしれない。
余計な言葉や考えなどは横に置き、ただ「楽」を目指せばいいのである。
もちろん分かると思うが、ただ「楽」を目指せばいいと言っても、それは簡単なことではないということである。

だから、その道のずっと手前の初歩基本的勉強が必要ということで、いつも言っている簡単すぐにはないということも理解できるはずである。
ここで言う「楽」というのも、あいまいや適当なものではなく「真の楽」でなければならないのである。
「真の楽」など、真理意識のことだから誰も分からないと思うが、分かりやすく真を極みとでも考えると、「真の楽」は「極楽」になるのだろうか。

どうも極みという言葉は、この世的限界を感じてしまうので、やはり真という言葉がいいようだ。
それは宗教でいう、どこかの地でも、どこかにある場所でもないのである。
その場は、人の意識の中にしかないのである。
意識の勉強を通して、悟りの段階や意識向上の道の到達点が解脱、そのあたりの意識になれば「楽」が内から湧いてきたり降ってきたりするのが分かるだろう。

だから「楽」は、自分が努力してきた結果であり答えである。
「真の楽」は、自分が努力しないで得られるものでも運次第で得られるものでも、絶対そのどちらでもないのである。
これも神の法則である。
今回は、「真の楽」を目指そうといった話になった。

私は長年、意識到達へ向け徹底して意識の勉強をしてきた。
そして、ずっと意識の勉強は良い意味での緊張や厳しさが必要で、それが解脱するまで続くと思っていた。
しかし、それは違うとはっきり実感し確信した。
「真の解放、真の楽」を意識で絶対にならない限り、どんな意識向上の勉強も未熟の中なのである。

「真の解放、真の楽」の段階はあるが、自己意識が高まって行くに従って自分が楽にならなければ、そしてそれで良しとするのは一時的な自己欺瞞なのである。
このことも頭に入れておくと、自己意識向上の枠も拡大するだろう。