名言・格言

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名言格言 ・・・名言(35)「自分がなり得る者になれる」その願望実現法は? 2015/09/01 

★☆ 名言(35)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★

自分が何者であるかに固執しなければ、自分がなり得る者になれる。

★☆ ・・・・・・・・( 老子 紀元前4世紀?~6世紀?)・・・・・・・・☆★
           < 古代中国の哲学者であり、道教創案の中心人物>

この名言が、意識全体に関係していることが分かれば、この世的なことだけを言っているのではないことに気づけると思う。
究極を言えば、この名言は真の願望実現法であり、さらには超能力を得る方法にもつながる。
しかし、ここではそこまでの話をするのではなく、自己成長といった自己意識向上につながることを話していきたい。

この名言をこの世的なことで考えれば、職業や地位や実績や功績などから、他人からそう見られる自分になろう、作ろうとすることを言っている。
これ以外にも、自分は〇〇のような人になりたい、そういう人になろうとか思うことにも当てはまる。
これは、この世を生きるためには必要なことであるし、また自分自身を向上させる目的意識になるので、ネガティブということではない。

ただ、これに固執すると、自分の意識向上に対してブレーキになることもあるということを知っておくべきである。
何故なら、この世という観念につかまってしまうからである。
しかし、何も心配することは無い。
このようなことが分かるのは、ある意識レベルになったときからなので、若い時はどんな人も自分が成りたいものを目指してがんばるのは普通のことである。

ということで、この名言はこの世的なことに焦点を当てているのでは無いということに気づけると思う。
この名言の意味に早く気づくにも、やはりそれなりの意識勉強が必要である。
では、どうしたらこの名言の意味が分かるか、また近づいていけるかを説明したい。

「自分がなり得る者になれる」というのは、目指す意識成長でも物的面でも、どちらにも言えることだと頭に入れておいてほしい。
この名言は、本当は意識の本質に関係するとても深い意味があるので、この名言通り固執しなければと思っても、簡単にその通りにはならないだろう。
ポイントは固執、要は執着といった自分を作っている意識の理解が大事である。

それが理解出来る意識レベルになるには、ポジティブ、真理、霊的な知識と知恵からなる自分を準備する必要がある。
その準備とは、自分の意識を高いレベルに向上させるためには、人は二重人格的にならなければならないということである。
それは、2種類の性格を持つということではなく、この世に生きる自分と真理を目指す自分、その2つの意識を自覚出来るようになることが必要ということである。

この2つの意識の質はまったく違うものであるから、当然一緒にすることはできない。
2つの意識とは、一つは観念、もう一つは真理という意識で、それは意識の枠として考えれば分かりやすいだろう。
この世のことはすべて観念で、その中には本当の答えなどもない限界のある意識で、拡大させることも出来ない混乱意識といってもいいだろう。

しかし、真理の世界に自分という意識をおけば、そこからこの世の観念のことは限界を通して考えることができ、また納得出来る答えを出すことも可能になる。
私自身は、完全に二重人格的意識にして、上の意識からこの世を見ている。
完全な上から目線を実現している。
上から目線といっても、ポジティブ意識であるから差別的なネガティブ意識は一切あるはずもない。

この意識から「自分がなり得る者になれる」に意識を向けがんばって来たのである。
当然、この世の何かに対する固執など少しも無いと、はっきり自覚も出来ている。
ましてや、この世の自分が何者であるかなども、すでにとうの昔に自分の意識から消え去っている。

そんなブレーキがあっては、本当の「自分がなり得る者になる」というのは、夢の夢になってしまう。
このような意識になるために準備することが、意識の勉強ということである。
意識の勉強を通して、自分の意識レベルが段階ごとに上がっていくのが、悟りの段階である。

その過程が、あなたの重要な経験であって、それが次の意識段階の準備となる。
これを飛ばしては絶対意識レベルが向上するということは無い、絶対に!
固執という執着を自分の理解で手放すことが出来たとき、その執着から解放されたとき、その時初めてこの世の観念という未熟さが分かるのである。
それも、自分の意識レベルが上がる段階毎に気づけるだろう。

神の法則、神の世界がある以上、これ以外に何を考えられるのであろうか。
この観念世界が最高で、それ以上のことは理想とか白昼夢に過ぎないのだろうか。
この観念世界のあいまい、感情、無知が、どうして本物の世界だと思えるのだろうか。

私は、ほとんどの人はこのことに少しは気づいているはずなのに、何故一歩踏み出さないのだろうかと思っている。
一歩踏み出すというのは、この世の観念から抜け出し、本物の世界を見に行こうとすることでもいいのだが。
「自分が何者であるかに固執しなければ、自分がなり得る者になれる。」

これを実現するための方法などは、この観念世界にはない。
一番の近道は、今の自分から少しずつ抜け出していくことだけだ。
そのために、もう一つの自分という本当の意識を、これも少しずつ、それこそ真剣に意識して創って行かなければならないのである。
この道に入っていけば、生まれ変わりをストップ出来る必要条件も満たしていくだろう。

観念に捕まっていると、それはいつまでも足踏み状態が続くということでもあるので、このことも知っておくといいだろう。
いつか気づきが来た時、内から何かが動くだろう。
それは、「こんなことはしてられない!」という言葉になって出て来るかもしれない。

この老子の名言は、観念やネガティブのワナの呪縛に気づけ、そうすれば本当の自分に気づいていけるという意味も含んでいる。
「自分がなり得る者」、これがわかったと言える自分を目指してもらいたい。


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コメント

Unknown (岡部里美)
2015-09-03 21:56:19
よく解ります。抜け出せなくて足踏み状態のままある意味フラストレーションが溜まります。子育てをしながら、その合間合間で、一人の時間に、こういうことを考えてました。
私って一体何者なのか?なんて今まで幾度となく思ってきたので。今、成りたい自分は?と云えば昔なら『どんな自分にでも成れる』と強気でもあったのですが、今は、成りたい自分よりも、子育てに重点をおいているので、深く掘り下げて思うことも出来ません。常に、自分は何者?と問うては、解らない…の繰り返しです。
しかし、自分が改めてふと思ったことが記事になり、なんだか、嬉しく思います。

Unknown (岡部里美)
2015-09-03 22:07:30
続きがありました、すみません。
悩み苦しんだ時がありました、20代は、ほとんど、自分とは何者?だと自分に問いかけ、『きっと自由に意識を持って行かなきゃ駄目だ』と気付きました。捕らわれず。
30代は子育てが中心となりあの頃突き詰めて考えてたことも、中途半端で終わりました。
私の人生、中途半端です。

こんにちは。 (F・H・S です)
2015-09-04 19:01:44
これまではこうでした。
しかし、・・・。
人生って、本当に分からないものですね。
ということもあります。

二重人格 (O.F)
2015-09-05 19:38:54
精神世界系の本を読むと、「あなたの観念を捨てなさい」、「今の観念を手放しなさい」とか書かれていることがあります。でも、(私が知る限りですが・・)先生の言葉の中にはそのようなものはありません。
先生はブログの中で、『それは無理なことだから、また後で苦しむから無理してそんなことする必要なんかないよ』と、書いてくださっています。
その理由が、今回書いてくださった「二重人格」=「二つの意識」の内容にあるのだなと感じました。
今回の先生の記事を読ませていただいて、ほとんどの人が「観念の塊の自分」を「本当の自分」だと思うしかないのは、「真理を目指す自分」が不在だからなのだと、改めて痛感した次第です。
自分のことも含めですが、その状態のままで生きるしかないと「観念の塊である自己への固執」から解放されないのは当然ですよね。その自分しかないのですから、まったく・・赤裸々に頷くばかりです。
限界の中、拡大できない狭い意識世界の中でああでもない、こうでもないと比較したり、競争したり、嫉妬したり、落ち込んだり、卑屈になったりで忙しかったなと・・。
だから、先生は折に触れ「本物で固めた新しいポジティブ潜在意識をつくっていくこと」を教えてくださっているのだと分かります。これまでの自分は、この世を生きる用につかっていけば良いのだと・・。
この行き方が、先生が教えてくださっている『この世という人間社会に生きている私たちは、霊的修行者からみると一段遅くなる感じがすると思うが、実際はこのような修行者に引けを取らない意識成長の方法があるのである』ということなのだとしたら、これまの自分がどのような自分であったとしても、これから取り組んでいく自分の「意識の学び」によって、過去の痛い失敗経験もポジティブに転換していけるし、「本当のこと」をどんどん理解していくこと、いずれこの世を楽に生きていくこともできるようになっていくのも見えてきます。
実際に、この世の何者かになろうとがんばってきてしまった自分がいましたが、そのがんばりには、子この世で一目置かれる何者かの自分になれたら、きっと手に入るだろうと見積もっていた利益のためだったように思います。
でも、今は(以前よりも)目が覚めた自分です。
意識の器用さ、二重人格・・この意味の深い理解を、人生での経験を通してしっかり学んでいきたいです。
自分がなり得るものになるために、準備、準備をし続けます。
文章が長くなってしまって恐縮です。
ありがとうございます。

O.Fさん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2015-09-06 19:57:33
その通りですね。
観念をどうやって捨てていくか、その方法は分かりませんが、
捨てることを意識するより、観念がどういうものかを理解して
いった方が意識成長は早いと思います。
本当に分かってしまえば考える必要はありません。
考える必要のないものは、自動的に自分からはがれ落ちていきます。

ありがとうございます。 (O.F)
2015-09-06 23:17:00
ー本当に分かってしまえば考える必要はありません。ー
ー考える必要のないものは、自動的に自分からはがれ落ちていきます。ー
先生、ありがとうございます。
とても有り難い内容(ヒント)です。
先生が書いてくださってこ2行のこの内容を読んで、私の中で靄が晴れていくのを感じています。
この内容は、悩み解決や意識向上の効率にもつながることだと感じています。先生から学んだことや聖者はがたから学んだ教えが、私の中でまた太くつながり、四方八方に広がっていきます。
段違いの、やる気が静かに湧き出てきました。
先生、生きたヒントを本当にありがとうございます。

名言格言 ・・・名言(34)自分の好きなことに努力した結果、得られるのが才能である。 2015/08/20

★☆ 名言(34)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
               
人生の終わりに神の御前に立つとき、才能はもうひとかけらも残っておらず、
「与えてくださったものはすべて使い切りました」と言えるようでありたい。

★☆・・・・・・ ( エルマ・ボンベック  1927 - 1996)・・・・・・・☆★
          < アメリカのコラムニスト >

私は、エルマ・ボンベックという女性をこの名言で初めて知った。
なかなか目の付け所が良いと思ったので、今回彼女の名言を取り上げてみた。
彼女をユーモア作家と紹介しているところもあるが、本を読んだことがないのでそれは分からない。
しかし、観察力と表現力に焦点を当てると、その背後に意識の広さを感じる。

この名言は、私は彼女の素直な思いから出た自分自身を表現したものだと思っている。
「人生の終わりに神の御前に立つとき」とあるが、これについては、気づきを感じる人は今から考え準備しておいた方がいいことである。
それとも人生の終わりのことを今から考えることは、夢も希望もないとなるのだろうか。

私なんか、夢や希望が無いどころか未来もないのだが、こう言うとどう思うだろうか。
この名言は、文量から深くは説明出来ないが、二つの意識で説明してみたい。
一つは、この名言にある人の才能についての説明。
もう一つは、この名言を超えたレベルの人間意識の進化についての説明である。

この名言の通りに出来れば、その人の意識は成長どころか大きく進化しているとなる。
意識が大きく進化した人にとっては、人が大事に思う物的未来などは消え去るのである。
人の才能とは何かということから入っていこうと思うが、ほとんどの人は、才能は誰にでもあるものではないと思っている。

才能とは、ある物事を成し遂げることが出来るその人に備わっている能力である。
確かに、最初から特別な才能を持っている人というのは少ないかもしれない。
しかし、誰にも物事を成し遂げることが出来る能力は持っているはずである。
どんなことも、積み重ねであるレベルに到達すれば、何もやっていない人から見れば、才能のある人と見られるだろう。

才能を気にするより、とにかく自分にある能力を発揮し努力することが一番である。
「自分にある能力を発揮し努力することが出来る」というのは、これも一つの才能だと私は思っている。
やる前から自分には才能がないからと決め付けるのは、心の中で何かと無意味な比較をしているからである。

人の思い込みというのは、時には自分をダメ人間に向かわせるワナにはめていくので注意しなければならない。
物事をやり遂げるには、それを面白く楽しくする工夫が大事なのであって、苦しい努力など考える必要はないのである。
才能が有る無いにこだわっても仕方ないのである。

最初から才能のある人なんていないのである。
今才能があると言われる人は、過去世で今持っている才能につながることを真剣に努力していただけなのであって、本当は自分の好きなことをやっているだけである。
もし、今生で何かを実現するために死ぬまで努力していけば、来世、その思いと努力は才能として開花するだろう。

これは、どんなことにも言えるのである。
人の意識は平等であるから、自分の意志次第で超一流にもなれるのである。
それを、何の能力も努力も発揮しないで、願望実現を考えること自体、今生も来世も大きくつまずかせることになるのである。
自分は違うと思う人は、そうやってみるのも自由だが、わざわざ神の法則に逆らう必要があるのだろうか。

次は、この名言を超えたレベルの人間意識の進化についての説明をしたい。
この名言にある、才能はもうひとかけらも残っておらず「与えてくださったものはすべて使い切りました」という意味を説明したい。
エルマ・ボンベックが、この本当の意味まで理解しているとは思えないので、この言葉は彼女が自分の仕事や人生に満足しているといった思いを表現したものだと考えている。

とは言っても、この意味を説明するには、やはり私の経験から話さなければならない。
その内容は、この名言に通じるものだと思っているが、あとはあなたの解釈次第である。
私自身、意識の理解を積み重ねてここまで来た自分の意識レベルをいつも普通と思っている。

それは才能とは思わず、いつもこれが普通、段階が上がる度にようやくスタート点に立てたと喜んでいた。
私は、才能という言葉はこの世的なもので、本当はどうでもいいと思っている。
人の評価が加われば才能と言われるだろうが、自分で進むには、才能よりただやるしかないのである。

先ほども言ったが、「ただ、やるしかない」これは誰もが出来ることである。
自分が決めた目標に向かって進むというのは、動物にはないものだから、これが出来る
ことも才能でいいのではないだろうか。
着実に積み重ねで得たものが、「与えてくださったもの」となる。

全部自分でやったと人は思いがちだが、神の法則からすれば、与えてもらったもの、条件を満たしたことで、次に準備として自動的に備えてくれたものとなる。
人と比較しても仕方ないのである。
自分が出来ることしか出来ないのであるから、それをしっかり知ることである。
この積み重ねで、徹底的に意識進化して行けば「才能はもうひとかけらも残っていない」というところまで進むことが出来る。

要は、自分の知識で、もう使えるものは何も無いというところまで行く。
当然、ここまでなると、この世のことではあり得ないことになるだろう。
エルマ・ボンベックの意識で考えると、この世と次なる内的世界との分離意識に入ったと言うしかない。
ちょっと難しくなるが、この段階のことは、神の世界に関係することになる。

どういうことかというと、これまで努力し積み重ねて得たすべての知識と智恵は、この先一切使いものにならないということである。
もっと大きな意識から理解すれば、神の世界に向かうにはこの世のすべてのものは必要ないということになる。
才能も天才レベルもである。

これは寂しいことと感じるだろうか、逆である。
たとえ天才レベルであっても、物的レベルの智恵に邪魔されたくないとなって本物だ。
これは、なかなか簡単には意識から離せないことになるだろう。
これが、高度なネガティブ障害である。

これだけではないが、この名言の本当の意味はこういうことだが、まだまだここまで考える必要はないだろう。
私が言いたいことは、人のことをどうのこうのと考えているより、もっと自分を認め大切にして、自分の能力を発揮させる環境を自分の中につくることに努力すべきだということである。

これを誰にやってもらうのだろうか、誰がやれるのだろうか。
誰かに価値を置くのではなく、この世に価値を置くのではなく、自分自身に価値を置かなくて何が人生だろうか。
自分に合っているもの、興味のあるものを何か決めて、それを一生極めて行こうと思う積み重ねが、いずれ一つの成果となって表現されるだろう。

あなたの努力の成果は、それを求めている人にとってはすばらしい力になるのである。
このことをイメージ出来れば「人生の終わりに神の御前に立つとき」、その時言う言葉も浮かんで来るだろう。


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コメント

質問です。 (O.F)
2015-08-22 14:58:31
いつもありがとうございます。
自分に合っているもの、興味のあるものが自分でどうしてもつかめない、分からない場合はどうすれば良いですか?
努力する能力はあっても、それを発揮できる好きなこと、興味のあるものが見つからない場合は、今目の前にあることに真剣に取り組めば良いでしょうか?
そのようなものに、この世で実際に誰もが出会えるものなのでしょうか?
好きなことが何だか分かり、それに人生をかけられるのは本当にうらやましいです。
本当は分かっていても、勇気がないだけなのでしょうか?

O.Fさん、ありがとうございます (F・H・S )
2015-08-22 18:35:30
簡単に答えられる質問ではありませんが、どんなことにも順序があります。
まず、そのところだけです。
自分に合っているもの、興味のあるものが分からなければ、自分に合っていないもの、興味の無いものを大雑把にノートに書いていけばどうでしょうか。
すべてのことが、自分に合わない興味の無いもので占められるかどうかです。
別な見方は、自分自身をどんどん良くしていけるもの、または身近な大事な人を良くしていけるものは何かを探してみるのはどうでしょうか。
始めから細かいものを探すのではなく、大きな分野や方向性を出して行けば、後は絞っていくだけです。
勇気がないというのは、その前に何も知らないからということがあります。
勇気とは何か、これってどこから来るか知っていますか。
どういったことが勇気と言えるか知っていますか。
狭い見方、思い込みで、勇気の意味を限定していませんか。
と言っても、これに気づこう知って行こうというのも、あなたにとって勇気になるかもしれません。
がんばって、とりあえず最初に書いたことをやってみてください。

探してみます。 (O.F)
2015-08-23 00:50:16
ご返信をありがとうございます。
勇気を出して、今現在は苦手ことに挑戦しています。
これは、自分を良くするためにやっています。
本当はやりたくありませんが、やらなければ次が無いので、それが自分で分かるのでやっています。
先生の記事を何度も、何度も読みました。
そして、勇気の意味を限定しているというより、やりたいこと、興味あること、好きなことの意味を、そちらの方を私は型に嵌めた狭い見方や思い込みで限定しているのではないかと感じました。
この言葉を見聞きすると、いつも不自由さや緊張、圧迫感や焦りのようなものを感じます。
勇気は、ポジティブ意識力だと私は感じています。
迷いや動揺、不信感などが存在しない状態、やる気が自然に、素直に、真っ直ぐに出る状態、結果など臆せずに自然と挑戦する意欲が湧き出て来る活き活きとした楽しみな状態が、私が自分で実際に感じている勇気です。
違っていたらすみません。
私は・・この世にあるものを無理に自分に急いで当て嵌めるような考え方で、ずっと探そうとしていたのだと思います。
今はっきりと自覚できる私の悦びは、自分がどんどん良くなることです。そして、とても良い感じが自分に浸透していくあの感じが、私には何とも言えない悦びです。
今は、それを一生懸命にやっている最中なんだと思います。その積み重ねの結果で、必ず見えてくるもの、つかめるものがあるのではないかと、そう明るく思えてきました。
いただいたアドバイスを活かして、焦らず、無理をせずに「自分自身をどんどん良くしていけるもの、または身近な大事な人を良くしていけるものは何か?」を、これから新しく探っていきます。
どんなことでも、そこから新しく気づき、それを学びに変えて、自分に活かして、自分を良くしていく努力をする・・それが私にとっては面白いこと、好きな事なのかもしれません。
時間をかけて、じっくり取り組んでみます。

勇気について (O.F)
2015-08-23 02:35:44
先のコメントで、勇気についての私なりの感じを書きましたが、先生が「勇気がないというのは、その前に何も知らないからということがあります。」と書いてくださった意味が分かりませんでした。
今自分が挑戦しているやりたくないことを「やろう!」と迷いなく思い、直ぐに行動に移せた時のあの感じを振り返った時、あぁそうか・・と、(私なりにですが)辻褄の合うものがありました。
ー勇気とは何か、これってどこから来るか知っていますか。ー
ーどういったことが勇気と言えるか知っていますか。ー
勇気は、潜在意識からのGOサイン。内的お知らせ。
やってよし、挑戦してよし、それで正解、迷わず進めといった潜在意識からのメッセージで、それを実際に行動に移す際の背中を押してくれる追い風のような力。
もし、そうだとすれば・・私の「本当は分かっていても、勇気がないだけなのでしょうか?」という質問は、同時に「勇気について知らないです」ということを自ら語っていることになり、先生があのように書かれたのが分かります。
何も知らないということは、潜在意識に素材・要素がないということです・・。それなのに、思考で見つけようとしていたから、チグハグになって、おかしくなっていたのだと思います。
そういった見方で自分を見れば、今もちゃんと「やりたいこと」をやってるのではないかと・・、そして、そこからちゃんと成果を得られているではないかと・・。
勇気とは何か?が分かっていれば、「本当は分かっていても、勇気がないだけなのでしょうか?」の質問は生まれません。
勇気とは何か?が分かっていれば、その意味と感じをもって、自分で判断していけます。
順序・・そして、潜在意識の準備。
先生が書いてくださったように、始めから細かいものを探すのではなく、大きな分野や方向性を出していき、それを後で絞っていく作業をやってみます。
自分に合っているもの、興味のあるものを探そうとすると、他人の言葉がいつも自分を縛ってきた、それにいつも従ってきた自分がいたのに気づきます。
先生の『人のことをどうのこうのと考えているより、もっと自分を認め大切にして、自分の能力を発揮させる環境を自分の中につくることに努力すべきだということである。』が胸に染み入ります。
私はやっと・・今その環境づくりのスタート地点に立てたのかもしれません。
先生の文章を読んで、自分の中でひっかかりのある部分には、必ず私にとっての「良き知らせ」が隠れています。直ぐには分からないことも多々ありますが、本当に有り難いです。
どんどん素直になれます。
本当にありがとうございます。
※私なりの解釈なので、間違っていたらすみません。

Unknown (岡部里美)
2015-08-26 18:45:46
やはり、ここに来て良かったです!絶対安心の安らぎを感じられます。
皆さまの投稿を読ませて戴きました。私も同じような疑問がありました。
先生の明確な答えは、私の目の前を鮮明にしてくれます。
やはり、このブログに来て良かったです。

岡部さん、ありがとうございます (F・H・S です)
2015-08-28 08:02:55
ありがとうございます。
いっぱい勉強して、自分を楽にしてあげてください。

名言格言 ・・・名言(33)「愛」とは何か、そして真の「愛」に触れるには! 2015/08/10

★☆ 名言(33)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                      
真理への愛のみが、我々を決して裏切ることのない唯一の愛である。

★☆ ・・・・・・・・ ( ロマン・ロラン 1866 - 1944 )・・・・・・☆★ 
           < フランスの作家 >

たまに「愛」とは何ですか、と聞かれるときがある。
それに答えられないことはないが、ただどのレベルで説明するかで迷うことがある。
何故なら、「愛」の説明は、あらゆる意識にあったレベルでしか話せないからである。

そういう意味で言うと、この名言でいいなら、私は一番楽な「愛とは何か」の説明の一つになると思っている。
真理レベルで言えば、神の愛は、当然すべての人に公平に浸透している。
そういうことで、この名言を解説するということは、大して興味を惹かれることではないと思っている。

私自身、長い間、真理や霊的世界や人間意識の研究を続けてきたが、最近まで「愛」については、絶対的確信を持って言えるものはなかった。
しかし、そういう自分も今は過去になってしまった。
そうであっても、今は違うといったところで何の証明手段もないので、今の自分の意識を、ただそのまま述べるしかないのである。

人それぞれの受け止め方は違うと思うが、ここでは私が実際に触れている「愛」を表現してみたいと思う。
ここではその一部しか表現出来ないが、それでもこの表現で、「愛」の理解が今より一歩くらいは前進出来るだろうと思っている。
これから書くことは、私が愛に触れている意識を表現するものだから、それについての説明は無いが、出来る限り愛の振動に触れて書いて行こうと思っている。

「愛」の本質は神である。
愛は、神のエネルギーである。
それを受け止める人間意識レベルで、愛というものがどういうものかに気づくしかない。
受け止める側の人間意識レベルが、愛の質といってもいいだろう。

だから、観念レベルの中に入って来た神の愛は、当然感情的、または観念レベルで理解表現するしか、それ以外の方法はないのである。
「愛」は神なのである。
「愛」は神の一部の顕現なのである。
「愛」は、神の本質がエネルギーとして人の意識に侵入してくるものである。

愛が少ない者は、当然ネガティブ意識の人間である。
これは、私が思い込んでいることではなく神の法則を知れば、誰でも分かることである。
この愛は、感情やたとえその愛の表現がポジティブ性のものであっても、真の愛からみると、それでもレベルの低い愛なのである。

こういうと「愛は愛だ!」と反発したくなるかもしれないが、そういう人は違いとは何かを知ることだと思う。
また、人の心が冷え切るくらいこの世に愛が少なくなれば、この世はネガティブで支配されてしまうのである。
要するに、愛があるレベル以下になれば、人類は滅亡への道を辿るのである。

いつの時代も、この点は敏感に注意していなければならないことである。
この地上は、絶えず戦いに明け暮れているが、それでも必ず愛は様々な手段で人々の間に送り込まれているのである。
「愛」を表現する言葉は沢山あり、愛に関係する書籍は山ほど出版されているといってもいいだろう。

聖者方が出てくる本であっても、イエスの言葉であっても、まだ、内的に何かがすぐに反応するまで行っている人は少ないだろう。
当然と言えばそれまでだが、真の愛というのは、人間意識レベルで分かるものでも感じるものでもないのである。
神方向の意識勉強(真理)をすることは、同時に真の愛の感じに触れていくことであり、それは内的意識で分かっていくことでもある。

「愛」とは何かなどと、言葉で考えているのは基本中の基本レベルであるが、誰もがそこから向上していくのであるから、これも通る道である。
「愛」を分かるには、いつまでも愛について考えることはやめるべきである。
「愛」は誰でも知っていることなのである。
それを、何を愛として自分に印象付けたいのかを意識したほうが、観念的な愛の暗示から早く抜け出せるだろう。

結局、愛は自分の一番深い意識のところで、「愛」の感じを分かっていくしかないのである。
黙っていても分かるのが愛である。
ここまでのことでも大体判断出来ると思うが、愛に気づくには、神の法則を知ることや真理に入っていく思いが絶対必要なのである。

これは絶対である。
この世には絶対など無いと言われるが、それは人間観念の世界だけに通用することだ。
この観念世界にも、神の法則は浸透しているであって、神の法則は絶対以外にどんな説明が出来るのだろうか。

もっと言えば、真の愛は神のエネルギーであるから、それは聖者方が行使する超能力の原理でもある。
だからといって、愛を知る手段や方法やテクニックを求めることなどは、絶対無意味なことなので考えない方がいい。
ここまで話したことから何か気づけることもあると思うが、愛に気づくには、神の法則を知ることや真理に入っていく意思が絶対必要である。

これは絶対である。
この世には絶対など無いと言われるが、それは人間観念の世界だけに通用することだ。
この人間観念の世界にも、神の法則は浸透しているのであって、神の法則は絶対以外にどんな説明が出来るのだろうか。

どんどん深く突っ込んで理解していかないと、この世の低級な暗示からいつまでも解放されることはないだろう。
「愛」や「神」を真に知る、感じる、またつながるテクニックなどは無い。
自分の真剣な思いと努力で、いずれそれを感じる意識に到達するだけだ。
愛について、いつまでもああでもないこうでもないと考えるのは、結局愛を型にはめようとする観念の中での放浪に過ぎない。

神の法則で守られている一本道を歩くだけで、他には何も必要ないのである。
その一本道とは、愛の道で、到達点(ゴール)は神の世界である。
私は、愛とか神といったことは、毎日のように思うことはほとんどない。
ただ、自分の魂に感謝、ありがたいという気持が大きいだけである。
そして、真剣にその道のゴールを目指すことが、自分の魂に対する感謝、ありがたいという気持のお礼に代えているだけである。

私がいつも感じている「愛」は、こんな感じで、そのために何か特別なことをしたこともないのである。
私は普段、仕事している時もそうだが、特に黙っているときに感じることがある。
それは、瞑想時ではなく、本当に一息ついた時とか静かにしている状態の時だが、内から自然に湧いてくるのである。

その感じというのは、超幸福感、超満足感、超喜びの中といったものであるが、それはうっとりするものではなく意識がそのものになっている。
さらに、その感じを超えることもある。
それは、どこから来るかは分からないが、自分の意識の中にエネルギーをはっきり感じられるのである。

私は、それを「愛」、または「神」(魂)として感じている。
自分の中に「神」が入り込むようになれば、その意識は「愛」である。
これまでの人生で、自分が感じた霊的な感じはいろいろあるが、この奥深いところで感じるエネルギーは最高のものである。
それは、「いる」という感じである。

さらにこの意識を拡大し、この意識と一体になることが、今私がやっていることである。
その先は・・・、どうなっていくかは分からない。
それを考えることも無意味なことだと知っている。

名言格言 ・・・名言(32) 飛べ、舞い上がれ、走れ、前に進め! 2015/07/20

★☆ 名言(32)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
              
束縛があるからこそ、私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ、私は高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ、私は走れるのだ。
涙があるからこそ、私は前に進めるのだ。

★☆ ・・・・・・ ( マハトマ・ガンジー 1869-1948 )・・・・・・ ☆★ 
          < インドの弁護士・宗教家・政治指導者 >

ガンジーの名言は、真理側からの見方で解釈していかないと腑に落ちないものが多いので、深く考えることが大事である。
今回の名言も、一、二節分かる人もいれば、うまく意味がつながらないという人もいると思うが、自分に合わせてポジティブに考えればいいだろう。
この名言のポイントは、ネガティブなことをポジティブに変えて自分を大きくしていきなさいということである。

こういう見方で、個人々の思いの中にあるネガティブなことを、ポジティブに変えてみるように考えてみるといいだろう。
これが出来れば、もやもやしていた気持ちも解放され、少しは前向きな気持ちになれると思うのだが。
そして、ポジティブに変えた前向きな自分で動いて行けるなら、それがまた一歩前進するきっかけになるかもしれない。

今回は、この名言を説明するのではなく、私がこれまでやって来たことを思い出し、名言の一節ずつにその思いを表現していこうと考えている。
私がこれまでやって来たことはいろいろあるが、その中で第一に重要なことは、あらゆるネガティブを知り、それに絶対屈服しない自分に創り変えることだった。

どういう思いでやって来たかを思い出しながら、この名言に重ねてみたい。
「束縛があるからこそ、私は飛べるのだ」
この世に生きるということは、束縛の中で生きるということだ。
肉体的にも、精神的にも、真の自由からみれば束縛、それと限定がセットになった息苦しい世界だ。

それを普通とか仕方ないといって妥協し、流されて生きることを自分の人生にするということは、どうしても私には納得出来るものではなかった。
束縛と限定がセットになったものが観念である。
観念は、真理とは無関係な思想レベルのもので、この世の人間意識を構成しているものだ。

本来、もっと自由に動けるはずの意識が、この限定観念によって束縛されていることに気づいている人はどのくらいいるのだろうか。
この人間に関係する、束縛、限定を詳しく話すと、おそらく全く新しい世界が眼前に開けてくるのを実感できるだろうと思う。
私は、この束縛限定から離れるために飛んだ。

智恵の無い観念の世界から抜け出るために飛んだ。
飛んだ先は、この世界の未来ではない。
もっと完全な自由意識の世界、真理の世界に向け、ずっと飛び続けて来た。
最初は、無我夢中で一生懸命羽ばたいていたが、今はもう羽ばたかなくても上昇出来るようになった。

「悲しみがあるからこそ、私は高く舞い上がれるのだ」
不自由な自分の中に閉じ込められているくらい、悲しいことはない。
何も知らない自分、無知な自分、それでいつも悩み続けなければならない自分がいるくらい、悲しいことはない。
とてもじゃないが、「人間だから・・・」といって自分を擁護し騙し続けることも、もう限界だ。

自分の悲しみもいやだが、人が悲しむ姿もみたくない。
人が死んでいくのは悲しくはないが、しかし人が悲しむ姿だけは見たくない。
自分も人のことも、悲しみだけは触れたくない、これに触れることはどんなことよりも一番悲しいことだ。
だから、この悲しみの感情から抜け出すために、悲しみが見えなくなるくらい高く高く舞い上がって、舞い上がって、ここまで来た。

「逆境があるからこそ、私は走れるのだ」
誰にも一度くらいは、逆境苦境に立たされたことがあるだろう。
物的なことであっても、それは同時に精神的逆境でもあるので、逆境はネガティブ以外のなにものでもない。
この逆境を、自己成長のために立ち直る力や気づきとするか、また何も出来ない無知のまま自分の運命を恨むのか。

ネガティブは無知で、無知だからネガティブの中から抜け出せず、いつまでもネガティブと一緒に生きることになる。
ネガティブは、いつもどこからともなく近づいて自分の足を引っ張ろうとする。
どんな人のネガティブにも、これは共通して言えることだが、人の足まで引っ張るネガティブ人間の何と多いことか。

走れ、走れ、ネガティブに追いつかれないように。
私は今日までずっと走ってきたのは、ネガティブな逆境や苦境から抜け出すためだった。
オリンピックのマラソンランナーのスピードで、ずっと今日まで走って来た感じだ。

そして、完璧にネガティブを振り切った。
ネガティブを振り切ったことで、はじめてネガティブの無能さを完全に知った。
この絶対確信は、ネガティブに負けるという感じまで根こそぎ消してくれた。
「涙があるからこそ、私は前に進めるのだ」

負けることは許されない、たとえ死んでも、意識が負けることは許されない。
しばらくの間は涙を流しながらがんばっていたが、涙は不要なもの、涙は完全に干上がらせなくてはならないとわかった。
また、涙があるから、時々涙を見るから、がんばろうと踏ん張れるものではないとわかった。

まだ涙の池が残っているから、まだ不要な涙がそこにあるから、それを無くするために前に進んで来た。
悔し涙、負け涙など、真の自由意識を目指す自分にとって、そんなものが何で必要なんだ。
感情的にその気になって、ウソで自分を慰めそしてプライドの鎧で見せ掛けを作って、それで本当に自由意識の世界に入って行けるのか。

こんな自分で、いつまでも生まれ変わりをしていて何の意味があるのか。
それほど、一時的なこの世の楽しみが大事なのか。
楽しみが自分から離れそうになると涙か、完全に離れたら大粒の涙を降らせるのか。
もう二度と、その手には乗らない。
もう二度と、お前には(自分のネガティブ)騙されない、文句は言わせない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コメント

マハトマ・ガンジー (Kamiide)
2015-07-22 19:55:17
先日はどうもありがとうございました。
稚拙なコメントで申し訳ないのですが、
私は、ガンジーの言葉が好きです。凡人の私にも分かり易いです。
私は「欲望の川に押し流されて、手に入れたものを失うことを恐れる心には、たどり着く岸辺など無い」という言葉に助けられました。
逆境(ネガティブ)をポジティブに変えていくことが、いかに大切かを知らされます。

Kamiideさん、ありがとうございます。 (F・H・S )
2015-07-23 18:56:56
この言葉も、最終的に人間の決断を迫られる内容ですが、必ずいつか誰にでも来ることです。
このことから逃れられる者は、だれ一人いません。
「手に入れたものを失うことを恐れる心」とは、この世の執着を意味します。
「たどり着く岸辺」とは、神の世界を指します。
この世の辿り着くところはハルマゲドンですが、理解出来る人は、今のうちに準備しておいた方がいいでしょう。
といっても、ハルマゲドンを気にして勉強するのは間違っています。
Kamiideさんは、今のまま神の世界を目指すだけです。

名言格言 ・・・名言(31)実行に移せるかどうかは、準備と考え方次第! 2015/07/10

★☆ 名言(31)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆★
                  
私は実行することの重要性を痛感してきた。知っているだけでは不十分だ。
知識は応用しなければならない。意欲があるだけでは不十分だ。
実際にやらなければならない。

★☆ ・・・・・ ( レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452 - 1519 )・・・・ ☆★
         < イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。万能人 >

このダ・ヴィンチの名言は、一般的なことにも意識向上のことにも、両方に通用することである。
ここでは、意識的なことに焦点を当てて話していくが、この名言の意味を理解出来れば物事の進め方も変わってくるだろう。
結果から言うと、どんなことも最後は行動しなければ何の結果も得られないということである。

誰もが、こんなわかりきったことをと思うかもしれないが、それはけっこう頭では分かっているという人が多い。
このことを本当に分かっていれば、ここでつまずくこともなくもっと先を見ることが出来るからである。
ダ・ヴィンチも「私は実行することの重要性を痛感してきた。」と言っているくらいだから、この内容は本当に大事なことなのである。

実際に何の抵抗もなく行動に移せれば、どんなにすっきりするか、またもっと前進出来る自分にもなっていくだろう。
ここで止まってしまうか、それとも少しずつ自分を行動することに慣れさせていくか、実際に行動に移せる自分創りは、自分の意識に合った見方から始まるのである。

強引に行動に移してもほとんど失敗することになるので、無理をすることはない。
何をするにしても自分だから、当然自分の思いのコントロールも必要になる。
結局、何を考えるにしても、するにしても、まず意識が邪魔になってくるのである。

この邪魔する意識は、ネガティブ意識であるから、それをポジティブに変えなければならないのだが、その手段も意識でするしかないのである。
何度も言っているが、意識を理解することが何をするにしてもうまくやれる根本的力だということもしっかり知ってほしいと思う。
自分の意識をどんどん向上させていくにも、ただ知っているといったレベルではまったく話にならないのである。

知らないよりはいいが、と言っても、結局知らないよりは・・・、といったレベルで止まるだけである。
集めた知識をただ溜め込んでいても、何の動きも結果も発生しないのである。
それを応用して、初めてその知識の中身がよく理解出来るようになるというものである。

意識向上に特定して言うと、知識を応用するということをどうやっていいか、中々いい方法が思いつかないという人が多いだろう。
意識というのは、実際に見える形のものを相手にしているのではないので、様々な物事を意識の中で固定し他と関連させることは、慣れるまで大変かもしれない。

そうは言っても、いつまでも出来ないではどうにもならないのだから、とにかくまず一歩踏み出すためにも、実際に何か必要なことをしなければならないのである。
「知識は応用しなければならない」というのは、ただ知っているといった静止状態から次に何らかの動き変化を生じさせなければならないと考えていいだろう。

動きのない知識に焦点を当てていると、自分の中にも動きは生じないだろう。
動きを生じさせるのは、知識の応用で、この応用を広げながら動きを与えていくと、そのもの自体に生命を持つようになるだろう。
それに生命を与えているのは、自分自身で、それは内的意識から来るのである。
動きが見えて来ると何となく楽しい感じになってくるから不思議だ。

これが、生命が宿って来るということである。
次は意欲についてだが、「意欲があるだけでは不充分だ」とはどういうことだろうか。
普通、意欲があるということはとても良いこと大事なことでもあるが、それが何故不十分になるのだろうか。

これは、人の中には「俺はこのことに挑戦するんだ」とか「私はこんな夢を持っているんだ」とか言って、熱く自分の思いを語っている人もいるだろう。
しかし、熱い意欲がいくらあっても、それに向かって実際に行動を起こさない限り、何の結果も出て来る訳がない。
逆に、夢や希望などその意欲を長く持ち続けている人ほど、時間の経過に比例して一歩踏み出すことが大変になって来るのである。

どうしてそうなるかは、ほとんどの人が気づかないところかもしれない。
それは、自己プレッシャーをかけていることに気づかないからである。
大体、実行に移せない人のほとんどは、考えすぎで自己プレッシャーに自ら追い込んでいるからである。
もっと言えば、本当はもっと大事なことを考えなくてはならないことから、目を背けているということに気づいていないのである。

余計な、まったく意味のない勝手なマイナス思考で、実際に少しでもやってしまえばいいことにもブレーキをかけている。
これに早く気づけば、実際に行動してみるとか、とりあえず少しずつでもやってみるということがスムーズにいくはずである。
自分の人生を賭けた大勝負でもないことなら、少しのミスや失敗などは、自分の将来のためには当たり前としてやってみればいいのである。

その方が、自分が納得出来るレベルやゴールに早く近づくと思うのだが、その考え方をどう身に付けるかが一番重要なことである。
これまで話してきたことは、これから何かを目指そうと思っている人は、本当に真剣に考えるべきことなのである。
ちょっとしたミスや失敗は、長い目で見れば足下の小石に過ぎない、大きなつまずきにはならないものである。

「知識は応用しなければならない」ということだが、これは、最初から応用しようと思ってもそう簡単には出来るものではない、と言っておきたい。
知識活用で行動した結果、どういった理解が自分の力になるか、それを前もって設定したポジティブ結果を集めるしかない。
それは、自分の行動によって得られる価値と気づき、要は自分を成長させるための行動や考え方をどう応用するかといってもいいだろう。

説明上は難しく感じるかもしれないが、どんなことも結果的にこのようなものを得ないと、ただ失敗やつまずきで終わるだけでは意味がない。
ただ闇雲にやってみればいいというものではない。
それでも、何もしないよりはいいと言う人もいるかもしれないが、それでは収穫が少な過ぎると私は思っている。

確実な収穫が得られる応用を考えなければ、それを確信出来なければ、次に向かう意欲も半減してしまうかもしれない。
必ず、思った以上のことは得られるといった知識の応用法はあるのである。
意欲だけが先行すれば、自己プレッシャーが比例して増えてくるのである。
何故なら、その思いはどんどん良いことばかりを想像させ、その心地良い自分の思いを手放したくなくなるために、益々夢だけが広がっていくからである。

それで、実際に行動に移そうとする段階になると、自分の現実とその意欲から作られたイメージとのギャップの差に驚くのである。
結果、「これは、無理かもしれない」というネガティブな思いが押し寄せ、意欲がそれほど強くなかった時よりもブレーキがさらにきつくかかるのである。
これはどんな事にも言えるのであって、何かをしようとするときは特にこのようなことにはまりやすいのである。

このようなブレーキは、本来思っているほど障害となるブレーキではないのだが、その中でどっぷり考え込んでいる自分は、完全にこの流れのワナにはまってしまっている、という状態なのである。
どんなことにも共通して言えることだが、このようなブレーキを最小限にするには、しっかりとした土台作り、十分な準備、そして一段ずつ足固めしながら進むことである。

こうするだけで、少なくても大きな失敗やつまずきにあうことはないだろう。
何事にも言えるが、もっと奥を覗き込むことが出来るようになれば、ブレーキの解除の仕方くらいは見えて来るものである。
「もっと奥を覗き込むことが出来る」力というのは、意識を良く理解することになる。

動くクセ、その前に自分の意識に動きを与えないと、いつの間にか静止した思考のワナにはまってしまうので注意である。

名言格言 ・・・名言(30)わかっているが、でもどうしても悩んでしまう過去のこと! 2015/07/01

★☆ 名言(30)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★

過ぎ去ったものは、もはや再び帰らない。
賢者は現在と未来について考えるだけで手一杯であるから、過ぎ去った事柄をく
よくよ考えている暇がない。

★☆ ・・・・・ (フランシス・ベーコン 1561 - 1626 )・・・・・・ ☆★
          < イギリスの哲学者、神学者、法学者 >

過去は過ぎ去ったものといっても、いつまでもくよくよ考えてしまう、なかなかそこから離れられないで苦しんでしまうこともある。
そのくよくよ考えてしまう中身は、失敗、恥じ、後悔、躓き、ふがいない自分のことなどがほとんどだ。
もし、自分の苦しみが誰かのせいで…となれば、それは憎しみ恨み、復讐心に変わって、益々過去のことに縛られてしまう。

このようなことは、ほとんど人が体験していることであり、今このブログを読んでいる人の中にも、過去のことが心の中で暴れ狂って苦しんでいる人もいるかもしれない。
たとえ過ぎ去った事柄であっても、その内容次第では過去を一生引きずっていく人もいる。

自ら招いた原因で苦しむこともあるが、それより相手の言動によって傷つけられ、くやしい思いを引きずって苦しむことが一番多いのではないだろうか。
それでなくても、人生でわずらわしいのは、面倒な人間関係から来るギクシャクだと思う。
その他にも、長い人生には思いがけない問題が次々と降りかかってくることもあるので、やはり解決しないまま過去の中に埋もれていくのがほとんどだ。

しかし、過去は過ぎ去ったものといっても、ハイそれで終わり、といって忘れてしまうことが出来ないので困ったものだ。
だったら、そこは考え方で切り抜けて行くしかないだろう。
自分の人生が、こんなネガティブなことでどれだけ大事な時間が失われているか、ざっと計算してみると驚くかもしれない。

確かに、そのほとんどは過ぎ去った過去の事柄だと言ってしまえば、この名言の通りそれは再び帰ることはない。
それで納得できればいいが、しかし、人の思いの中はそう簡単にはいかないものである。
「それが出来れば、苦労しないよ」とは、これまで私も随分聞いてきた。

本当にその通りだ。
また、この逆を言えば「それが出来ないから、いつまでも苦労するんだ」とも言える。
では、それが出来る方法、要は過去を過ぎ去ったものとしてほとんど悩むことがないくらいに、それから離れられる方法があるのかである。

はっきり言うと、それはある。
では、どういう方法かと聞きたくなるだろう。
それは、考え方、それも智恵ある考え方次第で、そのものから自由になれるといったら信じられるだろうか。
その考え方も、1つより2つ、といった感じで多いほうがいい。

1つ2つの考え方しか出来ないより、あらゆる角度から考えられる方が答えも出しやすいはずだ。
要するに、様々な考え方が出来れば、少なくても過去のイヤな思いからは脱出できるということである。
では、その考え方をどうやって覚えていけばいいか、どうやれば自分の身に付いていくのだろうか。

ほとんどの人というか現代の人の求め方は、即席でもいい、簡単にすぐに出来ればいいというのが本音だろう。
何をするにしてもすべてのつまづきの原因は、この考え方であって、内容なんか関係ないのである。
考え方といっても、もっと基本となる手前の考え方から学んだ方が、まだ物分りがよくなるかもしれない。

私は何度も物事の進め方には順序があるといって来た。
順番を飛ばして出来る方法は、無いとは言わないがそれが出来るのはその程度のものだけである。
特に、考え方を身につけるということ自体、まず今の考え方を手入れすることから始めなければならないのである。

これは、誰にも言えることだと思っている。
考え方を本気で自分のものにしたいと目覚めることは、自分が根底から変わるということを目指すに他ならない。
この道に入って行けば過去のことは気にならなくなっていき、また今の意識のままでいいとするなら、おそらく一生過去の記憶から解放されることはないだろう。

この目覚めが、名言で言う「賢者は現在と未来について考えるだけで手一杯である」ということで、それは考え方を自分のものにしようとすることにもつながる。
そうなれば、同時進行で「過ぎ去った事柄をくよくよ考えている暇がない」となるだろう。
もう少し、考え方の内容を細かく分析してみようと思う。
この世には、様々な考え方があるのは知っていると思う。
だから、なんでもかんでも様々な考え方を集めて知っていけばいいということではない。
私が集めて欲しい考え方というのは、智恵のある考え方であり、この先どんどん積みかねることでその考え方が自分自身の意識そのものになるくらいに発展していくものである。

最初の頃は、考え方といっても大まかに「見方考え方捉え方」といった感じの全体的なこと、その意味をよく知っていくことである。
この基本的なことは、この世でいう簡単なテクニック的なレベルである。
これにしても、いろいろな知識は必要になるので、結局考え方を学ぶというのは、けっこう早く役立つものである。

大体の全体像が見えたところで、それからだんだん人間心理、意識を導入した技術的な理解に進んでいく。
考え方には、当然だが内的な意識の仕組みというものの理解も入って来るが、それはすぐに必要ではない。
人間の考え方というのは、大雑把になるが、一部のレベルを除くと最終的に限界が見えるようになる。

意識レベルがどんどん上がっていくにつれ、逆に考え方というものが無くなっていくのである。
要は、この世的な考えをしているヒマがないという段階に入っていくのである。
そうなると、過去というものが何であるか、意識の仕組みを知り尽くした者にとって過去は、一般的思考から離れまったく別な角度から見るようになるのである。

より深い考え方が出来るようになるということは、それなりの知識、智恵、それにともなう意識レベルの向上といったものまで、同時に拡大していかなければならないのである。
人は、考え方を知り、考え方を知悉し、その考え方を意識の下に見たときが、本当の自由意識のスタート点に立ったときになる。

そうなると、過去というものの見方にも当然変化が表れるのである。
このような意識になった時、過去も一般的な人の意識もたいして大きな違いはなく、過去のことは自分の人生をつまづかせるに値しないものとなる。
何故、人には過去があるか、それは時間の中に生きているからというのは正解だが、それより人は未熟だからと思って欲しい。

この未熟な自分が創り出した過去という結果で苦しむのであるから、未熟な意識で何を解決出来るというのだろうか。
この未熟な脳と五感と心が、自分のすべてを支配していること自体、過去がどうのこうのより大きな問題にするべきだと私は思っている。
ブログでは、詳しく説明することは出来ないが、過去のことで苦しむことは、少なくても今より半分以上楽にしていけるということである。

それには、自分に考え方の革命を起こさなければならない。
まず、その考え方の革命を起こさない限り、良く変化するということは難しいだろう。
それが意識成長、向上、進化であって、それ以外は無い。
何が良いか悪いかなど考えなくていいのである。

人に迷惑をかけないで、どんな考え方が出来るようになれば自分は解放されるかを考えてみてはどうだろうか。
また、人との比較を無くして、気持ちよくどんな考え方が出来れば自由な意識になれるだろうかと考えてみてはどうだろうか。
もう一度、考え方をよく考えてみてはどうだろうか。

ちょっとこの名言の内容から離れたような感じを受けるかもしれないが、考え方に触れるチャンスは、過去であるネガティブから抜け出す方法に気づくためにはちょうどいいのである。
哲学者、神学者、法学者であるベーコンのARRをしてみた。
他にも、研究分野に形而上学とウィキペディアに載っていたが、その割には特に目立った集中ポイントや意識は感じられなかった。P4はあるが。

名言格言 ・・・名言(29)「完全」の意味を知って、より完全に近づいていこう! 2015/06/20

★☆ 名言(29)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆★
                      
完全を求めることは、人間の心を悩ませるこの世で最悪の病である。

★☆ ・・・・・・・・ ( エマーソン 1803-1882 )・・・・・・・・・☆★
           < アメリカの思想家・哲学者・詩人 >

この名言は、様々な角度から考えてみる必要がある。
この名言からすると、結局完全を求めることは良くないことなのか、それと完全をどのように理解したらいいのか、ということも考えなければならない。
また、どこまで完全にこだわる必要があるのか、まで入れて、普段完全を考えることはないと思うので、この際完全についてちょっと考えてみても勉強になるかもしれない。

私だけでなく、目標に向かって日々努力している人は、出来るならより完全に近づきたいと思っているはずである。
完全を目指しても、実際完全を分かる人は誰もいないし、達成出来るものでもない。
たとえ完全に出来たと言っても、それは一つの人間意識の中での完成に過ぎない。

では、完全とは何か。それは究極的には神を意味するもので完全は神である。
だから、完全を分かることは誰にも出来ないことなのである。
もちろん、この名言でいう完全は、神レベルのことでないことは誰でも分かるだろう。
完全の概念といっても、人それぞれ浮かんでくることや考えは全く違うはずだ。

もしあなたが自分に向けて、完全について簡単に言葉で説明した後に、完全を想像してみると、いかに「完全」ということを知らないかがはっきりするだろう。
完全を知ろうとするのも、神を知ろうとするのも同じことである。
神は絶対完全であるといっても、完全は完全であるから絶対を付けるのもおかしいとなる。

このようなことは頭で考えることではなく、意識を拡大することで大事なことに触れたり感じたりしていくものである。
言葉は、そこに含まれている意味によって価値を持ち、また表現も変わるのである。
神を表す言葉は沢山あるが、一般的な会話の中でもその言葉は使われているのである。

今言った、「絶対」という言葉もそうである。
究極の「絶対」をイメージ出来ますか。
もし完全にイメージ出来たら、あなたは完全と一体となった神になってしまうのである。
言葉の深い意味を知ることはとても大事である。

それは、最終的に自分の意識になっていくからである。
ここで名言に戻って、その意味を考えてみたい。
「完全を求めることは、人間の心を悩ませるこの世で最悪の病である。」
そうか、じゃ完全など求める必要はないし、また完全を考えることもやめたほうがいいんだ。

と、このような短絡的に答えを出してしまうのは、少し智恵がなさ過ぎるのでそんな人はここにはいないと思う。
確かに、一般的なことにおいては、今言った神性の完全はまったく関係のないことになる。
この名言は、神の完全のことではなく「この世で最悪の病」のことについて言っている。

名言は、前後の文が無いので、それだけで正しいとか間違っていると決めつけることは出来ないが、様々な角度から考えることが出来るので勉強にはなる。
この名言も、そういった意味で私なりに考えついたことで説明をしているのである。
私は、誰でもある目標に向かって努力する場合は、完全を目指してほしいと思っている。

完全が無理なら、理想を目指してもらいたい。
完全も理想も、その意味を考えれば並べる順序も理解出来ると思う。
しかし、この名言では「完全を求めることは、・・・この世で最悪の病」と言っている。
いったいこれはどういうことなのだろうか。

まず、エマーソンはどういう人かというと、思想家・哲学者である。
当然この名言は、心理的、意識的なことについて言っているものと取らなければならない。
簡単にまとめると、この世的なことの観念、人の心理、もっと広げると哲学でも、その中で完全などを求めるなということになる。

そんなことに焦点を当てて囚われると「人間の心を悩ませるこの世で最悪の病」にはまってしまう、ということだと私は解釈している。
それは、この世の観念は不完全過ぎるから、不完全の中に完全を求めるのは思考の混乱を招くだけで、結果は心の病気と同じようになるということである。
別に完全にこだわらなくても、人の比較でそれに近いことを無意識にやっている人もいる。

まったく勘違いの思い込みとか勝手な自分が作ったストーリーに自分を乗せて考えているということに気づくことは、なかなか難しいものである。
エマーソンもそうだが、ARRを通して一つ発見したことは、この世界ですばらしい働きをした偉人と呼ばれる人達は、この世を去る前には、その永遠なる世界に気づいている人が多いということである。

意識が違うと感じるのだが、それはこの世の観念から離れた意識になっているからである。
何故、そこまで気づけるのかというと、自分が最大の力を注げることに完全を目指して努力したからだと私は思っている。
の結果、真なるものや超越したものは、たとえそれが芸術であっても、人や時代の意識に受けいれられないと無意識に悟ったからではないだろうか。

また、自分という人間の限界も分かったからだと思っている。
ちょっと話が大きく広がってしまったが、この名言を誤解しないでスムーズに受けいれるためには、言葉を足したほうがいいかもしれない。
「完全の意味を知らないで完全を求めることは、…」にしたほうがまだ分かりやすいだろう。

そして、これからは完全という言葉をポジティブにうまく使いこなすことが大事だ。
「ポジティブ性の観念」「真理の光を浴びた観念」にしていくのは、誰にでも出来ることだ。
そして、誰でも完全に近づいていけるのである。