名言・格言

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名言格言 ・・・名言(28) 真の学び方を知ることは、一生の宝ものになる! 2015/06/18 

★☆ 名言(28)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                                     
何かを学ぶとき、実際にそれを行なうことによって我々は学ぶ

★☆ ・・・・・・ ( アリストテレス BC.384 - BC.322 )・・・・・・☆★
          < 古代ギリシアの哲学者 >

人が何かを学ぶというのは、新しい知識を覚えるということだけではない。
その知識をさらに深く理解し他のものと関連付けて考えることが出来るようになれば、その知識は知恵に変わっていくだろう。
私たちが学ぶという意味で、ただ知識を入れるというだけでは、それはまだ自分に役立つ本当の力になっていないものと考えていいだろう。

頭の中では正しいとなっていることでも、それは実践してみなければ答えは出ない。
絶対正しいことが通るなら、こんな世の中にはなっていないはずだ。
それでも「正しいものは正しい」とがんばると、頭がどうかしていると言われる世の中だ。

もちろん正しいと言われることも、その線引きがどこかを決めるのも難しいときもある。
めんどくさいことだが、こんなつまらないことでも何とかしていかなければ自分が苦労するだけになる。
こういうことも何とか出来ないというのは、やはり考え方に原因があると言いたい。

ほとんどの人の意識は、たくさんの知識を持っているが十分に使えていないのである。
このことは、何も科学的、あらゆる技術的なことの高いレベルに関して言っているのではなく、私たちの生活や生き方に関係することである。
人生の大部分は、生活や生き方の考え方でどうにでもなるのである。

簡単な例で話を進めていきたい。
ほとんどの人が経験することで、ある問題にぶつかったときを想定してみたい。
それをどう解決したらいいかということである。
誰でもすることは、問題を解決するために、自分の中にあるあらゆる知識や経験を集め、それを元に何とか解決策を練るだろう。

「ああでも無いこうでも無い」頭の中はフル回転だが、なかなか良い答えは出せない。
しばらく考えて良い答えが出せない時は、その先どんなに考えても、良い答えが出ることはほとんど無いと言っていいだろう。
しかし、時間がある限り、それについてずっと考え続けていくだろう。

そのうち、答えなどはあきらめ、今度はどこで妥協するかに焦点が変わっていくだろう。
その落としどころ、最終的に自分のダメージが少ないところを探し始める。
ここから、また新しい自分を擁護するための考えが始まる。
あらゆる場面の想定の始まりである。

こう言われたらこのように返し、こんな風に出て来たら自分はどうするか…
あらゆるパターンが次から次へと浮かんでくる。
このようなことは、特に人間関係に多いのであるが、誰も経験していることだと思う。
このような考えが続くというのは、内容がネガティブなことであってポジティブでは起こるはずもない。

だから、考えることも当然ネガティブになるので、気持ちも重く疲労するだけになる。
そして、自分の安全を守るためにあらゆるネガティブな場面をイメージし、それに対応をするための返す言葉を用意するのである。
今話したことは一般的なことで私も経験していることだが、これが良いか悪いかというのではなく、これから考え方に入っていきたい。

「何かを学ぶとき、実際にそれを行なうことによって我々は学ぶ」の意味を納得出来れば、これから考え方ということも分かってくるはずである。
問題が起きた時、人が考えるパターンはネガティブなことになるのは、ほとんど同じだ。
問題が起きた時、「ああでも無いこうでも無い」と考える必要があるのは、きっちり前後関係、因果関係を説明しなければならないときである。

これはネガティブということではなく、事実確認、状況把握など、間違いの無いようにしっかり考えるために必要なことである。
本当は、人間関係のトラブルであっても、これは欠かせてはならないことである。
次は、問題が起きた時「ああでも無いこうでも無い」と考える必要の無いものである。

それは、勝手な自分の感情的な思いや偏った思い込みなど自分サイドの見方考え方による単なる想像である。
おそらく、あらゆるネガティブな思いで頭の中は渋滞するだろう。
「ああでも無いこうでも無い」が中心に動くので、嵐がすぐにおさまることなどない。

結果はどうだろうか、答えなど出ずいつまでもそれを引きずっていくだけである。
そのためのネガティブ対処法のあらゆるパターンを考え、いつでも対応できる自分にしておくか、それも出来ないでイヤな思いで過ごしていくかもしれない。
この時間が非常に無駄、それだけでなく体調も悪くなるので、本当に腹立たしいものである。

でも、気づいているだろうか、どんなに考えても結果は一つである。
要するに、どんなに沢山の対応策を用意していても、その中で使えるものは一つ程度ということである。
それ以外は、要らないものまで考えている時間の浪費である。
だから何も考える必要は無いというのではなく、きっちり説明出来るものさえ用意しておけば、これだけで十分だとも言えるのである。

どんなに考えても、相手は自分ではないので想像するにも限度があるだろう。
そんな想像をいつまでもやっているのではなく「実際にそれを行なうことによって学ぶ」に焦点を当て、その経験と結果を真剣に考えるようにすればいいのである。
簡単に言えば、思考ではなく実践、実際に体験することで学ぶことに力を入れたほうが、ずっと成長も早いということである。

最初は大変だと思うかもしれないが、結果は必ず来るのであるから、これも考え方である。
思考はどんなに考えても自分の世界にしかすぎないし、そのとおりになることも少ない。
実践は、周りの関係する人や物事を、イヤでもその場で相手にしなければならないのである。

良くも悪くも、答もその場で決まる。
やってみれば、それは思考ではなく自分の意識で動いている方が多いことに気づくだろう。
それを訓練にして経験を重ねると、それは真の学びでいずれ智恵になっていく。
想像や思考などにいくら頼っても、根底から安心出来るものなど出て来る訳もない。

それは、基本的なことだけ知っておけばいいだろう。
どんなにたくさんのことを考え用意しても、すべて相手次第でまったく使いものにならないことが多いだろう。
その場、実践に強くなり、なるべくその場で対処出来る自分を磨くことが一番の自分の力になり、それが土台になればもっと深い意識の構造も分かってくるだろう。

この文量でこの内容の深い意味を伝えることは難しいが、それでもよく考えてみれば大きなヒントは掴めると思う。
「何かを学ぶとき、実際にそれを行なうことによって我々は学ぶ」
この意味は、人間関係から学ぶと本当に理解しやすだろう。
知識と意識の違い、思考と経験の違いを似たようなものと考えていると「真に学ぶ」ということは絶対に知ることが出来ないのである。

名言格言 ・・・名言(27)すべては「考え方」次第、それが智恵だ! 2015/06/01

★☆ 名言(27)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                                      
人間の運命の大きな改善は、彼らの考え方の根本的な構成に大きな変化が生じない限り、絶対に不可能である。

★☆ ・・・・・(ジョン・スチュアート・ミル 1806 - 1873 )・・・・☆★
        < イギリスの哲学者 >

この名言は、大変奥が深く、自己変革を目指す者にとって絶対理解してもらいたいことである。
名言の中でもかなり難しいレベルなので、今回の説明は頭を抱えてしまうかもしれないが、よく考えてもらいたいと思っている。
さっそくだが、人間の運命の大きな改善に必要なこととは何だろうか。

人間の運命というのは、人それぞれの一生に関係することで目先のことでは無い。
その大きな改善に必要なことが、この名言で言っている「考え方」ということである。
あらゆる角度から見る考え方、要は視点を変えてみるということだが、これは一般的に知られている「考え方」で基本的なことである。

この名言でいう「考え方」は、もっと深い部分を言っているのである。
それは「考え方の根本的構成を変える」ということであるが、その意味はほとんどの人にとって分かりにくいものだと思う。
要するに、「考え方」について考えることをしなければ、考え方の根本的構成を変えることは出来ないのである。

この考え方の根本的構成というのは、意識の構成をしっかり理解出来ない限りはそれこそ理解出来るものではないので、どうしても難しい段階になってしまうのである。
ミルは「絶対不可能である」と絶対まで付けているのだから、相当な確信があるのだろう。

これには私も同感である。
「考え方の根本的構成を変える」というのは、分かりやすく言うと、あなたが信じているあらゆることをさらに高度な考え方によって新たに構成し直すということである。
もっと簡単に言うと、新しい意識に「目覚めなさい」ということである。

何から目覚めるかというと、大した智恵もない、また本物も見えない鈍った思考パターンや盲信から抜け出しなさいということである。
このことが本当に意識の目で見えてくるようになると、これまで信じていた多くのことが、非常につまらない低級なものに見えてくるだろう。
そして、「考え方の根本的構成を変える」ことが身に付いてくれば、自分の運命も違う方向に向けて大きく舵が切られるだろう。

ほとんどの人は、今言ったこととは全く別な考えの世界に生きているといっていいだろう。
目覚めに向けた考え方をしていくには、まずこの考え方が何であるかを学ぶ必要がある。
簡単なところから言うと、まずはじめに手をつけるところは「考え方」の基本となるところである。

この世のことは、本当は考え方次第、思い込み次第で解放にも自由にもなれるのである。
この言葉だけでは、あいまいな感じに受け取られるかもしれないが、真に理解するということを知ればそんなものなのである。
ウソ、デタラメで塗り固められた社会を信じて生きることは、私はそれを自分の人生とは認めないのである。

この世に流されて生きることのないように、考え方、それは正しい考え方を身に付けて本当の自分に目覚めることが大事なのである。
それには、本当のこと、本物を知るということを強く意識しないでは、考え方を学ぶということは難しいのである。
誰の心にもあるものは、安易、思い通りに行くやり方を欲しがっているはずで、本当はそのように思っている人は多いだろう。

これは考えるということを拒否した心であって、その先は足踏み状態が続くのみだ。
目先ではない、一生、そして来世、または解脱(生まれ変わりストップ)といった自分の運命がかかっているのである。
継続していけば将来それ以上のものを得られるが、逆にずっと何もしなければ運自体は下降していくのみだろう。

こういうことも、良く考えてみればはっきりとした答えが出るものだ。
確かに、考え方を変えるというのは、非常に複雑な過程を通らないと慣れて行くことはできないだろう。
考え方の訓練としては、間違いに気づく、または間違い探しが一番いい。
最初は、この世の一般的観念の見直しから始めるといいだろう。

この世のことをどっぷり信じている人は、今言ったことは相当苦しく感じるだろう。
人は生まれて、何も知らない周り(親・学校など)の影響を受け、この世界が本物だと信じるようになってしまったのだから、見直し材料は十分すぎるくらいある。

何も知らないままこの世を去り、また来世でほとんど同じ繰り返しをすることから、もう離れなければならない。
本当に考え方を変えるということは、本来良いことだけしかないのである。
その反対は、人をうまく騙せることが頭が良いと思い込む愚かな考え方に向かっていくことになる。

本当の考え方を身に付けていくことが何故大事かというと、それは何事にも自分で絶対確信を持てるようになるためである。
それは、自分の運命まで変えることになるのは当然である。
こうなると、「考え方の根本的構成を変える」というのは、高いレベルの智恵がなければどうにもならないということも分かると思う。

もし、真理がこの世に無いと仮定すれば、誰も考え方など変えるといったことは思い浮かびもしないだろう。
まとめてみると、やはり考え方を変えるというのは、自分の意識成長を目指すことから始まるのである。
これ以外で考え方を変えるというのは、ほとんどこの世的なことか目先のことだろう。

この考え方というのは、本当にいろいろな角度や方向や深さがあるので、この先も時々説明するようにしていきたい。
ここに本当の智恵が潜んでいるのである。

名言格言 ・・・名言(26) ムダをポジティブに変換する方法とは! 2015/05/20

★☆ 名言(26)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                                      
ムダな努力をしたことが分かっただけでも十分に大きな収穫である。
ムダが発見できたことは、自分の中に新たな能力が生れてきたからだ。

★☆ ・・・・・・・ ( ジョン・ワトソン 1878-1958 )・・・・・・・☆★
          < アメリカ合衆国の心理学者 >

この名言は、ムダな努力だったと気づけるのは、自分の中に新たな能力が生まれてきたからだとあるが、もう少し深いところまで入っていきたい。
ここで言う「新たな能力」というのは、「気づく力」のことである。
ムダな努力といっても、結果的そうなったというだけで、誰も最初からムダなことに努力する者はいない。

それをムダな努力だったと分かるだけでは、それこそ意気消沈するのみで少しの収穫さえ得るどころではない。
大事なのは、「ムダの発見」ということにある。
「ムダの発見」という言葉には、意識成長に関係する深い意味が含まれているのである。

それは、結果的にムダだったという考えまで変えることになるのである。
もっと言えば、ムダと思っていたこれまでのすべてのムダが、自分の気づく能力次第でそれを有益に変換出来るということである。
要はネガティブをポジティブに変換出来るということだ。
これが本当だと、私たちの人生にはムダというものは無いということである。

見方を変えれば、すべてをムダにしてしまうのは、ムダを有益に変換出来る能力の無い自分がいるだけとなる。
ムダを有益に変えるということは、それなりの能力や知恵が必要である。
もちろん、ムダを有益に変えるのであるから、その変換されたものすべては自分の意識成長そのものになるのである。

意識成長のポイントというのは、こういうことである。
このようなネガティブをポジティブに変換出来る智恵が無くては、ムダの山に気づくたびに後悔だけが増えていくことになるだろう。
自分の過去のムダを嘆いている人は多い。
いろいろなことを勉強し、たくさんの挑戦をしてきたがイマイチ変わらないというものだ。

結果的に変化無しは、自分がこれまでやって来たことがムダとしか思えないだろう。
結果、その悔しさをどこにもぶつけることの出来ない苛立ちが2倍にも3倍にもなって自分を苦しめることになる。
この変換のやり方は、心理的技術レベルであるから誰でも使えるものである。

何故なら、私がこのやり方に気づきずっとやって来たからである。
高度なレベルは、それなりの意識レベルが必要なのですぐには出来ないが、どんなことにも基本というものがある。
その基本を覚えるだけでも時間は必要かもしれないが、それを抜きに飛ばしてどうにか早くというのはあり得ない。

そのやり方の前に、すべての基本となるものについて簡単に言っておきたい。
これを理解しなければ出来ないということではないが、やはり回り道になるだろう。
それは、このブログでずっと説明しているポジティブネガティブの意味である。
それを完全に理解することは、どんなことにも基本となる大事なことである。

この世のすべてのこと、それはまず人間の思想である観念と考えていいだろう。
その観念を、自分が判断出来る限りでポジティブネガティブに分離する能力を養うことである。
善悪ではなく、ポジティブ性ネガティブ性として分けるのである。
もしどちらにしていいか分からない場合は、それはとりあえず自分の成長を待つしかないだろう。

ムダな努力と考えることはネガティブであり、ムダはネガティブである。
これでも分かると思うが、ネガティブを変えることがポジティブ変化である。
あなたはどこまでムダだったと決めつけたものから、ポジティブを引き出したことがあるだろうか。
あなたの過去を振り返ればムダだったというものがたくさんあると思う。

それは、宝の山かもしれない。
何故なら、あなたの経験、そこにはあなたの意識が入っているからである。
これはどういうことかというと、あなたの意識はネガティブのまま記憶の中に閉じ込められているのである。
それをネガティブ潜在意識といってもいいだろう。

失敗の経験はムダだったとなるかもしれない。
それを、あなたの力でポジティブに変えるのである。
どんな考え方でも見方でもいい、少しでもポジティブに変換してあげるのである。
そうやって、過去のネガティブから自分を少しでも救ってあげるのである。

大した救いにはならないと思うかもしれないが、それをどこまで拡大出来るかが問題だ。
私はこのやり方を、言葉上でいえば悟りのレベルまで上げて大きな成長を得たのである。
ここではその基本しか言えないが、この方法は意識成長の大きな武器になる。

ネガティブを変換するポジティブの大なる真理力を持った武器である。
「ムダが発見できたことは、自分の中に新たな能力が生れてきたからだ」
発見だけではなく、それをポジティブに変換する能力まで自分のものにするのである。

名言格言 ・・・名言(25) 意識成長を止める、停滞に縛り付けるネガティブ頑固性 2015/05/10

★☆ 名言(25)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                   
どうにも乗り越えられない障害にぶつかった時は、頑固さほど役に立たないものはない。

★☆ ・・・・ ( シモーヌ・ド・ボーヴォワール 1908 - 1986 )・・・☆★
       < フランスの作家、哲学者 >

私がボーヴォワールのこの名言を目にした時、疑問と戸惑いを感じた。
この名言は、「頑固」について理解出来れば、そのとおりと納得してしまうだけだろう。
「頑固」は、柔軟性が欠ける、寛容性がない、相手や物事の深い部分まで気づけない。

そうなると、物事をスムーズに運ぶための判断だけでなく対処にもつまづいてしまう。
だから、「頑固」はマイナス要素が強いネガティブとなる、ということである。
頑固を考えると、今言ったマイナスが浮かぶが、一時的だが良い面もある。
ある目的に向かう場合、他に目もくれずにまっしぐら突っ走るときに使う信念、それが人から見て頑固であっても、ブレない自分ができる。

この他には、頑固については自分の脳と意識の退化と環境的変化を話せば済むだろう。
これでこの名言の説明は終了だが、これでは一般レベルの解釈で止まってしまう。
これから、この名言で私が感じたことを話していきたい。

冒頭で書いた、何故私がこの名言に疑問と戸惑いを感じたか、それから説明していきたい。
哲学者のボーヴォワールが、何故こんな分かり切ったことをわざわざ言うのだろうか。
また頑固さは「どうにも乗り越えられない障害にぶつかった時」そこまでいかないもっと手前の無知や子供っぽさや自己擁護の範囲で出てくるものだ。

そんなことを知らないボーヴォワールではない、と思ったから一瞬戸惑いが出たのだ。
「どうにも乗り越えられない障害にぶつかった時」に頑固さを通せば、自滅あるのみだ。
果たして、このような障害に遭うことはこの人生でどのくらいあるだろうか。

一般的に考えても本当に少ないはずだが、それに頑固が絡んでくるとはボーヴォワールは何を言っているのか、これは名言にはならないだろうと思った。
これ以上考えても分からなかったので、ボーヴォワールの意識をARRで調べてみた。
ARRで彼女の意識を知った時に、はじめてこの名言の意味が解けた。

この名言は、自分のことを言っていたのだ。
子供の頃とこの世を去る1年前の意識はまるで違う、大変化をしている。
この名言は、二重構造だ。
この世的な頑固さに気づいてもらうためと、深い部分が分かる人のための悟り系の意味が入っている。

これからそれを説明していくが、これは一人ひとりに当てはまることで、さらに人類全体に拡大しても当てはまる。
「どうにも乗り越えられない障害にぶつかった時」は、それに気づいたときである。
彼女は、子供の頃からそれを知っていた。

自分の内から押し寄せる、どうにも出来ない不安感、またはネガティブ意識だ。
私は彼女の本を読んでいないので、彼女の思想の詳しいことは知らないが、おそらく自分自身を解放することの延長が、そのまま哲学の勉強に入ったような気がする。
彼女はずっと悟り系の意識だったので、納得出来るまで追求する人間である。

それが、結果的に癒し系の「あるがまま」意識に到達したのだから、長年の苦痛から抜け出せた喜びは本当に大きかっただろう。
彼女の意識は神秘、形而上学を勉強した方が良かったが、環境的にすぐには触れることは出来なかったのかもしれない。
それで、自己を見つめながら勉強を重ねているうちに、真の自分を覆い隠す正当化の仮面をかぶった自分の頑固性にしっかり気づいたのだろう。

その頑固性とは何か、それがこの世の観念というものだ。
観念の仕組み、秘密、それが人間意識をどのように洗脳し暗示をかけていくか。
また、それを信じ切った思い込みや自己主張が、さらに深く、深く印象付けていくか。
それがいつの間にか、自己暗示に変わっていることに気づかずに、輪廻を繰り返している。

これが究極の人間の頑固性だ。
人類全体がその集合体で、頑固性といった暗示に捕まった歴史を繰り返しているだけだ。
それから抜け出すために、私たちは意識の勉強をしているのである。
それは、哲学でも精神世界でも宗教でもない、魂意識(神性)の自分、神性復活に向かっていることを学ぶだけだ。

真理(神)方向に向かうことは、善いこと以外他に何も無い。
それを知っていながら、その方向の道に入っていけない人が多いのは何が邪魔するのか。
自分を良くすることがイヤなのか。
自分の意識が成長することがイヤなのか。

平凡に幸せに暮らすことが、自分を良くすること以上に大事なことなのか。
神様仏様と言いながら、真剣に神に近づくことがそんなにイヤなのか。
この世の観念に縛られて、本当の自分の意識の未来も分からないということでいいのか。
これほど悲しく寂しいことはないと思うのだが、それも関係ないと言われるかもしれない。

愛、やさしさ、親切、平和は神方向だ。
もっと自分の意識を強くするために、本当のことを知っていくだけだ。
それもイヤだと言うなら、これほど強力な頑固性はないだろう。
大きな観点から言うと、ほとんどの人間は潜在的に頑固だということである。
ボーヴォワールは、このような潜在意識にある自分の頑固性から解放したのである。

その結果、喜びの「あるがまま」の意識に到達出来たのである。
この世を去る1年前の意識は、単なる癒し系の喜びの意識とはまったく違うものである。

名言格言 ・・・名言(24) 意志と意思、言葉の意味は自分の意識になる! 2015/05/01

★☆ 名言(24)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★ 
                                      
無限に善と見なされ得るものはただひとつ、善なる意志以外に、
これを考えることは出来ない。

★☆ ・・・・・・・( イマヌエル・カント 1724-1804 )・・・・・・・☆★
          < ドイツの哲学者、思想家 >

今回は、この名言の説明より、意志と意思の意味の違いを、深いところで理解していければと思っている。
意志という言葉の意味は、意思という言葉とはまるで違う意味と考えてもらいたい。
それを知って、この名言を考えればカントの意識が感じるかもしれない。

この言葉の意味を分けるために線を引くとするなら、意志は意識で、意思は心である。
真理に向かう勉強は意志することが大事で、一般観念レベルは意思の世界にとどまる。
一般観念レベルでいえば、意志も意思の中に含まれるかもしれない。

そうであっても、それほどこだわることでもないだろうと言われるレベルかもしれない。
意志は何となく固いイメージに捉えられて直線的で融通の利かない頑固性を感じるかもしれない。
逆に意思は、どことなく緩い変更可能な自由さを感じるかもしれない。

これが一般的大多数の潜在意識に固定されている意志と意思の意味の違いである。
しかし私は、今言った捉え方とはまったく逆な意味で、意志を自分の意識としている。
私はほとんど意思という言葉は使わない。

というより、意思という言葉ははっきりいってきらいな言葉である。
何故なら、直線的で曖昧で柔軟性がない、またその言葉の中には芯もないからである。
哲学は難しい言葉を使っているので、それだけで哲学者の意志を感じるかもしれない。

しかし私は、哲学の内容のほとんどは意思の範囲にしか感じられないのである。
こう言っては語弊があるが、ほとんどが尻切れトンボ状態だからである。
もう一歩突っ込んだところまで、と思うのだが、それ以上は真理の世界だ。
それが哲学と言われれば、それはそれで勉強になる人もいるし、真理へ向かう道の通り道になるのだから必要な学問かもしれない。

何故このようなことを言うかというと、この名言を考えてそう思ったからである。
哲学者のカントが、この名言で意志という言葉で表現している内容は、意思という言葉で置き換えると行き止まり感が出てくるのである。
この世の、観念止まりの善ではなく、無限に善と見なされ得るものはただ一つ。

ただ一つは曖昧なる意思の中ではなく、善なる意志の中にしかないということである。
意思は心の世界で、意志は意識の世界として、これから意志という言葉を使っていくと、自分自身にしっかりとした芯が作られていくだろう。
言葉は自分を表現する道具でもある。

たくさんある言葉の意味を、どのように自分の意志として代表させるか。
そう考えると、自分の意志で認めた言葉の意味は、自分という意識の土台となっていく。
すべては基礎がしっかりして初めて次につながっていくのだから、単なる表現手段の言葉としてしかみられないのでは、結果的に意識成長も行き詰まるだろう。

意志としての言葉(意味)はどこにつながっているのだろうか。
言葉は人と通じ合えればいい、意思疎通の道具以外、気の利いた文章でも書ければ良いというだけでは、心も意識も広くなっていくことはないだろう。
一般的に使っている言葉は、言霊といって生命の入った言葉の抜け殻のようなものだ。

そこに含まれるものは愛も生命も無い、それこそただのおしゃべりで心にも残らないものだ。
かといって、愛と生命を含んだ言葉を話したとしても、ほとんどの人は何も感じない。
感情や感動的な話に組み込めば心を打つかもしれないが、しばらくすれば忘れてしまう。

言葉の真の意味を味わうには、言葉の意味を考えることが重要で、それを分かっていくことが、同時に自分の意識成長になる。
これは一朝一夕には出来るものではないが、それはどんなことにも共通して言えることだ。
意識成長に時間がかかるということに躊躇する者は、何が分かっていないのだろうか。

これも簡単なことで、意識が何であるか分かっていないからしかないのである。
意識が何であるか、それについて理解がある人は、意識を分かること自分を分かることにかかる時間は覚悟しているのである。
ここにも意志の力が理解を支えるのである。

意識を知らない人は、意思で判断しようとするので自己擁護の答えを用意しやすい。
最終的に到達するところは、意志を使った者は自由で、意思で判断した者はいつも現状のままに留まることになる。
これだけの説明では、意志と意思の世界とその方向性、到達段階までは理解しにくいと思うが、言葉の意味を深く考えればヒントがつかめると思う。

「無限に善と見なされ得るものはただひとつ、善なる意志以外に、これを考えることは出来ない。」
無限に善なるものを考えるには、無限に入り込める意識を知ることが先である。
すべてが善と内的に把握するには、その中に入り込んだ意識でしか感じることはできない。

たとえそれを意思しても、意思は無限に入っていける意志に対して、せいぜい手を振ってお見送りすることしか出来ないのである。
だから真の言葉から離れている以上、ずっと神意識と接することは無いということである。
「自分の意識は、意志、そして言葉の真の意味と一つでなければならない」

簡単な言葉に見えるかもしれないが、これは意識成長そのものを表現した言葉である。
この中に、多くの秘密が隠されている。
そうなるように努力することが、この世に生を受けた者の使命である。
この文章だけで、意志と意思の意味の違いを説明すること自体誤解が生じるかもしれないが、どこに焦点を当てて理解しようとするかは、あなたの意識力次第だ。

名言格言 ・・・名言(23)「視野が狭い」狭くしている考え方に気づく! 2015/04/20

★☆ 名言(23)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★  
                                     
誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。

★☆ ・・・ ( アルトゥル・ショーペンハウアー 1788 ー1860 ・・・・☆★
       < ドイツの哲学者 >

これまでたくさんの名言を調べて来た。
その中ですばらしい名言をたくさん残しているのは、やはり偉人と呼ばれる人物に多い。
今回私は、ショーペンハウアーの名言すべてに目を通して感じたことは、彼の名言のほとんどを潜在意識レベルから解説したいと思ったことだ。

彼の名言を解説することは、潜在意識レベルの勉強につながるのは確かだ。
ショーペンハウアーのARR(第三の目の世界)を見れば、彼はどんなにすばらしい人物かが分かるだろう。
彼は哲学者というより、神秘哲学者と呼んだほうがピッタリする。
彼の本は読んでいないが、彼のすべての名言を理解するだけでも意識拡大の援助になるのは間違いないだろう。

彼は天才でありながら解脱者だから、名言を読むにしても深く集中したほうがいいだろう。
「誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる」
彼の意識レベルから見たら、この言葉は人の意識の目覚めを喚起するためのものだろう。

「視野の限界」ということを考えてみると、もうこれ以上想像もつかないといったところまでになるが、それが自分自身で拡大できる世界の限界になる。
しかし、それは本当の限界ではない。
ほとんどの人は、このような限界を宇宙の限界、霊的世界の限界、未知なる世界の限界と考えてしまうだろう。

しかしもっと身近なところから人は視野の限界を作っているのである。
その視野の限界とは何であるか、どういうものであるか。
たとえ宇宙について詳しく知っていても、また未知の世界をいろいろ知っていたとしても、それだけでは視野が広いとはならない。
視野が広いとは、人の精神的な面に関係する複合的能力からなるものだ。

基本的には、見方考え方、そして捉え方が貧弱であっては、逆に視野が狭いとなる。
また、知識だけをひけらかせても、別な角度から視野が狭いと言われるだろう。
ある程度の知識が必要になることもあるが、関係する知識など無くても何とか出来るものが考え方である。

「考え方」といっても、さまざまな視点があり焦点のあて方がある。
もう少しこの考え方について話してみたい。
考え方につまづく人間は、間違いなく視野も狭いはずだ。
「考え方」が分からない人は、早くこの考え方を学び、気づくといいだろう。
考え方というのは、心理的技術と見てもいい。

これがしっかりしなければ、見方も捉え方もバラバラになり自分の中でまとめる力も育たないだろう。
考え方を学ぶといっても、そのような本があるかどうかだが、考え方というのは思考の分野になる。
それから意識の感じに変化させるように慣れさせていくのだが、それを理解していくと自分でも驚くような、それこそ自分の世界が出来上がっていくだろう。

こうなることが、「誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる」といった壁を破ることにつながっていくのである。
その先にあるのが、心の拡大、意識の拡大、そして無限の世界に意識を延ばしていくことになる。
そうなっていくと、それまで視野の限界といった自分を無知のままに束縛していたこの世の観念からも自由になっていく。

これで初めて真の自由に気づき、自分の生命にも目覚める。
ほとんどの人は、自分に素直になるということを忘れているのではないだろうか。
本当は、不自由で苦しいはずなのに、まだ自分を騙し続けている。
心の洞窟の奥の方から、すすり泣きが聞こえて来そうだ。

「本当はこんな自分はもういやだ!」と思いっきり叫べばいいのにと思うのだが、それも遠慮しているのだろうか。
それにもまだ気づいていないのか、それとも正直にそう思うことさえ怖いのだろうか。
視野の限界が世界の限界と思えるレベルにもならないくらい、小さな世界を本物の世界だと信じていたがっているのではないのだろうか。

また、もうどうにもならないことだと、いつも言い聞かせているのだろうか。
視野の限界内で生きている人同士の言葉からどんなすばらしい未来が見えるのだろうか。
基本的な考え方を学ぶというのは本当に重要なことである。
その土台が出来てくると、次は「識別力」「分析力」「判断力」に入っていく。

これにしても、時間経過とともに同時進行で動いていくものである。
これが身に付いて来ると、次に使うものが「読み」になる。
この読みに磨きがかかれば、さらに範囲拡大による分析と推測につながっていく。
この大きな土台が出来上がれば、さらに次のステージに上がって行く。

この進む道には限界などない、死ぬまで意識拡大があるのみだ。
この名言の「誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる」
気づいた者からすると、これって何なの、といった程度のことになってしまうだろう。

これが人間意識の世界である。
これに、ネガティブ、ポジティブの心と意識、それに観念の完全理解を含めていく。
その理解が進行していくと、今度は真理の世界に入っていくのである。
ここまでのことを70パーセント出来れば、人間が変わる。

自分でもはっきりわかる。
これが真の智恵の道になる。
こうやってここまで勉強してきた私の中には、「信じる」といった言葉は無い。
当然、「信じたい」といった言葉も無い。
また、この世の自由、幸せといった言葉も無い。

それらの言葉は、私の中では死語になっている。
この死後を増やすことが、私自身が見つめる自己意識レベルの評価になる。


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コメント

Unknown (里美)
2015-04-21 17:04:38
今の私に全くあてはまる内容でした!

名言格言 ・・・名言(22) 偶然の本当の意味を知ることも、偶然でしょうか! 2015/04/10

★☆ 名言(22)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★  
                                     
偶然は準備のできていない人を助けない。

★☆ ・・・・・・ ( ルイ・パスツール 1822-1895 )・・・・・・・☆★
           < フランスの生化学者、細菌学者 >

大きな世界から見ると、人類意識はすでに霊的意識からすべて知られているのである。
地球に存在する数多くの人間意識(魂)の全過去世であっても、全把握の広大な霊的意識にとっては、それは特に抵抗のかけらもないことである。
猿とIQ300の天才の違い、それ以上のIQ500として考えてみれば、少しは想像できるだろう。

霊的意識は、何の限界の無いものを何とかつなぎ合わせて判断しているのではない。
霊的意識は、この宇宙にあるすべてのことを、霊的法則(神の法則)に制限された中の動きとして見ているだけである。
その枠を全把握すれば、その中の意識はさらに限界が明確になる。

限界内で起こることのすべては、神の法則に従うしかないということは理解出来ると思う。
この神の法則内で起こることに、偶然があるのだろうか。
もし、偶然があるなら、今言ったことはすベて無に消え、神の法則という言葉も一切当てはめるものが無くなるはずである。

しかし、この神の法則で支配されている世界であっても、もっと大きな視点でみると幻の世界になるのである。
単純に、この世界は幻の世界だと言っている人もいるが、その真理をどう説明できるのだろうかと思いたくなる。
ただ、そのことを私が説明をするにしても、またそれをあなたが聞くにしても、おそらく山のような質問が湧いてくるだろう。

もしくは、唖然とするだけかもしれない。
この世のことも、真理も、すぐに分かる出来るというものは無いのである。
そのための準備が、少しずつ学び実践していく、ということなのである。
それを努力という。
努力というのは、自分の求めるものを得るために準備することで、それ以外の意味に取るから本来の努力の意味が曲げられてしまうのである。

簡単にすぐ出来る方法は誰もが望むことであるが、そんなのはあるはずがない。
その方法があるなら誰もが出来るレベルであるから、どうして魅力あるものになるだろうか。
パスツールの名言の意味を、本当に深く理解してもらうためにここまで来てしまった。

パスツールは偶然という言葉を使っているが、そのために準備が必要だというのが、神の法則の因果法則につながると言いたいのだろう。
善いことも悪いことも、「自分が蒔いた種は自分が刈り取る」というのが神の法則だ。
あなたは、神の法則を無視したり反発したりしても、自分は大丈夫と思えるだろうか。

もう分かっていると思うが、準備を怠らないものは結果的に自分を助けることになるということである。
今生だけを考え誰かと比較すると納得出来ないことも多いだろうが、あなたもそう思っているのだろうか。
公平平等は、誰にも多くの過去世があり、好き勝手に出来た人生があったということである。

大体、絶対答えのでない今生だけを対象に物事を考えるから悩むのである。
「偶然は準備のできていない人を助けない」、ちょっと別角度からこの名言を解説しているが、大きな心で捉えることが出来ただろうか。
もしあなたが、この準備の意味を知らなかったなら即準備に入った方が賢明だろう。

この意識の智恵をしっかり理解することが、何をするにも近道になる。
私は相当な勉強と実践を重ねてきたが、このことは大基本で絶対とまで言えるのである。
今このチャンスを逃さないこと、それは人間意識の大基本であり神の法則である準備の本当の意味を知ることでもある。

これは、魔法の言葉だ。
そう言うと、否定的な人はくだらないというかもしれない。
しかし、真に気づく人は、改めて自分の意識に浸透していく言葉になるだろう。
もう一つ魔法の言葉を。
これも気づけない人には面白くもない言葉になるだろう。

それは、シンプルなことの本当の意味を知らないものは、それを知るまで悩み続けるだろう、というものである。
これも霊的法則の意味から言えることである。

神の法則というと、ほとんどの人は超能力的なことにつなげて考えるかもしれない。
神の法則というと、すぐに難しく考え、話を聞くにも抵抗を持つ人もいるだろう。
どうしてそうなってしまったかはいいとして、それはまったく違うと言いたい。
神の法則というのを、私の思いで表現するとこうなる。
それは、超シンプルの解明だ。
ここまでの説明で、「偶然は準備のできていない人を助けない」を理解してもらいたい。
それを、「偶然は準備のできていない自分を助けない」に変えるといいだろう。