名言・格言

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名言格言 ・・・名言(14)2千年前のセネカにも「愚かきわまることだ」と言われています 2009/08/15 

★☆ 名言(14)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                                    
ある者は過去の記憶をむし返して、我と我が身をさいなみ続ける。
ある者はまだ見ぬ罪におびえて、我と我が身を傷つける。    
どちらも愚かきわまることだ。     
過去はもはや関係がなく、未来はまだ来ぬ・・・。 

★☆ ・・ (ルキウス・アンナエウス・セネカ B.C1?-A.D65)・・☆★
      < 古代ローマの政治家、哲学者、詩人 >

過ぎ去った過去の記憶とまだ何も起きてもいない未来を心配することから来る心のブレーキ。
取り越し苦労、持ち越し苦労、それが妄想的にまで発展したら、それこそ自分を見失っていることにも普通に考えるということがどういうことかも気づけなくなってしまいます。

妄想まで行かなくても、それに左右されているなら、「どちらも愚かきわまることだ」です。
確かに無駄な悩みですが、わかっていてもどうしてもこれを自分から外せない人もいます。
この言葉を見ると、2千年前も今も人の心は大して変わっていないなぁ、って感じがします。

20世紀後半から現在まで、コンピュータをはじめその他、科学文明は急速な発展を遂げてきました。
しかし、それを支えている人間の意識を見るとどうでしょうか。
単純に科学の発達と比較してみるだけでも、心や意識のことは随分遅れている感じがします。

この名言を見てわかるように、心の苦悩はどの時代も今も変わらないようですが、根本的な意識の理解はいつまで後回しにされていくのでしょうか。 
この名言は、「過去は過ぎてしまったのだから、過去のことをいつまでも悔やんでもしょうがないだろう」、また「未来はまだ来ていないのだから先のことを考えすぎても心配しても意味ないよ」ということです。

いつまでも過去を気にしては、また先の不安ばかり見つめていては、次の行動に移せません。
このことで躓いている人は、「そんなことは頭では分っているよ」というかもしれませんが。
でも、本当にそれから抜け出す方法を知らないから「頭で分ってる」になるんです。

この言葉と同じことをいっている名言を見つけました。
フランスの哲学者、アランの言葉です。 
同じ意味です。
「我々は現在だけを耐え忍べばいい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。
過去はもう存在しないし、未来もまだ存在していないのだから。」

ちょっと厳しい捉えかたをすれば、このような当たり前の言葉が名言になるのは寂しいかな。
名言と言われる言葉はたくさんありますが、本当に言霊の含んだ名言は多くありません。
ほとんどの人は、今の自分の精神状態や感情で勝手にその言葉に浸っているだけです。

名言も見かたを変えてみれば、ただのいい言葉、逆にいい言葉に深い意味を持たせた説明をすれば、ほとんどは名言になるのかもしれません。
名言となるような言葉でも、偉人が言うか、お笑い芸人が言うかでは受け取る側も違います。
名言の読み方次第で、自分の感情コントロールの度合いも分るものです。

話をセネカの名言に戻します。
ほとんどの人がこの名言から気づくことは、余計な過去のことやこれからのことを気にしないで、早く気持ちを切り替えて生きていくようにすればいい、ということだと思います。
これをさらに本質的な理解で考えて行ければ、だれでもこのようなことから来る心のイライラから解放されるのです。 

未来を過剰に心配する人は、自分の過去の経験が潜在意識に入り込んでいる心配癖の影響です。
その過去は、単なるこの世での過去の経験だけでなく、前世からのネガティブ意識の影響の方が大きい場合もあります。
この前世的意識の引継ぎを考えれば、簡単に過去は過ぎ去ったから関係ないとか、未来はまだ来ていないから先のことは分らない、というだけでは納得できるものではないのです。

過去のことは何とか気にならなくなったとしても、今これで悩んでいる人だけでなく、自分の将来、未来に対しては、どんな人も心配になるものです。
この心配の程度は、いろいろな条件を考えると人によって違います。
訳もわからない、単に不安に囚われているだけでは話になりません。
一体自分は何を心配しているのか、何が不安なのか、冷静によく見つめることです。

その不安を取り除くためには、自分には何が足りないか、何を理解しなければならないか、そして自分をどう進めて行けばいいか、などを考えます。
原因は、過去や未来ではなく今の自分にあることを見つめなければなりません。
冷静、客観的に自分を見つめることが出来るかどうかですが、やはり自分を作る努力でしょう。

自分のネガティブ性やそれから離れられなくしている潜在意識にある観念も見つめなければならないでしょう。
説明すれば分ることですが、それは「頭で分る」というだけでは解決しないのです。
その「頭で分る」ということは、どんな悩みにおいても無視しなければなりません。

何故なら「頭で分る」ということは、深い自分の意識から理解していないということですから。
本当に理解納得している人は、「頭では分っている」という言葉は出ないのです。
何故か心理的分析まで入ってしまいましたが、本当に自分の意識を強くするためには、「頭では分っている」という言葉の本当の意味を知ることも大切です。

視点、角度、思考の癖など、いつもやっている自分のパターンを変えることです。
変える前に、自分とそのパターンの思考回路でのつながりも見つめてみることです。
ある固定観念が見えてくればしめたものです。
自分の固定観念をじっくり見てみましょう。

おそらく過去の失敗やミス、恥など、嫌なものばかりという人もいると思います。
「過去のした自分のミス、失敗を二度と起こさないために」と考えたことが、いつの間にか自分の潜在意識に固定されてしまうことがあります。
そして先のことを思うと、無意識的に嫌な感じが心の中をよぎって行きます。
そんな感じで、未来を見ても当然良い未来なんか想像できる訳もありません。

何故なら、思考のフィルターがマイナスな過去の自分だからです。
こう考えると、正常な自分の思考とはすべてかけ離れているとなります。
正常な考えが出来ない自分からは、一体どういう答が出てくるのでしょうか。
それで何とか進めて行くにしても、いつの間にかまた余計なネガティブが付きまとうでしょう。

逆に、過去の経験からでもポジティブな何かを得ることもできるはずです。
焦点を変えて見てください。
ポジティブ焦点、ピントを合わすところを変えましょう。

もっと深い見かたが出来れば、本質、霊的法則から神の平等性を通して見れば、また輪廻転生の真の意味を持って理解して行けば、このことはよく納得できるのです。

人の悩みを解決するには、根本部分のところから現時点の意識まで見て、その大きな流れの中で論理的に分析して行くしか真の解決方法はないのです。
そうすれば、もしこうなったらという過程の自分の考えまで変化させ、一つの確信に満ちた方向に向かって自分を進めることが出来るようになるのです。
それですべてが成功するかどうかの結果を言っているのではありません。

私たちがどういう見かた考え方をすれば、納得して動けるかを言っているだけです。
これがいろいろな悩み解決から抜け出す方法の一つでもあります。
理解すれば、納得すればもう逃げ道は必要ないのです。
誰も、自分自身からは逃げられないのですから。

名言格言 ・・・名言(13)ユングも靴選びには随分考えたのでしょう。 2009/07/23

★☆ 名言(13)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                                     
ある人に合う靴も、別の人には窮屈である。
あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない。

★☆ ・・・・(カール・グスタフ・ユング 1875-1961)・・・・☆★
       <スイスの精神科医・心理学者>
                    
「あらゆるケースに適用する人生の秘訣」、こんな方法があればどんなに楽でしょうか。
これは、願望実現や引き寄せの法則や早く簡単に出来る方法などにも当てはまります。
多くの人は、家庭電化製品の電子レンジのように、簡単な「チン」の感覚で都合のいい方法を求めているのかもしれません。

「魔法の言葉、テクニック」は、このように思わせる宣伝文句にはありますが・・
ユングは心理学者ですから、この名言は人間関係で考えてみるとわかりやすいかもしれません。
あらゆるケースに適用するとは、どんな人にもいい関係を持てる方法と捉えることも出来ます。

しかし、そんなテクニックなどは無いということをこの名言で言っています。
聖者であるイエスであっても、霊的に無知な人から見れば悪魔とか敵になるのですから。
そこまで考えなくても、一般的社会における人間意識で分析してみるとどうなるかです。

まず、簡単なところから人間の心を見てみましょう。
人が心から求めるものは「幸せ」、それもありますけど・・、やはり出来ることなら「苦痛の無い生き方」がまず第一ではないでしょうか。
人間関係も苦痛が生じなければ誰とでも仲良くやって行けるでしょう。
しかし、いろいろな立場、性格、我、ネガティブ性、無知、といったことを考えると、当然、人それぞれ違いますのでどこかで抵抗、摩擦などが生じてしまいます。

では、苦痛の無い人間関係を保つためには、どうすればいいのでしょうか。
もし可能ならば、誰にでも合わせられる自分になるか、その逆に人を支配する側に回るかです。
人に指図命令される、支配されることは、どんな人にとっても苦痛なことです。
競争社会にあって、その裏にある人の心を覗いて見れば、誰からも何にも言われたくない、自由に生きたい、自分らしく生きたいと思うのは誰もが心から望んでいることだと思います。

「誰からも何にも言われたくない、自由に生きたい、自分らしく生きたい」
そうなるために、人は逆に苦しみ、心を狭くさせもがいている人もいるのです。
そして答えの出ない長い間の心の闘争と葛藤は、どんどん自分を追い詰めていくようになり、それがまた新たな内部摩擦を生むという悪循環になります。
とにかく、「ある人に合う靴も、別の人には窮屈である」ですから、本当はお互い様なんです。

しかし、人間関係で悩んでいる人はそうは言ってはいられません。
ただ、地位の差、年齢、上下関係のこだわり、人間性などはどうにも出来ないこともあります。
それでも、誰にでも合わせられるとまでは行かなくても、せめて自分を解放させる方法くらいは身に付けたいはずです。

もちろん、今苦しんでいる人からみればそれも難しいというかもしれません。
当然です。何も知らずに何かの方法だけで対応しようとすることほど苦痛に感じることはないでしょう。
人の心、意識、性質をパターン化して当てはめ、何とかしようとするのも同じで、苦しみです。

その気になって、うまくやっていると思うほど、危険な思い込みはありません。
人間関係は非常に難しい、自分に問題がなくても相手に問題が・・、またその逆もあります。
この世は、正義、善、道徳、などたとえ誰が見ても自分が正しくても、それがそのまま通るということが無い場合もあります。

こんなこともありますので、たとえ表面的でも、少しでも多くどんな人にも適用する方法を身に付けたいものです。
それについて、全体的に考えてみましょう。
まず、自分の心をリラックスさせ柔軟に自由にすることから始めなければなりません。 

緊張は、一番の敵です。 
出来なくても緊張しているよりはうまく行きます。
これもつらいことですが、出来るだけ多くの人間のネガティブを知ることも大事です。
自分がポジティブの強さを付けるには、当然ネガティブがどういうものか知っておくべきです。

真に分かり合っていない友以外は、自分の我を冷静に押さえるしかありません。
自分や相手の立場もあり、ここですべてを言うことは大変難しいことです。
ただ、大事なことは、はじめから人の心をパターン化して覚えないということです。
自分が対人関係で悩み、ある方法を身に付けていざそれを適用しようとする時、どうしても心の奥では迷いビビッてしまうものです。

失敗したらどうしよう、ですね。
それとも、どこまでやれるだろうか、でも途中で苦しくなったら・・・もあるでしょう。
それでまた困ったら、暗示かけますか、それともポジティブ思考で勇気出しますか。

たとえばあなたがどんな方法を試したとしても、それが誰か一人か二人にうまくいっても、その他の全員にうまく行くということはないのです。
また、ある人にうまく行かなかったからといっても、全員に通じないということもないのです。
要するに、対人関係の問題解決はその方法にあるのではなく、自分の意識次第ということです。

「あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない」、まずこれを理解することです。
あなたが何かのテクニックで勝負かけようとするより、そのような制約を自分に課すことを止めたほうが、まだいろいろなことに気づけるかもしれないのです。
緊張、動揺、そして思考がマヒして止ってしまえば、あとはどうなるか見えたものです。

人はみんな意識が違うのです。
中には、普通でない、まともでないという性格の人もいるのです。
自分のすべてが悪いということもないでしょう。
いろいろ考えられることはあると思います。
たとえば、ある限定において「あらゆるケースに適用する人生の秘訣」はあるかもしれません。

限定の枠内で、あらゆるケースに適用できるを拡大して行けばいいということです。
これは、誰でもどこでも何気なくやっていることですが、それを拡大するまでやっていません。
拡大出来れば楽になると思いますが、それには人の意識をよく知らなければなりません。

本当の楽、心からの解放は、やはりいろいろなことを深く知る、そしてそれを実践してみることから分るんです。
自分の性質、意識を知って、自分流の方法をつけて行くのが一番スムーズな方法です。
確かに他人が原因の場合もありますが、それでもそれを早く乗り越えるのは自分の力です。

人と出来るだけうまく付き合うには、基本的には人間意識を知ることから、だと思います。
一番大事なことは、止まっては、内にこもっていてはいけないのです。一歩でも動くことです。
現在の社会、世界情勢の不安定は、だんだん人々の大きな不安材料になって来ています。

「ある人に合う靴も、別の人には窮屈である」、これもお構いなしの勝手な時代になって行くかもしれません。
自分に意識力をつけなければ、そして強くならなければこの人生は苦痛になるでしょう。
自分の人生が苦痛になるかどうかは、自分次第ですが。

「あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない」と言わずに、せめて自分の世界の中で、広い限定の中で通用する、自分を解放する秘訣くらいは持ちたいものです。
人間関係は、様々なケースがありますので、簡単にこうだと言える方法はありません。

しかし、それに対して悩まなくなるためにも、また無駄な時間を使わないためにも必要なことは覚えていたほうが、この先は楽になるはずです。
本当のこと、人間とは、人生とは、心意識とは、そして霊的意識とは、の基本を知るだけでもまったく違うのですが、ほとんどの人はそんな時間は無いと言うかもしれません。

その間、自分を苦しめてもいいのでしょうか。
いつまで苦しめれば分るのでしょうか。
あるキリのいいところで、「所詮人生はこんなもの」で自分を解放させて行くのでしょうか。
ユングの波動振動測定です。

ユングの若い時の写真からは、意識自体がとても純粋で軽くさわやかな振動を感じます。

ユングはずっとポジティブ意識、サハスラーラに意識集中しています。
また、ハート面からの振動は、かなり強い思いを感じます。
それは探究心旺盛につながっているといった感じを受けます。

晩年の写真からは、ハート面は非常に落ち着いた柔らかい感じの振動に変わっていますが、逆にサハスラーラ振動は若いときに比べかなり強くなっています。
これは、若いときより意識が霊的方向に進化したからだと思います。
サハスラーラの振動が高まるには、霊的意識の向上か意識的純粋性が必要です。
今生で霊的意識の勉強をしていない人でも、前世的な面で生まれつきサハスラーラ振動のある人もいます。

名言格言 ・・・名言(12) 真理の道のスタート点、デカルト「我思う、・・・」 2009/03/20

★☆ 名言(12)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                         
「我思う、故に我あり」 

★☆ ・・・・・・・( ルネ・デカルト 1596-1650 )・・・・・・☆★
          < フランス生まれの哲学者・数学者 >

「近代哲学の父」と呼ばれているデカルトは、確実な原理、真理を得るために疑えるものはすべて疑いました。
彼は、世界にあるすべてのことを疑い、徹底して考え抜いたのです。
その結果、どんなものも堅固な基盤を持っていないということに至りました。
そして、そこで見出した根本原理が、「我思う、故に我あり」という言葉につながっているのです。

それは、いろいろなことを疑いつづけている間も、疑っているこの自分が存在していること自体は疑えないんじゃないか、ということです。
デカルトは、「私」である精神と「私」という精神が捉える世界を「物質」として分けて考えています。

これが、「精神」と「物質」の二つによって成立していると考えた物心二元論です。
どこまでも疑っている「自分の精神」という存在こそが、結局のところ、疑うことが出来ないものだという結論です。
デカルトの探求したことは、私もそうでしたが、素朴、素直な疑問という根本的なものです。

すべては、ここからのスタートだと思います。
すべての中心、根本にあるのは自分の意識です。
自分の意識が認知していないものは、自分自身の中には存在しません。
ここのところを十分に訓練して行けば、さらに深い意識の世界に入ることが出来ます。

デカルトは内的意識のどこまで入って行けたのでしょうか。
自分の意識を潜在意識からさらに奥へ集中して行きますと、それは無意識の世界になります。
そこは、「我思う、故に我あり」という世界ではありません。
哲学はあるレベルまで、要するに私たちを真理の世界に向けさせる段階、その思考を訓練させてくれるものだと思っています。

でも、そこまでです。
真理は、思考を離れ、そこからは意識だけで触れていく世界になるのです。
デカルトのことをいろいろ調べていると、もう一つこのようなことも目に入って来ました。
デカルトは、心と体は脳の松果体というところで繋がっていると考えていたようです。

詳細は本を読んでいないので解りませんが、私はデカルトの言うすべてを見つめる探究と徹底分析、それにサハスラーラ(松果体)の振動訓練などを27年近くやって来ています。
松果体についてデカルトはどう言っているか知りませんが、これらのことはかなり古い時代から霊的意識の修行にあるものなんです。

このようなことは昔は宗教の中でしたが、今は自己意識開発を通して出来るものです。
時代が進むにつれ、人々の意識が受け入れる度合いによって、このようなことは精神世界を通してこの世に出されて来てるに過ぎません。
私は、デカルトは思考の限界を教えてくれたと思っています。

デカルトの結論は、どこまでも疑っている「自分の精神」という存在こそが結局のところ疑うことが出来ないもの、ということですが、それ以上はどうやって自分を知るのでしょうか。
この心の状態から、さらに自分に深く集中してみましょう。
今静かに目を閉じて、意識を自分の内に向けていきます。

そして、自分を思います。
静かに集中して、さらに自分を意識します。
そうすると、確かに自分を意識しようとする自分は感じられると思います。
しかし、その自分と感じる自分は一体どこにいるのでしょうか。
この自分と感じる全体像はどういうものかも知ることはできないでしょう。

体、それとも意識のどこにいるのでしょうか。
今度は自分の意識そのものだけに限定して、その自己意識だけに集中していくと、その自分はもっとわからなくなるはずです。
しかし、自分は自分です。
「我あり」

私たちは、どこで「我あり」と感じるのでしょうか。
考えて「我あり」か、心が「我あり」と感じるのか、それとも自然な意識から「我あり」と感じるのか。
自分を思い、そして自分があると思う時以外、自分を意識できる何が浮かぶのでしょうか。

「我あり」と思える自分はどんな自分か、その実体は何であるのか。
自分という存在、そしてその存在の価値は自分自身どこに置いているのか。
それを知ることが、自己意識の探究なんです。
私たちが単純に「我思う、故に我あり」と言うだけでは大して意味がありません。

その前に、自分自身のことをどこまで知っているかです。
自分というものを、自分が何であるかを、自分自身に言い聞かせることが出来るか、です。
自己意識の探究は、一般的に思われているほど簡単ではないのです。
それは、神(魂)と自分との関係を深い意識を通して知ることでもあるからです。

その確信は、「我あり」そのものの意識というわけです。
ボャーとした感じの「我思う、故に我あり」から「確信的、意識的我あり」は、宗教や精神世界から離れていても自己意識の確立によって解って行けるものです。
その意識では、自分と自分の魂(神)との関係の自己中心的意識を目指すのです。

普通に言う「自己中心」ではありません。
その意識が、「あるがまま」の意識状態だと理解したらわかりやすいかもしれません。

名言格言 ・・・名言(11)この名言、はたしてあなたはどこまで使えるか! 2009/01/28

★☆ 名言(11)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★

世の中には幸福も不幸もない。ただ考え方でどうにでもなるものだ。

★☆ ・・・(ウィリアム・シェイクスピア 1564-1616)・・・・☆★
       <イギリスの劇作家、詩人>
                      
名言が人の心に響くのは、自分が苦しんで揺れ動いている時に、心に何か触れるもの気づきがあるからだと思います。
この名言の言葉をもっと崩して、ちょっと迷っているとき「まぁ、何とかなるか」と思うだけでも少し気持ちが楽になる人もいるかもしれません。
しかし、名言でも心に触れる良い言葉でも、ただその言葉の感情的雰囲気に流されてしまうと、逃避という誘惑のワナにはまってしまうこともあるので注意が必要です。
 
「まぁ、何とかなるか、何とかなるさぁ」という言葉も、意外にポジティブ的変化をもたらす魔法の言葉っぽいとこがあります。
それで問題は解決しませんが、それでも少しの間気持ちは楽になります。
でも、それだけです。
やはり、考え方次第、ポジティブ的捉え方次第といっても、結局は抱える問題の度合いによりけりとなります。

問題の本質も考えないで、何でもこのような考えで済まそうとすれば、ただいい加減で結局とことん流されていくだけになります。
反対に、しっかり問題の本質を見つめながら、ポジティブな方向で問題解決を考えていく人は、本当にこの言葉の意味を知っている人かもしれません。
ちょっと冷めた見方をすれば、ずべてではありませんが名言は本当にいいものなのか?です。

これも「考え方でどうにでもなるもの」かも知れませんね。
この名言をもう少し深く見つめて行きましょう。
今言った「まぁ、何とかなるか、何とかなるさぁ」ということが通用するのは、ちょっと迷ったときくらいでしょう。
でも、考え方捉え方でどうにでもなるというのは本当です。

しかし、それは単なる楽観的に考えるということではありません。
ポジティブ思考で終わらないように注意しましょう。
「ただ考え方でどうにでもなるものだ」という言葉の意味も、冷静に客観的に、さらにポジティブ的に見ることが出来れば、幸、不幸というものから離れた見方考え方が出来るということです。

問題となるのは、不幸的なものやネガティブ的なものだけです。
幸福であれば、問題になることはほとんどないでしょう。これも人それぞれですが。
大事なことは、意識は柔軟に自由に使えるものですから、心から離れることが大事です。

まず大事なことは、その問題となるものに自分の感情を入れて考えないということです。 
「どうしよう、こまった困った」というだけでは、ネガティブ心の中です。
考え方、捉え方は、まず問題となる対象自体を冷静に距離を置いて見ることから始めます。

そしてそれを変化させていくのです。
その瞬間、その問題自体を違った側面から見ていることになります。
問題を変化させていくというのは、イコール自分を変化させていくということです。
問題自体は急激に変化するものではありません。

一点思考では何もいい考えは浮かんで来ません。
柔軟に自在に自分の意識の中を散歩しながら、キョロキョロしながら見るくらいがいいのです。
リラックスしなければなりません。
緊張すると、物事を考えるにもいつの間にか狭い考え、型にはまった考えになってしまいます。

いつもの感情的な自分の判断ではなく、自己コントロールが出来ている自分がいる、それが自分であれば楽ですよね。
そのような自分であるということが、すでに考え方捉え方で自在な自分が出来ているということになります。
そうなれば、もうこのような言葉は不要です。

では、このような言葉が不要になる自分にするにはどうすればいいでしょうか。
残念ながら、どんな人もそれを簡単にすぐに自分のものにすることは出来ません。
このような自分を創っていく過程が、意識の成長とか向上を目指すという方向にもつながります。

よくある「すぐに簡単に」に引っかかると、いつまでも苦しみの堂々巡りをすることになります。
心をパターン化して考えていくことが、悲劇の始まりです。
始めの一歩は、まず観念とは何かを知ること、そしてその観念の仕組みを知り、それからその観念の持つ根拠のない意味、力を知り、最後はそれに左右されない智恵に変えて行くのです。

これで、人間意識の構造が大体把握出来るようになって行きます。
その後は、意識向上の智恵をつけながら自分を高めて行くだけです。
そういう自分になって行くと、人からのつまらない影響などいちいち考えることもなくなります。
そうなると「ただ、考え方でどうにでもなる」という言葉さえ不必要な自分になっています。

自分自身の心を救う、自分の人生をより良くするには、単なる固定観念的に知っている言葉の意味では不十分ということにも気づきます。
言葉、感情、意識と固定観念、この関わりを知っていくと面白いと思います。
それを知り変える力、その意識を養うことも意識の成長ということになります。
はっきり言って、ただ、考え方でどうにでもならないことはいっぱいあるのですから、そのとき自分はどうするか、何ができるかです。

そういう自分を創ることが出来れば、余裕です。
人間の意識は深く神秘ですね。
一人一人の人間にとって「人間の意識とは何か」を知ることが、「ただ考え方でどうにでもなるものだ」の深い意味を知ることが出来るのです。
この名言は、このことから次に「幸福と不幸」の潜在意識的反応との関わりまで説明することが出来るのです。

潜在意識的には全部つながっていますから「考え方で・・・」、次々とキリが無いということになります。
シェイクスピアは写真の無い時代の人で、また自筆原稿も残っていないので、今回は残念ですが波動チェックは出来ませんでした。


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コメント

先生ご無沙汰しています。関です。 (セッキー)
2009-02-11 21:22:01
先生ご無沙汰しています。関です。
今は職場が変わり、病院で働いています。身体で感じることが脳で考えるようり大切であるような気がする。それぞれの体に眼がついているような感じで生活しております。自分の視点によって幸不幸が見え方が変わる、それが意識のありかたでもあるのだと思う。考えないで感じる身体!!それが、現代ではなくなり、もはや脳のみで生きる世界になってしまっているのかと、実感しています。言葉の世界で生きる僕達!!言葉にだまされないように体の感覚を大切にしていきたいと思います。失礼いたします!!

関さん、こんにちは。 (F・H・S)
2009-02-13 16:54:49
関さん、こんにちは。
職場が変わって、また前とは違う経験を積んで益々レベルアップしていると思います。
また、さらに難しい疑問を持って来てください。
とことん説明して行きますので、楽しみに!

こんにちは、人気ブログランキングからこちらにや... (akashii(アカシ))
2009-02-20 01:58:29
こんにちは、人気ブログランキングからこちらにやってきました。
素敵なブログです。
理性と意識力・・神の法則を知っていれば・・・の回を読んでスゴく賛同しています。お時間のある時にぜひ私のブログhttp://blog.livedoor.jp/homeoyoga/にも遊びにきてくださいませ。。。私のブログの読者は指で数える事ができる程ですが・・・笑  
これからもぜひブログ頑張ってください。

akashii(アカシ)さん、はじめまして。 (F・H・S)
2009-02-20 22:30:26
ありがとうございます。
アカシさんのブログを最初の方だけ覘かせていただきました。
瞑想について書いてありますが、残念ながら私の瞑想法は料金を
いただいています。
もちろん、理由はあります。
私はアカシさんの考えているレベルではないかもしれませんね。
今、ブログは小休憩みたいなペースですが、またたくさん書いて
いきますので参考にしてください。

名言格言 ・・・名言(10)人生の明暗を分ける自己コントロール力 2008/12/27

★☆ 名言(10)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                                     
自分に打ち勝つことは勝利のうちで最大のものである。

★☆ ・・・・・(プラトン  B.C427-B.C347)・・・・・・・☆★
         <古代ギリシアの哲学者>
                      
プラトンはソクラテスの弟子です。
ソクラテスの名言もいずれ取り上げてみたいと思います。
プラトンの哲学は、形而上、神など永遠普遍の実在の探求です。
この名言はプラトンの意識がよく表れています。
自分の内面深く探求して見えた、プラトン自身を表現した言葉だと思います。

この言葉に似たものは、いろいろなところで使われています。
「己に勝て」もその一つです。
根本は、何をするにしてもまず自分に勝て!、これからです。
「それが出来ないものは、何をやってもうまく行かない、敵は外にあるのではない、自分自身だ!」、これもよく聞くでしょう。

モタモタしている自分、弱気の自分、決断出来ない自分、スポーツで言えば、根性、フンバリ、自分に負けるな、ですか。
でも、プラトンはこの程度のことを言っているのではありません。
「勝利のうちで最大のものである」と言えるその裏にはどんな秘密が隠されているのでしょうか。

無限永遠の実在の世界に触れる、それは「悟り」、それも普通の悟りではありません。
それには、避けては通れない「自分に打ち勝つ」ための意識的修行がついて来ます。
もっと分りやすく言えば、自分の心のコントロールからです。

自分を見つめない生き方、そのままの自分で生きている、流されたままの人生。
それを、「あるがまま」というのではありません。
それは「野放しの自分」、「自我にあるがままに支配されている自分」ということになります。
自分の「我」に左右されている自分、それは「わがまま」「ネガティブのまま」ということです。

それは、何の意識成長もない、何かを変えるための何の要素も付けられない生き方です。
人間って、本当に不思議な生き物ですね。
自分でありながら自分が解らない、あなたは自分自身を知っているでしょうか。
「勝利のうちで最大のものである」とは、自分が味わうすべての勝利の中で最大であるもの、と取ったほうが分りやすいかもしれません。

その最高点は、自分の中にある全ネガティブ性の克服、解脱でなければならないはずです。
潜在意識レベルでみなければ、この言葉の本当の意味はつかみにくいと思います。 
とても奥の深い言葉です。

もちろん小さいことから始めなければこの段階には到達出来ません。
プラトンは、形而上学的なことや深い霊的理解があったのでしょう。
いつの時代も、このような真理の世界、永遠普遍の世界を多くの人に理解してもらうのは難しいと思います。
ここまでいかなくても、私たちは今自分がつまづいているネガティブに勝てたなら、その時点においては自分に勝ったということになります。

そのときは、それまでの自分から見れば「最大の勝利」を得たことになるのですから、素直に喜んでいいと思います。
この勝利も一つの悟りです。
こうやって、いろいろな「悟り」を積み上げて強くなって行くんですね。
自分に打ち勝ったという感じは、達成感という喜びと力になり、さらに次なる挑戦へ向けさせてくれます。

人生とはこんな感じ、この連続ですね。
何でも早くうまく持って行くためにも、やはり自分の意識をいつも高めているということは大事なことです。
私たちは、何に対しても、すぐ難しいからといってやるべきことを敬遠してしまいがちです。

そう言う前に、まず何でも慣れるということを考えてみてください。
慣れる、完全に慣れる、それをいいクセにしてしまえばあとは楽です。
悪いクセは、簡単に、何の抵抗もなく付いてしまうことがあります。
慣れる、いいクセを付ける、これにも努力が必要です。
その方法、やり方が自分のものにしてしまえば、それこそあとは楽になるのです。

本物の方法を知れば、その流れで一生自分の意識も高まって行くでしょう。
目先のことだけ、一時的に自分を楽にさせて、いずれまた苦しむか。
自分に勝ったものしか、次のステージに上がることが出来ないのです。
こんなはっきりしたことを実行せず、いつまで自分を野放しにさせているのでしょうか。

いつまでも他の何かと闘っているヒマがあれば、自分を見つめ自分のネガティブ性をコントロールすることに力を与えたほうが、いかに人生がスムーズに行くか。
長い自分の人生を考えれば、それに1年でも、また数年でもしっかりやれば、あとは絶対楽な自分が出来るでしょう。

このようなことは、本を読んでその気になったり、テクニックを使ったりして出来るものではないのです。
「本当に自分のものにする」ということがどういうことか、よく考えてみるといいでしょう。
「本当に自分のものにする」、それは自分の潜在意識に納得した形で入るということです。

「頭では解っている」、実際そんなものが何の役に立つのでしょうか。
「頭では解っている」は、本当にあなたの自信につながりますか。
それで、本当に自信を持てるでしょうか。
もう一度、この言葉を見つめてみると何か感じるかもしれません。
「自分に打ち勝つことは勝利のうちで最大のものである」

勝つだけが目的ではありません。
その後の自分がどう展開して行くかまで見えたら、何も言うことはないでしょう。


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コメント

Unknown (☆鷹)
2008-12-28 11:40:38
先生こんにちは。
いつも素晴らしい学びをありがとうございます。
知識やテクニックだけで、自分にはわかった、理解できたと思い込み〔私が天狗の話しをしました〕危険ですねと先生との話しを思いだしました。
天使の顔をしたネガティブがいるのですよね。
それは外ではなく内にあるのですよね。
私は文章力がないので、失礼な文や偉そうな表現になってしまっている事があると思いますが、先生やここの皆様は波動を感じれたり、ポジティブ意識が高い方々なので安心しています(^O^)V
けれど言葉知らずとはいえ、失礼な表現や偉そうな表現になっていましたら心良いものではありませをので、心からお詫び致します。
先生お忙しい中、更新ありがとうございます。

名言格言 ・・・名言(9) エジソンは、努力とヒラメキの関係を知っていた 2008/12/15

★☆ 名言(9)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★
                            
天才は1%のヒラメキと99%の努力である。

★☆ ・・・・(トーマス・エジソン 1847-1931)・・・・・・☆★
        <アメリカの発明家、起業家。「発明王」の異名を持つ>

エジソンを知らない人はいないと思いますが、でもエジソンの言葉をどのくらい正しく解釈しているか、もう一度考えてみたいと思います。
まず、エジソンの意識を読む上で大事なところを書き出してみました。
今回は、「フリー百科事典ウィキペディア」から、一部文を引用しています。
その文を参考にしながら、私が感じたことを書いて行きたいと思います。

エジソンは、1000を超える発明をし、世界の発明王などと言われています。
しかしエジソンは、その多くの発明を実際は自分が発明したのではないと言っています。
いったいこれはどういうことを意味しているのでしょうか。
まず「自分が発明したのではない」という言葉を考えることが大事です。

世界の発明王と言われ、誰もが認めるエジソンがこのように言っているのですから、何かそれなりの確信があったはずです。
もし、その確信が何であるかがはっきり解れば、それは私たちにも大きなヒントになります。
エジソンのようなヒラメキ人間に近づきたいですね。

また、エジソンはオカルト、超自然的なものにも魅せられていたとあります。
おそらく、これもエジソンらしく何かを感じ気づいていたからなんでしょう。
この言葉もその一つでしょうか、彼は「人間の魂もエネルギーであり宇宙のエネルギーの一部であると考えていた」とあります。
そして、彼自身が確信していたからこそ、次のような言葉が出て来たと思います。

「自分自身は、自然界からのメッセージの受信機であった。」
これを、「自分の発明は、自分の頭で発明をしたのではなく宇宙という大きな存在からメッセージを受け取り、それを記録する事で発明としていた。」とエジソンは説明しています。
そうなると、ここで困る人も出て来ますね。

現代の科学者、それ以外の発明発見に関わる人達は、エジソンのこの言葉をどう受け止めるでしょうか。 
私たちにとっても大事なことなんですが。
自分の頭で発明したのではないというのは、発明は思考によるものではないということです。

思考でなかったら何でしょうか? 宇宙からのメッセージとは? 
彼が言う宇宙からのメッセージとは、ヒラメキとかインスピレーションということです。
では、ヒラメキやインスピレーションは、私たちの頭でなかったらそれをどこで受け取るのでしょうか。

偉大な発明発見をする人は、研究や実験などに相当な時間を費やし努力しています。
研究や実験に相当な時間をかけ努力をするのは、もちろんいろいろなデータ集めにもなりますが、それ以上に大事なことはヒラメキを得るための準備とも言えます。

何の関係もない考えを持っている人のところには、求めるヒラメキはやって来ません。
それを受け取るための訓練や準備をした人が、それを受け取ることが出来るのです。
ヒラメキ、インスピレーションなどは、まず潜在意識で受け取るのです。

もう一つ「天才は1%のヒラメキと99%の努力」、この名言は本当によく知られています。
しかし、これについてもエジソンは、この言葉は若い記者が、「努力の美徳を強調するニュアンスに、勝手に書き換えて発表してしまった。」と言っています。
この名言は、エジソンと聞けばすぐ浮かんでくるくらい有名な言葉なんですが。

これも本当の意味は違うとは・・・
エジソンの本当の意識はどうなんでしょうか。
「フリー百科事典ウィキペディア」にはこう書いてあります。
実際は「1%のヒラメキがなければ99%の努力は無駄である」との発言だった。

言い換えれば、「1%のヒラメキさえあれば、99%の努力も苦にはならない」ということである。
そう考えられなくもないのですが、でも?です。
エジソンならこう思っていたのではないでしょうか。
真の天才というなら、99%の努力は要らないでしょう。 

真の天才なら、です。
何故なら、1%のヒラメキが最初に来れば、あとは何も必要ないからです。
ヒラメキがすぐ来ることはなくても、99%の努力は天才にはないということでしょう。
2%のヒラメキでもあれば大天才でしょうか。

しかし、エジソンは努力が無駄だとは言ってはいません。
エジソンは、1つの成功は99%近い失敗を知ったからだと思っていたかもしれません。
これは意識的な捉え方で、成功というのは一つで、あとはそれ以外です。
意識的なことでも科学的なことでも、それは段階を追えるものです。

とりあえずは、失敗とか成功とかにあまり捉われずにデータ集めが大事かもしれません。
努力の始めは思考からです。
思考はヒラメキに至る道で、その最終段階、その道が途切れるところまで行くのが思考による努力です。

偉大な発明発見は、みなこの道を通っているのではないでしょうか。
思考の道が途切れるとこ、その先はエジソンから言わせて見れば宇宙という大きな存在です。
この宇宙という大きな存在はどこにあると思いますか。
それは空のかなたの宇宙ではなく、私たち一人一人の意識にあるのです。

気づき、ヒラメキ、インスピレーション、という順に高いベルです。
一般的にいわれてる願望実現の方法と比べてみてください。
大きな違いは一点だけです。 それは「努力」です。
努力は、それがある時点に到達したとき、それ自体の形を変えるのです。
その時、もう人は努力も出来なくなるのです。

努力したくても出来ない、努力が出来ない状態があるのです。
その線まで行かれるかどうか、それがその宝物を手に入れられるかどうかになるんです。


エジソンの意識測定です。
エジソンの集中はアジナですが、かなりその部分が強くそして何とも言えない集中力の重さを感じます。
とても深く考える人に言えることですが、大体はアジナ集中に並でない強さを感じます。
思考的集中のポイントは、アジナです。


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コメント

金子先生、お忙しい中での更新ありがとうございます。 (須田)
2008-12-16 18:23:56
金子先生、お忙しい中での更新ありがとうございます。
「才能」を語る時、私たちの多くは、才能は天性のもであって、後天性は存在しないような思い込みがあるように思います。
今回のブログを拝読して非常に感じたのは先生の純粋性でした。何を言わんとされているのか何度も読みました。
1%のヒラメキ(インスピレーション)はどのようにして得られるのか?そしてその努力とは?がテーマのように感じられました。
人間には能力的な限界というもがやはりあり、それを「素質」と呼ぶとすれば、人間にできることはを努力して、努力して、その「素質」に見合った成長や成果を遂げることぐらいではないかと感じられます。
ただ、その努力が何をもってして?の努力かが大変貴重なテーマに感じます。
どう努力しても、もうどうにもならないという「限界」に達したとき、なんなくその「限界の壁」を乗り越えていく人がいます。そのような人を「天才」と多くの人は思うのかと・・・
まるで「壁」なんかないかのように前人未到のドラマを繰り広げる人がいます。エジソンもそうなのだと思いました。
でも、凡人も天才も同じ人間です。一体何が違うのか?
「限界の壁」を乗り越えようとするとき人はどうするのか?どちらに行けば越えられるのか?何をもって人はその判断材料を選ぶのか?
もしかしたら、その判断基準は、今までの小賢しい経験則などではなく、誰彼が出版した書物による抜粋事項などではなく、自己啓発やチャネリングなどによる情報ではなく、そいったものは全く通用しないのではないかと気づきます。
ただひたすら求め続ける、その人の内に宿る「純粋さ」が、限界の壁を超える「ヒラメキ(インスピレーション)」、「宝物」を受け取ることができるのではないかと感じます。それはエジソンに言わせれば宇宙からのメーッセージ、ある人に言わせれば、神の声、神からのギフト、となるのではないかと。。。
世俗のことに煩わされている人にはこの限界の壁を超える「天からの声」は聞こえるわけがないのだと理解できます。
純粋に心を澄ましていなければ、その思考の努力をし続けなければまったくもって得られないのだと思いました。
安易に、簡単に、早くなどといった方法でこの「天からの声」を得ることは決してできないのですね。その努力をしなければ内側は空虚で支配され、天才を妬み、その空虚さから逃れるために、類似的な天からの声(ヒラメキ、インスピレーション)を得ようとするのかもしれません。それが、ネガティブな誘惑とは知らず、どんどんはまっていってしまう・・・
内側を澄まさなくても聞こえる声は、まさしくネガティブな声=悪魔のささやきであり、破壊のセレナーデなのだと理解できます。悪魔のささやきに従い、その空虚感を埋めるため、成功・高収入・権力・名誉など世俗的な成功によって満足しようとやっきになっているのかもしません。
それは、悪魔の道、聞こえる声は、悪魔のささやきなのに・・・
こう考えると、自分のなかでいろいろなことが理解できます。
「天の声を聞く」道は、まったく経験をしたこともない、まったく新しい道なのだから、だから先生は、データ集めが大切で、段階をえて進んでいく先に、人間の力ではもう進めない限界に達した先に、とてつもない宝物があるのだと理解できます。
だから、余計なことに振り回されている時間はないと先生は言われるのですね。
進む道を示すことの真の大切さを手を替え品を替え、示されるですね。
今、自分か進んでいるこの道をしっかりとさせていきたいと思います。
この道、ここの道、なのですから!
だから、内側は強くなくてはなりません。訓練しなくてはなりません。
内側の『火』は決して消してはなりません!
そうなのですね。先生。

名言格言 ・・・名言(8) 信念は固定観念の産物?真の信念とは 2008/11/18

★☆ 名言(8)☆★ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆★ 

信念は嘘よりも危険な真理の敵である

★☆ ・・・( フリードリヒ・ニーチェ 1844 -1900 )・・・・☆★
       < ドイツの哲学者 >
                      
ニーチェの名言だけでなく、今回は信念についてちょっと違った角度から見てみましょう。
一般的にいって、信念を持っている人は、持たない人よりはいいと思うかもしれません。
はたして、それは本当なのか、また信念に変わるものは無いのか、それとも信念は自分を守るための防具となるのか。

この世で、私たちが普通に使っている言葉、その言葉の意味もパターン化され、何の疑いもなくそれに反応し、その反応に自分の思考を重ね合わせている人の持つ信念にも問題がある。
信念をすべて説明するとなれば、ニーチェのように少し頭が重くなって来そうです。

信念という言葉の意味を考えていくと何がわかるのでしょうか。
たとえば、意志の弱い人が信念を持てと言われると少し気持ちが萎縮すると思います。
そう言われたとき、その人は「信念」をとっさにどのような意味に解釈するかです。

まず人が言葉に反応し、次の行為、表現に移す意識の土台となるのは固定観念と感情です。
倫理的道徳的に正しい思いで生きようとする人
自分の目的に向かって迷わず進んで行こうと思っている人
人の意見に左右されないで自分を通して行くことの出来る強い人

ちょっとの苦痛や逆境にも負けない自分を持っている人
誰がなんと言っても、自分の信じることを曲げない人
これ以外、いろいろな世界を見ても、それぞれの信念を持って生きている人が多くいます。
言葉だけに焦点を当てれば、信念というのはいい響きがあります。

しかし、この信念が問題になることが多いのです。
この信念に客観的冷静さや柔軟性が加わればまだいいのですが、けっこうそうでない人が多くいます。
信念という言葉だけに固執して自分をその言葉の感じに縛りあげれば、自分を失ったりふし穴状態になることもあるのです。

自分の中にある固定観念の中を覗けば、信念という言葉をどれだけ説明出来るでしょうか。
その程度、自分が知った知識の程度が自分の信念の裏づけになっているものです。
あなたも誰かに信念を持てと言われたことがあるでしょう。

そういっている人自体、信念というものが何であるか知っていないかもしれないのです。
二ーチェが言う、「信念は嘘よりも危険な真理の敵」という意味を考えてみたいと思います。
その前に、ニーチェの波動測定の結果を言っておきます。

ニーチェの顔見ると何か感じるかもしれません。 (ウィキペディアで調べました)
私はニーチェのことはまったく知りませんが、見たとおり?の意識波動です。
波動測定で集中していると、私の頭それも前頭部が重くなり、そして軽く痛くなる感じです。

二ーチェは相当深い集中をしていますが、霊的、または調和的波動は感じられません。
哲学者であっても、かなり考え抜くタイプだと思います。
彼は、インスピレーションの得る方法を少し気づいていたのかもしれません。
ただ、彼が求めるインスピレーション、それを受けるための霊的真理をどのくらい深く理解していたかです。 

いくら集中していても、それを受けられる自分を準備していないとダメなんです。
ニーチェの意識に集中していると、自分も深く沈んでいく感じになって行きます。
この波動測定から、ニーチェがいう「真理の敵」の「真理」は、真の霊的意味での真理ではないと考えています。

それでも哲学ですから「真理に近い観念」の段階にあって、ある高いレベルまで思考が達していたのかもしれません。
ニーチェ哲学に詳しい人はわかるでしょう。
ニーチェの言う嘘は、「嘘」ともう一つ「暗示」という意味で捉えてもいいでしょう。

この世的な意味からすれば、自己暗示も信念も同じようなものになるかもしれませんから。
違いはと言えば、思い込む度合いの差、信じる力の差、もっと言えば、その信念を自分自身、自分のプライドに変えてもいいという強力暗示かどうかになります。

かなり高いレベルの「真理に近い観念」から来る信念と、この世の意味としての信念とでは、まるで意識レベル、内的意識力のレベルが違うのです。
「真理に近い観念」から来る信念は、それだけネガティブ性は含みません。
一般的に言う信念というものが、どうしてそれが「問題になることもある」かです。

信念という言葉自体、誰もがポジティブ的な感じがすると思っているかもしれません。
しかし、意外にネガティブ性に変わりやすいマイナス面がいつも付きまとっているということもあります。 仕方ないです、この世の観念からの産物ですから。
ポジティブうつ、ネガティブうつがあるように、ポジティブ信念、ネガティブ信念もあるのです。

一般的に信念を強く持つということは、柔軟性や広い見方から自分を閉ざし、また自分をその信念に支配させることまで許します。
そして、その信念に自分の意思すべてを任せ、それによって作られた自分に仮の自信という力を与えようとします。
何かをやリ遂げようとする時は、こういう自分を作ることも必要ですが、何もなくただ信念という見せかけに自分をおき、その気になっている人もいるのです。
人は何かするとき、信念かそういった何か自分の芯となるものを作ろうとします。

しかし、それから一時的な信念だとしたら、それを自分の何となく安心として暗示をかけるなら、おそらく求めている事は失敗に終わるだろうと思います。
それは、目標に向かうための信念ではなく、不安のよりどころ安心させる仮信念だからです。
この世にある言葉の意味で動いてはならない。

そこに含まれている意味を知ることです。
この世にある言葉には言霊、真の言葉の意味、意識で納得できる意味が入っていないのです。
信念、イコール間違った固定観念、そんなものを人から押し付けられたらどんなに迷惑か。

社会は人間関係で成り立っています。
会社の上司、周りの先輩方、自分の信念による教育熱心な親、良く注意してみればこの世はネガティブ信念を持った人が何と多いことか。
自分で自滅するだけならまだいいが、それを他人の自由な意識にまで影響させようとする。

まだ、嘘ならいつか気づくのも早いと思うが、信念になると、困ったものだとなるでしょう。
頑固な人が信念のある人ではないのです。
実力者に多いと思いますが、間違っていても自分を変えない人が信念の強い人ではない。

そんな人は、つまらない信念に縛られた、それから自分を解放させることも出来ない真理、または真理に近い信念から遠くかけ離れた人なんです。
この世の言葉の意味だけでしか物事を考えられない人、ほとんどの人がそうですが、それに自分を固定してしまえば、年をとったときには固まった観念の自分、間違った信念の塊人間が残るだけです。

それは知識の塊、自由意識の無い人間、固定観念化された自分、それを自分のプライドにしているだけなんです。
全体意識から見れば、固定観念化された知識の集まりで出来た人間、意識の世界も自由も知らない人間が、いつ、脱皮、自己成長のためのチャンスに気づくでしょうか。

私たちは自分を変えるために、知ること、知らなくてはならないことが多くあるのです。
それでも、簡単な方法を探しまくるのでしょうか。
「簡単な方法はどこかに、必ずある」、こう思って疑わないのも「信念」ですか。