歓迎の光の門

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歓迎の光の門(7)~これで納得、チャクラの開き方、回し方!(2) 2011/12/12 

今回まとめたチャクラの開き方、回し方は、私にとっては途中経過ではありません。
はっきり言って、それはこれまでやって来た結果で、一つの結論です。
私は、これでチャクラがどうのこうのとか、またチャクラの開き方、回し方、そういうことももう終わりでいいと納得しています。

終わりというのは、もう関係ないという意味ではなく、それは私の意識にしたからです。
そこで、この内容はこれまで以上に深い意識の世界に踏み込んだものになりますから、これから先少しづつ説明して行かなければなりません。
私はチャクラの理解を通して、本当に大事なことを分かったのです。

これも、私がこれまで散々つまづきながら進めて来た真理の世界、その勉強の成果です。
宗教、精神世界、意識、次元、このようなものがすべてまとめられた、ある一つの結論が私の意識の中に出来てしまったのです。
これは、宗教でも精神世界でも、まだその勉強途中では絶対分からないことなんです。

何故なら、まだ途中では、意識全体、真理の感じを知ることが出来ないからです。
この途中という言葉はかなり漠然としてはっきり理解出来ないと思います。
でも、こういうしかないのです。
意識、真理の勉強は、気づきの段階を追って向上するものですから、はっきり線のないこの途中を越えて分かることもあるんです。

意識段階を超えるごとに見える、確信を得る、そして「これしかない、これ以上のものはこの世には無い」という一つの絶対的思いが、「絶対的なそこを知る」になるからです。
私は長い努力の結果、今ようやく「絶対的なそこを知る」に至って、またその新しい世界が、さらに明確に意識出来るようになったということです。

チャクラの開き方、回し方だけでなく、その他の意識の勉強、霊的世界のことも、私のすべての話を人が信じるかどうかは私には関係ないのです。
いつも言っていますが、疑うなら無視すればいいだけ、参考になるなら大いにレベルアップするために活用して行けばいいのです。
その人の、霊的性質が自分を援助するかどうかだけです。

今回は、チャクラの開き方、回し方の(2)ですが、本当はそれだけの説明ではありません。
その訓練方法は、私の知っているチャクラのすべてをまとめて作りました。
「V14チャクラカード」で、しばらくはこの訓練を進めていけば充分だと思っています。

今回は、これまで私がチャクラの開き方、回し方をやって来たことで知った、大きな全体像、それは意識向上に必要なことの説明にもなります。
その説明は同時に、チャクラの意味の理解にもつながるのです。
前回も書きましたが、チャクラは霊的回路で、簡単に言えば神のエネルギーが人間を通して顕現するチャンネルと理解していいと思います。

こういうことだけを、どうのこうのと説明しても大して意味がありません。
それより、何故チャクラ開発が必要なのか、その重要性を知るべきだと思っています。
私は、チャクラ開発をする前に、このことを知ってもらいたいと思っているのです。

この意味の説明は同時に、チャクラだけの話ではないと、前の説明につながります。
それは、また新しい角度からの自己成長の真っ直ぐな道を理解することになります。
ここで注意してもらいたいのは、私はチャクラ開発や自己成長の簡単な方法の話しをしたいのではありません。

もういい加減、真理の世界は簡単かどうかで選択するものではないことに気づくべきです。
今回、私が気づいたことで大事なことがあります。
それは、宗教でも精神世界でも、その他意識向上の勉強でも、どうして思うように成長しているといった実感が持てない人が多いのかということです。

哲学は思考重視ですからここでは対象外で、問題は宗教や精神世界です。
当然、その目指す方向は神(仏)で、それはこの世から離れた超越したモノの理解と探求です。
しかし、いつまで経ってもほとんどの人は思うような手応えは得ていないのです。

手応えとは何か、それはヒントで、それが分かれば必ず段階が上がるのです。
では、「それが分かれば」というものが何を指すのか、これについて考えてみたいと思います。
ここからは、私がこれまで意識、霊の世界を勉強して来たことで知ったこと、それは自分の意識ですがそれを言葉にするとどうなるか話してみたいと思います。

宗教や精神世界をかなり深い部分まで勉強しているという人は多いと思っています。
その人たちが集めた基本的な知識は、それほど物足りないものではないはずです。
現代は、ネット検索でも出版物でも、ほとんどのものは困らないくらい揃っています。

あえて困ることを探すと、多すぎて何が本物やら・・くらいですか。
この勉強を始めた頃の私の本の選び方は、人間の言葉の匂いのするものは避けた、こんな選び方をしていたように思います。
先ほども書いたとおり、この勉強で目指す方向は神(仏)で、それはこの世から離れた超越したモノです。

それは思考では絶対理解出来ない世界です。
この理解出来るかどうかということも、もう自分の考えから捨てたほうが、ムダに悩むこともなくなると思います。
思考でも何とかなると思っているから、いつまでもそれで出来る方法を求めさまようのです。

私ははっきり言いたい、思考では絶対無理だと。
こうはっきり言ったほうが、楽になると思います。
いや、思考で何とかやってみせるという人は、がんばってください。
勘違いしないで欲しいのは、思考はすべてだめだということではなく、それで最後まで通そうとしてはだめだということです。

内面のことを言えば、この世のことであっても感覚、感じで判断することも多いと思います。
この感覚、感じがとても大事だということは、充分感じるところがあると思います。
このように、内面で、一体何を充分感じているのかを考えてみるのです。

それに焦点を当ててよく考えてみると、自分に対してもかなりの説明が必要になるでしょう。
「感じ」とは何でしょうか。
その内面の感じをもっと高め、「感じで分かる」にしているのが、意識の力です。

知識をたくさん集めたなら、今度はそれを理解した内的感じに変えていくのです。
これはあくまで霊的意識向上だけを対象に言っています。
霊的向上を目指すには、当然知識や思考だけではどうにもならない大きな限界があるのです。

ここに早く気づけば、意識向上の勉強方法にも変化が出てくるでしょう。
有り余る教材がある今の世界で、またここまで溢れかえった様々な方法がある中で、そしていつも同じことを見せつけられていながら、それでも同じことを繰り返しているのです。
大した変化もないで、ただ行き詰まって足踏みをするだけで、それでもけっして自分の方法を見つめないのです。

見つめているつもり、だけど、とことん見つめられないのです。
何故か、そんな感じの自分だからです。
外ばかり見て人ばかり見て、何がどうであれば気が済むのかと言いたくなります。
よくよく考えてみれば分かることで、何が一番大事か、そしてそれがどれだけ自分を救うかが。

成長のヒントもない、自分の足を自ら引っ張ることをしていることに気づくのが遅い。
何故そうする、これこそ簡単! 思考で大事なことを分かろうとするからでしょう。
もうあきらめた方がいいと、何度も言って来たんですが。

思考では無理だから、もっと素直にこのことを早く受け入れた方が賢明だと。
本当は今回はチャクラの話(2)でしたが、違う話になっていると思っているかもしれません。
でも、これはチャクラの話とまったく関係のない話しではないのです。
意識の奥を知れば知るほど、こんな関連があったのか、と気づくこともあるのです。

その関連は、感じとチャクラがつながるということを話したかったのです。
これは非常に深い内容ですから、すぐには理解出来ないかもしれません。
ただ、私はこのことが意識ではっきりとまとめることが出来たおかげで、いろいろなことにケリをつけることが出来たのです。
この話も、今回の(2)ではとても終わりそうにありません。

まず、私が言いことは、「感じ」のことなんです。
それは、先ほども書いた内的な感じです。
でも、「感じ」と言うのは内的なことでは・・、なんですが、ここでの感じはさらに深い霊的感じのことです。
私は、長い間の意識勉強と段階に沿った内的神秘体験で、この世と人間意識と神世界のことの大事なポイントがはっきり分かったのです。

今回話している内容は、今のところ何のまとまりもなくバラついた感じがすると思いますが、あとでまとまって来ると思います。
深い意識、それは意識であってもかなり広大な世界になりますので、それでも何とかまとめていこうと考えているんですが・・
とにかく、感じとチャクラの訓練は、同時進行で発達させることが出来るということです。

歓迎の光の門(6)~これで納得! チャクラの開き方、回し方(1) 2011/12/01

チャクラとは一体何なのか。
チャクラの位置も、その働きも、いろいろな説明がありますが明確ではありません。
中には、クンダリーニと一緒くたに考えている人もいるくらいです。
もちろん、チャクラを開くとか回すといったことも本当はどうなのか、これも検索すると全く別な世界と感じるものがたくさんあるのにビックリします。

チャクラの話は、以前にもしました。
その時も書きましたが、それまで私はチャクラを開くとか回すという意味をはっきり知らなかったのです。
ネット検索しても、どれもしっかりとチャクラ訓練もしていないのにそれらしいことを書いてあるサイトはたくさんありましたが、どれも参考にするにはほど遠いといった感じです。

ネット検索でもはっきりしたのですが、結局、チャクラについては何もはっきりとしたものは無いということです。
チャクラの不思議体験を書いてから1年以上経ちました。
そして数ヶ月前、私はさらに明確にチャクラの話しが出来るような超神秘体験をしました。

自分自身に関して言えば、この体験でチャクラがどうのこうのは終わったのです。
私の30年間のサハスラーラ集中とチャクラ訓練と超神秘体験の内容は、誰によっても崩せるものではないという思いがあります。
それが絶対正しいかどうかまでは言いませんが、ただ一つの結論として出たのは、チャクラに関して充分に満足できる理解を得たということです。

チャクラの意味も、開くも、回すも、それにはちゃんと意味があるのです。
チャクラを開く、回すは、以前チャクラのことを書くまでは、まったく知らなかったのです。
チャクラに関しては、今回ある程度まで説明したいと思いますが、あくまである程度までです。

何故なら、今作っている「チャクラ開発訓練カード」で説明しますので、ここではヒントだけになります。
今回、私はチャクラに関して新しい可能性、魅力を感じたのです。
おそらく、チャクラの説明は、今の精神世界にある説明とはまったく違うものになると思います。

どちらの説明が一番的を得ているかは、識別力を使って判断してもらうしかありません。
では、少しづつ私の知っているチャクラについて話を進めていきたいと思います。
まず、チャクラの位置ですが、これもいろいろあります。

脊椎の位置、経絡の位置、そして私は内分泌腺の位置という感じです。
それから、次元的なことまで進みます。
肉体チャクラ、アストラルチャクラ、そしてメンタルチャクラです。
ただ、この内容のすべてを詳しく説明しているものはありません。
しかし、今の私はそれがどのように関わっているかは理解しているのです。
だからと言って、その説明が聞く側にすぐ理解出来るというものでもありません。

まず、チャクラとは何かです。
そうすると、普通は7つのチャクラをいろいろと説明し始めるでしょう。
7つのチャクラを物的なこととつなげることは、ある程度でいいのです。
7つのチャクラを物的な面で知ったからといっても、それは大して役に立たないのです。

実際、チャクラとは何であるか、その深い意味を知ってから集中訓練があるのです。
チャクラとは、ある肉体部分を通して霊的意識が強く顕現する回路です。
霊的意識、イコール霊的エネルギーでもいいでしょう。
ほとんどの人は、すべてのチャクラがある程度は開いているものです。

ただ、ネガティブ度合いが強くなるほど、チャクラの開く度合いが狭くなっています。
それは、霊性がそれだけ少ないということになり、ネガティブだから当然です。
ということは、ポジティブ意識の人はそれだけチャクラの開く度合いも違うということです。

もっと訓練すれば、かなり開き方が大きくなるというより、いつも開いた状態でいられるのです。
みなさんが、霊的にも、人間的にもすばらしいと尊敬出来る人は、ある部分のチャクラがそれなりに開いているのです。
別にチャクラが開いているのが見えるということではありません。

私は波動振動測定で主要なチャクラのレベルを知ることが出来るからそう言えるのです。
私のところで、長い間意識の勉強をしている人の中には、かなりいいレベルでサハスラーラチャクラを開き始めた人や、また開いた人もいるのです。
チャクラの位置も、その強さの度合いも振動測定ですべて分かるのです。
人間の霊性、人間の質(ポジティブネガティブ)は、チャクラから表現する霊的意識です。

もちろん、その霊的意識(霊性)がネガティブで閉じられている人は、過去世のカルマの引継ぎが強力だというしかありません。
ですから、チャクラだけを開発しようとしても大して効果が出て来ないのは当然なことです。
また、脊柱のチャクラは、脳からの各内分泌腺や臓器に行く神経が脊髄を通って行くのですから、そこに直接集中することは間違っていないと思いますが、私はその方法ではしません。

それをクンダリーニと直結するのは、果たしてどうか、と私は思っています。
このような脊椎チャクラの集中で、体調を悪くする場合もあるようです。
どうしてこういうことが起こるか分かりますか。
私は絶対クンダリーニをどうにかしようと考えたことはないのです。
クンダリーニを上げるということは、簡単にちょっと知っているといったレベルの人の指導では危険だと知っているからです。

当然、未熟な自分はそんな危険なことに挑戦しようと考えたこともなかったのですが。
よく考えてほしいと思います、大事なことです。
チャクラでもクンダリーニでも、その目的は何か、そしてその方向はどこかです。

特に霊的、ポジティブ性の意識準備もしないで、一体何を求めているのか、なんです。
振動的に見れば、霊的エネルギーの反発で苦しむことは当然となります。
簡単に言うと、霊的振動に合わないものは絶対それに反発されるということです。

それは、霊的振動がそうするのではなく、自分のネガティブ性に自己波動障害を起こすということになるんです。
精神世界系では、チャクラをくるくる回すとか、まだお遊び的ですからそこまでその反動で苦しむことはないと思いますが、都合のいい考えは後々マイナスにつながります。

波動振動面で考えれば、霊的なこともいろいろと説明出来るのです。
私は、肉体チャクラは内分泌腺の位置として集中して30年近くになります。
30年間いつもしていたということではなく、そう確信して来たのです。
また、内分泌腺は肉体の健康を左右する、一番大事な器官だと私は信じています。

医学的に見てもそうですが、それだけでなく精神的にも強く左右するところなんです。
ですから、チャクラというのは意識向上を考える上でも、とても大事な集中になります。
瞑想も大事ですが、チャクラの本当の知識、そして集中訓練はとても大事なことになるんです。

それを支えるものが、霊的意識に向かうための土台、ポジティブ意識ということです。
これらすべてをまとめて、その人の霊的性質のレベルが変化上昇していくということです。
単なる精神世界でない、真の意識向上の目的はここにあるのです。

私が完全にチャクラを知ったと確信したのは、メンタルチャクラの世界を神秘体験の中で見せてもらったからです。
それは、肉体チャクラ、アストラルチャクラが、大雑把だが霊的意識の全体を含めた大きな霊的意識の進化の流れ、移動を次元を重ねるように見せてもらったからです。

ポイントはそこだったのか!という発見でした。
しかし、その霊的エネルギー(振動)の強さに触れたときは大変つらい思いもしたのです。
ここまで来れば、もうチャクラがどうのこうのではありません。
あとは、この霊的意識をどのようにチャクラを通して表現するかだけです。

これは、おそらく来年中には出来ると思っていますが、そのすばらしい内容を一人でも多くの人に触れてもらいたいものです。
かなり神秘も分かりやすくなって来たと思います。
今は、チャクラに関しては、たくさんのことを話せると思っています。
私は、今回のチャクラ神秘体験を通して、いろいろなことをまとめることが出来たのです。

今私は、チャクラの神秘に注目し研究しようとしていることがあります。
それは、その回路が霊的創造原理につながっていることの解明です。
やはり、チャクラは、内的意識回路を開くための一番やりやすい方法なのかもしれません。

歓迎の光の門(5)~身を以って気づくか、気づかされるか!(2) 2011/11/24

社会的なことで、重要な場面で出て来る人を時々波動振動測定をしています。
その結果として、残念なことですが最近の政治家の中には自分の魂を売ってしまったのでは、とビックリするくらいいきなり波動が超ネガティブに変化している人もいます。
波動振動測定は、そのときの意識変化がはっきり出るので、心境の変化が誰にも気づかれなくてもその意識変化はよく分かるのです。

それが、ポジティブかネガティブか、要するに善い方向に変わるか、それとも悪い方向に変わるかということです。
もし、本人がその決断が絶対善い方向だと確信を持てるなら、波動もポジティブになるのが当然です。
しかし、それとは反対に超ネガティブに変わっているのですから、そこは言っていることと思っていることは違うということになるんです。

このようなネガティブ変化は、絶対許されない罪になって、それがどういうことかを最後の「身を以って気づかされる」まで行くことになるでしょう。
逆に、ポジティブ変化は、自分のネガティブ性を引き寄せることを阻止したり、軽減させたりする効果があるのです。
これが霊的法則です。

これからの時代は、悪が堂々と物事を進めて行っても、神側から救いの手は伸ばされません。
人間はここまで自由にやって来たのですから、その結果は人それぞれ受けるしかないのです。
自分のネガティブは、必ず自分自身で何とかしなければならないのです。

自分のやったネガティブを他人が肩代わり、その逆も・・、これは不公平です。
これも霊的法則です。
これでも、何とかなると思っている人は、まったく無智な思い込みの余裕があるんですね。
何とか逃れる道、方法を探してもムダです。

宗教も、他のどんなものでも、人を救う力はありません。
あるのは、自己浄化だけです。
自分が、「人を救う力」とは何か、それに気づくことによって救われるだけです。
ほとんどの人の焦点は、うまくやれる方法探しだけにあるのかもしれません。

そんなことを考えているヒマがあれば、自己浄化、真理方向に向かえば早いのに・・
少しでも意識進化するために、これからの時代は自分や他人、またこの世のネガティブなどにイヤでも直面しなければならないのです。
いずれ気づくと思いますが、この言葉だけは覚えておいてください。

「身を以って気づくか、それとも苦痛の中で気づかされるか!」なんです。
人は、真剣な思いで神に近づくことが、そんなに嫌なんですかね。
自分が心底から楽になり、喜びを得ることが、そんなに嫌なんでしょうか。
それとも、無意識に神が恐いんですか。
無意識に罪深い自分を恐れているんでしょうか。

何でもいいんですが、どう思っていても死ねばそこで霊的裁定されるんですよ。
もし、恐いという思いがあったら、本当のことを知るために勉強すればいいだけです。
本当のことも知らないで恐がることは、よく考えてみると変だと思いませんか。
私は真理と神という真実が無ければ、逆に恐怖になりますが。

私の一番の味方は神(霊的魂)だと思っていますし、それ以外は2の次で大した価値も認めていません。
どんなにこの世の知識があっても、霊的法則や真理のことを知らなければ無智の仲間です。
その証拠に、ここまで輪廻転生を繰り返して来たんですから。

私自身も無智の仲間でしたから、今生でそれをよく理解し反省をして今のようになっています。
生活が大変だから、そんなことやっているヒマがないという人は、いつになったらですか。
やはりこれに直面しなければ気づかないの「身を以って苦痛の中で気づかされるか!」

無智のままであれば、輪廻転生にブレーキがかかることはないでしょう。
人生が、いつまでもいい状態で続くと思っていられるのは幸せな人かもしれませんが、平和ボケ、無気力になった多くの日本人には「中々消せない夢心地」なのかもしれません。
もう何を言っても気づかない、振り向きもしない、こういう人が気づくのはやはりその時を待つしかないのかもしれません。

世界のことは置いて、今の日本だけを見ても分かると思いますが、もう始まっています。
「身を以って知る」ということです。
ずっとこの言葉を言って来ましたが「身を以って知る、身を以って気づく」とは、どういうことかがもう分かると思います。

この言葉は、ネガティブなことを言ってるだけではないのです。
本来の「身を以って知る」「身を以って気づく」という意味は、何らかの失敗や苦痛を通して精神的に大きなダメージを受ける、ということです。
これが神の法則に背いた罪になると、どのような気づきが来ると思いますか。
それは、その時だけこの人生だけのことで終わるということはないのです。

あなたの過去世の大きな罪までどんどん今に覆いかぶさって来るんです、もちろん来世にも。
もちろん、これがハルマゲドンに近づけば近づくほど、地獄的な苦痛になるでしょう。
だから、人を恨んではいけない、憎んでもいけない、復習なんて以ての外となるんです。

人間の苦痛、ほとんどの人の気づかない苦痛の原因は、これをするからです。
悔しいのは分かるけど、人を恨み、憎しみ、そして復讐心を持つのはやめましょう。
それは最終的に自分のため、そのために霊的法則があるんです。
こういう思いになることは本当に大変だと思いますが、真理だからと言うしかありません。

それを完全に理解するためにも自分をネガティブからポジティブ意識に変えなければならないんです。
この意味は、ネガティブの中では絶対理解出来ないことです。
わかりますね、だから超ネガティブ人はポジティブを理解出来ないということを。

言葉を知っているのと、真に理解出来ていることは違うのです。
あなたが何もしなくても、神に反した者は、いずれ因果法則という霊的平等の法則によって、本人自らを苦しめるのです。
それは、霊的方向からやって来ますから、逃れようがないのです。
どんなに抵抗しても歯向かっても、また逃げ回っても、絶対無理なんです。

相手は、神ですよ、あなたは本当の、それはこの世の理解以上のという意味での神意識を知っていますか。
ですから、今日本で人の命や人生を平気で踏みにじる行為をしている者に対しても、決して強い憎悪を向けてはならないのです。
それは、あなたのためなんです。

何もしなくても神の法則上、それはそのような人の上に降りかかるのです。
平和、人権、人の生命を守るという目的以外に、相手につまらないネガティブ感情を向けたり、自分のポジティブ性をネガティブに変えることだけは止めましょう。
ある面。ネガティブの人は気の毒な限りです。

目先の欲に囚われ、最後の地獄まで行かなくては気づけない意識、それまでどのくらいの苦痛を味わうか。
相当なレベルの信じられないような地獄的苦痛を。
私は今の悪行為より、その苦痛がどういうものであるか知っていますから、悪レベルの人間であっても本当に気の毒にしか思えないのです。

神を軽く見ないほうがいいですよ。
神を知らないから・・・は、今のうちです。
もう、それでは許されなくなるんです。
今でも、ほとんどの人はのん気です。
そのうち、焦るを通り越して、凍りつかなければいいのですが。

真理に目を向ける以外、もう救われる道はありません。
こういうことを、何も一変に知ろうとしなくてもいいんです。
少しづつでも、それがどういうものかが分かるまで時間をかけて進めて行けばいいのです。
まず、その気持ちが大事です。

そして、絶対あきらめないことです。
もう一つ、大事なことがあります。
今の自分の意識レベルで、神、真理が本当かどうかを考えることはやめましょう。
どんなに自分の意識が高まったとしても、その答えを出すことは無理です。

そんなことより、何を疑っているか、そのレベルの自分を疑いましょう。
すべて自分が未熟だからいけないのです。
もう一度、よく考えてみましょう。
この世は、真理やこの勉強の効果について、何も知らないという人が大多数です。

無智はネガティブです。
ネガティブであっても、そのようなたくさんの人達の中にいれば安心なんでしょうか。
どこまでもその人達と一緒に歩んで行けば、すべてがうまく行くと思っているのでしょうか。

いつの間にか、こうなってしまいました。
ネガティブの中にどっぷり浸かっていれば、真理は理想だと決め込んでしまい、結局そんな努力は無駄だと無意識の暗示がかかるのです。

歓迎の光の門(4)~身を以って気づくか、気づかされるか!(1) 2011/11/17

霊的法則、イコール神の法則です。
神の法則は、慈悲もえこひいきも無い完全平等の絶対法則です。
こういうと、人は「それならどうしてこの世は不平等なんだ」と言うかも知れない。
この答えは、真理を理解した人は平等となり、観念で考えている人は不平等となるだけです。

いつになったら、真理に耳を傾ける時が来るのでしょうか。
慈悲は、神が関わることではなく、神の働きを為す意識がすることです。
神は、慈悲もえこひいきも無い「愛」そのものです。
「愛」は神で、絶対完全で永遠で、純粋なる生命です。
しかし、神は愛そのものでも、またそれだけでも無いのです。

この世の言葉で神を説明することなど不可能だから、こういうしかないでしょう。
こう言う私も、神のすべてどころか一部も知っているわけでもないが、それでも意識で神意識に触れている分そうだとなるんです。
神、愛、完全、絶対、真理、生命、永遠、これらの言葉一つにしても、だれも想像することは出来ないでしょう。

想像してみると分かるでしょう。
しかし、人はこれらの言葉の中にある意識を、自分の意識の中で一つにすることが出来るのです。
その想像が正しいかどうかではないのです。
そうして行かなければ、そのようにして理解を深めなければ、思考から離れた意識で分かるということが出来なくなるのです。

想像でも、意識で分かるということは、霊の世界を感じるための準備だから、意識向上とは当然そのような方向に向かうことになるのです。
霊的想像とは、単なるイメージではないのです。
また、単なる夢、空想的なものでもないのです。
霊的想像にしても、しっかりこのような世界を勉強しているからこそ出来ることなんです。

この想像無くして、霊的意識回路を作ることは非常に時間のかかることだと知ってください。
霊的想像は、霊的思考、霊的推測、それは霊的論理性で進めていくことなんです。
ただの信仰、読書だけでは、いつまでも求めるものは得られないのです。

真に知る、真に分かる、真に生きる、これが霊的法則意識です。
霊的なことや真理は知るだけでも大変かもしれない、かと言って言葉で知っているというだけでは大して意味もないのです。
霊的法則は、その意識になって初めてその法則の真理が何であるか分かってくるのです。
真剣に求めて、初めて身を以って知るものなんです。

まず、その受け入れ態勢となる意識は、ポジティブ意識です。
今の自分の意識を、どんどんポジティブ意識にしていくこと、それが自分を成長、向上させるということです。
この意識作りをするためには、たった一つの行為しかないのです。
それが、自分のネガティブ性をポジティブに変換するということです。

ネガティブを持ったまま、これから先も何とかなると思いますか。
何とかなるかどうか、そんなことよりネガティブを外せなかったから、また生まれ変わって来たんです。
私もそうです。
しかし、もううんざり、同じ繰り返しの人生が見えれば、これから先地獄と分かってる世界には絶対戻る気など無くなります。

それでも幸せならいいですか。
幸せで生きられるなら、多少ネガティブになってもいいと思えますか。
その上にネガティブの親分がいても、自分が幸せならすばらしい人生になりますか。
人生って、幸せになることだけが目的なんでしょうか。

どんな程度の幸せであれば、満足というのでしょうか。
ほとんどの人は、ささやかな幸せでも健康で生きていかれればいいと思っているかもしれません。
しかし、それが本当の思いなんでしょうか、それが心から望む満足なんでしょうか。

本当に自分を知って、そう言っているのでしょうか。
自分を知らないということは、かなり危険なことなんです。
そのことにも気づいていない人はほとんどですが。
何が危険なんでしょうか。
仮に、今言ったような人が何らかのことでお金がどんどん入って来るようになったとします。

そうなると、意識はどのように変化して行くでしょうか。
それでも、以前のようなささやかな幸せでいいという思いを通して行けるでしょうか。
もちろん、人が貧乏であることが正しいということを言っているのではありません。

人の意識の変化を考えて見たいだけです。
いったん、お金や物で満たされた心は、それで安心安全を知った心は、それから離れることがどんなに苦痛になるか理解出来ますか。
何故そうなるのでしょうか。
それは、それに変わる善いものを用意していないからです。

それがあって自分、それで自分を平静に保てるというだけです。
見た目は大人だとしても、しっかりこの世を知っているでも、ポジティブ意識ということでもないんです。
人は、持っているものを失うときに本性が出るんです。
そういう自分を知っていれば、そこまで自分自身のことを知っていれば、そんなお金や物に自分を支配されることもないでしょう。

こんなことは、ただの思い込みで出来ることではないのです。
ただの思い込みは、切羽詰まれば、必ず不安が押し寄せて自滅です。
ネガティブな人は、どんなに偉そうに振舞っても、結局何かに支配されているに過ぎないんです。
支配されていないと主張するなら、執着しているだけです。

それに執着してもいないと主張するなら、そのモノにその人が執着させられているだけです。
結局、ネガティブに支配されている以外何があるというのでしょうか。
こういうことをしっかり見つめ、自分のネガティブを出来るだけ知ることがポジティブ変換の一歩ということになるんです。

それが、「自分を知る」ということです。
「自分を知る」ことの中に、もちろん自分の長所も含むのは当然です。
しかし、良いものだけを伸ばしても、そこから何を気づけると思いますか。
自分の良いものをさらに延長して行っても、あるところまで行けば、その気になるだけです。

私たちが気づく、それもポジティブ意識になるということは、自分のネガティブ性をポジティブ力によって気にならなくなるまでしてしまうことです。
自分の長所を伸ばしたくらいで、これが出来ると思いますか。
逆です。
自分のネガティブ性を変えれば、ポジティブ性、長所ももっと活き活きし出すと思いませんか。

自動的、という言葉あります。
これは順序を踏めばという意味を含み、効率とか近道ということにつながって行きます。
せっかく時間を使ってがんばっていても、上っ面だけを滑っていては・・
これは、ほとんどの人が気づけないことです。

何故なら、これらのことは経験で分かることだからです。
この世には先人が残してくれたものがたくさんあり、それをどのようにも活用出来るのです。
ありがたいと思えるようなものはたくさんありますが、ほとんどの人はそこまで見つめません。

そんなことより、心では何もしないで良くなる都合の良いことだけを求めているんです。
寂しい推測ですが、この先50年、100年後でもいいですが、この世界がよくなっていると思いますか。
すべて意識、人間本質で読むんですが。

これも書いて来ました。
どんな時代でもいい、ネガティブの言いなりになる人生で幸せな人生がやって来ますか。
自由のない人生でも幸せな人生ですか。
こうなると幸せとは何かを追究して行かなければならなくなります。

先ほど、人が思う幸せは物的なものに満たされること、そのような言い方をしました。
そのためには、この世は当然お金が必要です。
そのお金を得る、それも必要なことです。
しかし、それもたくさんのお金を集めることが人生の目的になるんでしょうか。

それで、自分の幸せを守るためには、ネガティブに加担してもいいということですか。
自分の幸せを守るためには、人が苦しもうが死のうが、まったく関係ないと思えるんですか。
こういう意識を、立派なネガティブというんです。

私が言う立派なネガティブというのは、ハルマゲドン行きのファーストクラスのチケットを持っている人のことです。
こういう人は、ハルマゲドンの意味も知らないどころか、きっとこのことも一笑に付してしまうでしょう。
日本も原発事故以来、本当に変わってしまいました。

それこそ、今まで隠してうまくやってきた連中の化けの皮がどんどん剥がれて来たという感じです。
逆に、そのネガティブ意識が堂々として来たことに、益々日本の将来に不安の影がはっきり見えて薄気味悪ささえ感じています。

歓迎の光の門(3)~歴史は繰り返される・・、誰が! 2011/11/11

今回は、「歴史は繰り返される」という言葉について考えてみたいと思います。
この言葉は、過去に起きた多くの人々を巻き込む愚かな行為を、人間はそれを再び繰り返すものだという意味です。
これは歴史という過去の事実から何も学ばなかったために、また同じ間違いを繰り返してしまうという解釈もあります。

果たして、人は過去の事実から何も学ばなかったために、同じ間違いを繰り返してしまうものでしょうか。
歴史は学校でもしっかり学んでいます。
人々の意識には、歴史上の大きな出来事による悲惨や苦痛や恐怖などは入っているのです。

では、しっかり歴史を学べば、人は同じ間違いを繰り返すことに歯止めをかられるのでしょうか。
また、この歴史を繰り返すのは一体誰でしょうか。
その数からすれば、ほとんどは一般人になりますが、その一般人を指揮している人達もいます。

いつの時代も同じです。
例えば、戦争に絞って考えてみると、内外で何千年も前から小さな戦から世界大戦まで、本当に世界中が多くの戦争で明け暮れています。
人間世界、歴史は戦いの歴史だとも言えます。
「歴史は繰り返される」は、人間である以上それから逃れられない運命なんでしょうか。

それを言葉だけに終わらせず、何でそうなるかに焦点を当てて見ない限り、本当のことが見えることもないでしょう。
やはり、人は歴史から何も学んでいないのか? となります。
歴史から学んでいても、どうして愚かな行為をまた繰り返してしまうのでしょうか。

こういうことは、戦争だけでなく、その国の大事な将来を決めることにも言えるはずです。
今の日本も、戦争とは別な愚かな繰り返しにどうにも出来ない状態にあります。
歴史から学ぶ、ということだけでは解決できない、まだ大きな人間意識の気づくべきところがあるのかも知れません。

やはり、この深い原因については、焦点を変えて見て行かなければなりません。
では、その歴史を繰り返すのは誰か?です。
それは、その国のすべての人々、ではない。
歴史を繰り返すのは、その国の大多数の人々、圧倒的多数に属する人々となるんです。

それを簡単にいうと、一般人でいいでしょう。
この一般人が圧倒的多数を占めるんです。
歴史を繰り返すのは、こういう人達です。
馬鹿という意味ではなく、大事な事に目を向けない、自分の目先の幸せだけしか考えない、毎日が楽しければいい、人生楽しまなきゃぁ、といって大変な自体でも他人事のようにいられる人です。

こういう人達や我欲まみれが一般的に圧倒的に多いのです。
この無智が輪廻転生を繰り返すという点に注目します。
輪廻転生を繰り返すのは、もちろん無智な人以外にはいないのです。
何らかの形で、人生の意味を深く理解した者はこの世には戻らないのです。
この世に戻って来る人間は、まだネガティブ浄化が出来ていない人に限るというのが霊的法則。

要するに「歴史は繰り返される」という言葉は、輪廻転生を繰り返す者に対して言う言葉になるのです。
一般人と言われる人は大多数だが、その一般人はそれほど意識が低いのか?どうかです。
意識が低いというのはネガティブの度合いもあるが、悪という意味から離すと無智となります。

無智は、本当のことは何も知らない、またその知識もほとんどないという人を指して使います。
こういう人でも、本当のことを知ろうと自己成長に向けるだけでも、無智というレベルから脱出できるんですが。
一般人というのは、ポジティブ意識のこともネガティブ意識のことも、それがどういうものかがはっきり分からないのです。

多くの人は様々な宗教の信者になったり、お参りに行ったりはするが、実際はその本質など分かっていないのです。
それは、伝統や慣習といった流れに従っているだけで、それが終わればまたこの世のことだけに集中し始めるのです。
では、この一般人という人々は、もっと詳しく言うと、ここではどういう人を指して言ってるのかとなります。

この一般人という人を定義しなくては、この話も混乱し答えに持って行けなくなります。
この一般人というのは、ここではこういう人達のことを言っています。
波動振動測定で、私は人間意識を大きく2つに分類していますが、それはポジティブ意識とネガティブ意識です。

このポジティブとネガティブ意識は、善と悪という言葉で簡単に分けることも出来ます。
このポジティブネガティブも善悪も、どちらかに強く傾くとその間には中間意識的なものも存在してきます。
超ネガティブ意識というのは、人の心や命などは関係ない自分さえ良ければ誰が犠牲になってもかまわない、といった意識の持ち主です。

その反対の意識が超ポジティブ意識です。
また、単なる悪は、物質欲、そして精神的我欲に囚われ、善意識が追い出された意識を言います。
しかし、人によっては、その善悪意識のどちらでもない、そこまで強い思いも無いといった人もいます。

おそらく、そういう人の数が圧倒的多いはずです。
その圧倒的に多い、善でも悪でもない、ポジティブでもネガティブでもないといった中間意識の持ち主を、ここでは一般人としています。
本当は、これもきっちり線を引いて分離出来るものではないのですが、ちょっとどちらかに偏っているという人もこの中間意識にしています。

しかし、人間はいつまでもどちらつかずで生きていくことは出来ません。
この数十年の間に、精神世界といって人の意識向上に目を向けるような動きも活発になって来ました。
人々の自己啓発を促す動きがある一方で、人々の意識が向上することで、それが困る人物も出て来るんです。

それは、当然ネガティブ勢力側にいる人々です。
一般人を無智な状態、悪く言えばおバカ状態にしておけば楽に物事を運びやすくなるからです。
それは、自分が、自分我、そして、我我我ぁーといった意識が、それを満たすための人生、それが最大の人生の目的です。

もっと言えば、この2つの力(P・N)は、大多数の一般人を自分の方に引き寄せようと努力をしているんです。
その結果、一般人というのはどちらに傾くと思いますか?
普通なら、こういう流れで来れば、当然善的な方だと思うでしょう。
悪なんか傾くわけはないだろうと、これを読んでいる人はほとんどそう考えていると思います。

しかし、結果は違うんです。
証拠は「歴史は繰り返される」ですから。
「歴史は繰り返される」その中に生きるのは、ここでいう一般人です。
善的意識、理解の深まったポジティブ意識の人は、この世に生まれ変わって来ません。

例え生まれ変わってきたとしても、悪には自分の魂まで売らないでしょう。
圧倒的多数の一般人をうまくネガティブに誘導するのが、ネガティブ意識ということです。
無智な一般人を、ネガティブ方向に誘導するのはトップクラッスのネガティブ人にとっては充分に計算された想念操作で持って行きますので、それはけっして難しいことでは無いんです。

一方、ポジティブの人達も、この一般人を善い方向に向けようと、いろいろ誘っていきます。
しかし、一般人の求めるものは、努力なし、簡単、気軽に幸せを、多少の悪はみんながしていればそれも正当化して、いつでも都合のいい仲間同士でいることを求める。

ここに、悪の巧妙な仕掛けに引っかかると、もう網にかかった魚のように抜け出すことも不可能になるんです。
悪であっても、ネガティブ人はこの点はしっかりやっているんですから、悪ということを抜きに考えると、この部分は見習ったほうがいいでしょう。
悪であっても、基本はしっかり崩さず地道に進めて行くのです。

私は、悪であっても目先に囚われない長期的計画の進め方は認めているのです。
その点を悪はしっかりやるが、一般人はそれをしないのです。
そのワナに、一般人がその気になって、もちろん事実は知らないのですが、結果的に悪に加担しているということになるんです。
結果、その時は良くても最後に苦しむのは、言いなりになった自分ということです。

しかも、その時代は確実に来ているし、これからもずっと続くいうことです。
一度そのワナにはまったら、それに気づきがついた時にはもう遅いとなるんです。
何故なら、カワイソウだけどその土台は、一般人が自分たちの幸せだけに気を奪われている間に作られてしまったからです。

今の日本は、表には出て来ませんが、心の中でこのような選択に非常に悩んでいる人もたくさんいるでしょう。
人の命に関わることを直接的ではなくても、間接的に関わらなければならないということです。
無智の結果がいざというときに大きな苦しみになって返って来るんです。

それで、また来世ですか。
またその時選択に迷い、結局流されるように、また「歴史は繰り返される」の一員となるんです。

歓迎の光の門(2)~自分の中に答えがある?はたして・・ 2011/11/03

回り道のない真っ直ぐな自己意識進化を目指したい人は、ぜひ参考にしてほしい。
何が正しく何が間違いか、何が大事で何が今は要らないか、どうすれば早く達するかまた何がその邪魔をするか、どうして出来ないかまたどうすれば出来るようになるか、どの方向を見たらいいかまたどこに焦点を当てればいいか、何が分からないかまた分かるためにはどこからメスを入れるか、何を目指して行くかまた今考えなくてもいいことは何か、そして自分はどうしたいのかまたそれは本当に望んでいることなのか。

すべての始まり最初の一歩は「自分を知る」からで、そのために知らなければならないことはたくさんある。
最初の一歩が間違っていても、いくらでもいつでも修正は出来る。
正しいこと、完全に近いものが絶対あると認めることが出来れば、自分の間違いも素直に受け止められる。

それが成長の第一歩で、ほとんどが変えるべき捨てるべき自己意識に過ぎないことに気づくことが素直な正しい自己判断となる。
無智な意識でいくら我を張っていても、それはただ滑稽なだけで何の価値もない。
素直さは受容の拡大意識につながる。

素直でない者は、意識成長の過程で素直にならなければ必ず行き詰ることを知るだろう。
この素直というのは、内的真理方向の探求には絶対の自己援護力になるだろう。
しかし、この素直という言葉の本当の意味も分からない、そういう自分にも成れないくらい人の心は神から遠く離れ過ぎているのかもしれない。

知識で知ることと、意識で知ることはまったく違うことです。
真の世界とはそういう世界で、意識以外では触れられないし、言葉でも説明は出来ない。
よく、いつの間にか知った、神が自分に降りて来ていろいろなことを知ったという人がいるが、そのような人のソバにいても、また話を聞いても何の勉強にもならないと思う。

何故なら、自分の意識で動いて知ったものでない限り、真に説明するということは無理だから。
今の時代、精神世界系の本やサイトは、うんざりするほど出回っている。
意識の勉強をするにしても、その内容を見極められればと思うが、最初からは無理です。

しかし、もう無駄にする時間は無いのです。
もうこんな時代になったので、いつまでもモタモタしていても意味がない、しかし・・
「そこであなたの内にどうしたらいいか聞いてみる」こんな方法もどこかにあったと思う。

しかし、いくら考え込んでも、待っていてもあなたの中から答えは出て来ない。
その答えにしても2通りの意識があるのみ。
1つは、都合の良いことを期待しているため、しっくりしたものは出て来ない。
もう1つは、これが答えですが、「とにかく動け!勉強して行け!」これが正解。

何も特別なものは無い、ごくごく自然なこと。
いくら私たちが神とつながっているといっても、あなたにはまだその回路が開いていない。
意識の勉強は、この回路を開くことが第一で、それと同時進行が成長向上ということ。

その逆も同じ、だから素直になることが早い成長につながるというだけです。
それも出来ない人が、何か都合のいいものを望んでも期待しても、はっきりいって無理なこと。
このことにいくら反発しても、それは私に対する反発であって、神の法則に勝てることではないのです。

もっと冷静に客観的に全体を見つめて判断出来る自分を目指しましょう。
意識の勉強や霊的勉強は、何か特殊なことをやって行くことではないし、また要らない。
難行苦行的なものは一切関係ない、純粋に意識の理解だけを目指せばいいこと。
何かに手を合わせることも、何かの行為を毎日することでもない、そうすることで何が欲しい。

また、感謝や何かの言葉を言い続けることも、毎日反省することも、真理的なことと接点がなければそれも必要ない。
私の魂やあなたの霊的魂は、そんなことを望んでいるのではないのです。
神側からあなたに望んでいることは、自分の意識段階を上げてあなたの霊的魂(神)に近づくこと、それだけ。

それは、必ずしも今生で神に触れなければダメだということでもなく、それが失格でもない。
大事なことは、あなたの本当の深い意識がそうであるかどうかだけ、それだけが未来の生を決定する重要なカギとなるんです。
そのための人生です。

そのための長い間の意識の勉強、訓練です。
その長い間のあなたの真摯な思いの蓄積があなたの魂に届き、あなたは認められる。
すべて自分のため、そして向上した意識は人に善い波動となって伝わっていくのです。

何も余計なことを考えることもなく、ただ突き進むだけです。
たったこれだけのこと、これは宗教でも精神世界でもないことくらい分かるはずです。
ただ、あなたの意識を純粋に霊的法則で理解した真理を自分の意識にするだけ。
それは、すべて自分自身を良くするためではないですか、それが消えて無くなりますか。

私はそうして来たんです。
最終的に、堂々と神の前に立てる自分にして来たのです。
ですから、私はいつも自分中心で自分のためにやっているんです。
そして、その知ったことを参考にしたい知りたいという人には、それを教えるだけなんです。

決して、あなたの中に答えがあるから自分で考えろ、といって逃げはしないのです。
もちろん、そんな心配もないくらいいろいろ知っていますが。
真理的なこと、霊的なことで、自分の中に答えがあるなどと、はかない夢を追いかけたり、待っている時間があれば、本でも読んで勉強したほうがまだましでしょう。

あなたの中には、真理的な答えはありません。
こう言うと、相当な反発が考えられますが、事実です。
反論にしても、何も知らないで理屈的なものと、しっかりやった結果でいうものがあります。
真理面で言えば、観念的なものは一切通じないと思ったほうが、そう思えればまだ賢明です。

今のことも、言葉の意味で言えば、この世的と真理的の2つの意味があるんです。
この世的、観念的なことで一所懸命考えても、所詮壁がある。
この世的、観念的なことだけでは、本質的には大して意味も無い。
しかし、私はこの世に生きているのでそれなりのことは知っておくようにしている。

その点においては、バカにされても構わないと思っているが、神側からだけは見放されたくない、これしか価値を置いていないからです。
私にとって、この人生が輪廻転生の最後、そして最後の地球です。
物質的なものを残しても意味が無いので、若い頃から次に持って行けるものだけを集めて来たんです。

きれいだった日本もとうとう汚され、そのうち地球全体にも・・・
そうなることが読めませんか、のんびりでいいんですか。
おそらく、私もあなたも生きているうちにこの事実を目にすると思いますが。
これも、観念と真理の分離、そして深い理解によって見えるものなんです。
予言も要らない、人間の意識をみれば読めることなんです。

この世のすべての中心は人間で、その意識ですべてを決定して行くんです。
あとは、数の力、そしてコロコロ変わる理性の欠如した気分が世を変えて行くんです。
「道は狭い、しかし確実な真っ直ぐな一本道があるのみ」
それに早く気づいた人ほど到達が早い。

私は何度も同じことを言って来たという感じがしている。
もうそろそろ、こういったことも終わりにして次の段階に向けた方がいいのかも知れない。
結局、結論はどんな言い方をしようと、意識の向上、もうこれしか無いということです。

せっかく精神世界が広まって喜ばしいことだと思っていたが。
しかし、多くの人が、あまりにも真理からかけ離れているということも分かった。
神は人々を安易に助けない、ということにもそろそろ気づくべきだと思っている。

いよいよ、自分の原因となる行為が自分の結果として直面して行かなくてはならない時代になったのです。


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コメント

強烈に響く内容を届けてくださってありがとうござ... (須田)
2011-11-14 01:50:00
強烈に響く内容を届けてくださってありがとうございます。
『無智な意識でいくら我を張っていても、それはただ滑稽なだけで何の価値もない。』
『その長い間のあなたの真摯な思いの蓄積があなたの魂に届き、あなたは認められる。
すべて自分のため、そして向上した意識は人に善い波動となって伝わっていくのです。
何も余計なことを考えることもなく、ただ突き進むだけです。』
いま、つかみ始めている煌めきを、確実に意識化したいです。
だから先生、私は進みます。
何があっても、進みます!

須田さん、どんどん進んで行ってください。 (F・H・S)
2011-11-14 20:25:39
須田さん、どんどん進んで行ってください。
人は、人生の最後に近づくと分かることがあります。
それに気づけばですが。
この道しかない、あとはむなしい。
この道の喜びしかない。
その他の道は、ただの信仰だけ。
やはり、分かればの話ですが。

ーやはり、分かればの話ですが。ー (須田)
2011-11-16 23:36:41
ーやはり、分かればの話ですが。ー
このように書かれると、どこか空しさを感じます。ですが、私にとってその空しさも一つのヒントです。ですから、やるしかい、学びたいと積極的にそう思えます。今の私には当然それしか言えません。
それで良いと思っています。
次の階段をのぼるために・・。
ありがとうございます。

空しさというのは一つの壁です。 (F・H・S)
2011-11-17 19:30:10
空しさというのは一つの壁です。
この壁を乗り越えたところに、真の喜びがあるんです。
空しさと喜び、このギャップはすごいですよね。
必ず、感じる、分かると思いますよ。

ーあなたの中には、真理的な答えはありません。ー(S田)
2011-11-21 19:21:46
ーあなたの中には、真理的な答えはありません。ー
「全ては内に」ではないのですか?
どういう意味なのか教えて頂けないでしょうか。

ありがとうございます。 (F・H・S)
2011-11-22 18:53:10
ありがとうございます。
この文だけでは、理解出来ないかもしれませんね。
これは、「今のあなたの中には、・・・」にすればよかったと思います。
もう一つ、「答え」という言葉に焦点を合わせて考えてみると分かるかもしれません。
これについては、そのうちもっと詳しく説明したいと思います。

歓迎の光の門(1)~一人でも多くの人が、この門の前に立てますように! 2011/10/27

超神秘波動測定とその集中のために、ブログ掲載を2ヶ月近く休みましたが、また再開しようと思います。
目的は超神秘波動測定だったんですが、結果的に超神秘集中に変わってしまったのです。
しかし、それが思いもかけないたくさんの神秘に触れることになったのはうれしい誤算でした。

今回の体験は、自分をさらに大きく変える内容でしたので、これからはその体験をさらに探究する方向で進んで行こうと改めて強い決意に変わっています。
そのような思いもあって、今回からこのブログのカテゴリーを「生命意識に生きる」から「歓迎の光の門」に変更しました。
これまでとは少し違う観点からスタートしたいと考えています。

そして、一人でも多くの人が、この内的意識の「歓迎の光の門」の前に立てるように、ますます真理に近づいていける話をしていくつもりです。
今回私が体験したことをまとめて話すことはできませんので、少しづつ説明していきます。
また、これからは私の感じたままを書いていくようにしますので、すぐには理解しにくいことも多くなるかもしれません。

自分の意識のまま、振動のまま、そんな感じで書いていこうと思います。
なるべく分かりやすくということも考えないで進めて行きます。
真理の振動を感じ、意識の中であなたの真の世界が展開していくことを望んでいます。
私はこれまで、それは子供の頃からになりますが、不思議、神秘、霊的体験というものをたくさん体験して来ました。

その数は、今となっては分からないくらい多いのです。
これからもこの体験の中を生きていくしかありませんが、このような体験こそ真理に触れる唯一のものだと確信しています。
それについても、だんだん理解して行けると思います。
いま私は、時代も大きく変化したという気持ちでいます。

それは残念なことですが、これから先は悪い方向に向かって動く時代になったということです。
時代も変わりましたから、私も変わります。
そういう意味で、このブログも真理に直結といったものにしたいと考えているのです。

私の意識のままに書いて行きますので、言葉使いも、少しずつ変化して行くと思います。
現在の私はかなり厳しい意識状態になっています。
もう甘いことは捨てです。
これからは、涙が枯れるまで泣いても救われないかもしれない、そういう時代に入っていくだろうと読んでいます。

強い意識を持ちましょう。
自分と周りの人のために。
今回の集中で得たことは大変な神秘で言葉になりません。
ある面、もう時代が変わったのですから、私も必要なことはいろいろ教えていこうと思っています。

その前に、今回の超神秘に触れるまでに一つの流れがありましたので、それから入りたいと思います。
これは神秘体験ということになりますが、人間の意識の不思議神秘を知るためにも大事なことですので、「歓迎の光の門」はこの体験から始めたいと思います。
一部の人しか入れない、私の文を載せているサイトがあります。

しかし、今はそれには私の文は載せていません。
そのページに載せた文のタイトルの一つに、「歓迎の光の門」があります。
この記事を載せたのは、2009年9月になっていました。
それから、今回の体験まで約2年経ちました。
この記事を載せた後の2009年の12月頃から翌年の4月いっぱいまで、私は全意識がストップするような大きな壁の前で苦しい時間を過ごしていたのです。

そして、5月に入り、その月の初めに驚くようなインスピレーションを体験し、その波は今でも押し寄せて来ているのです。
私は、たった1年半の間に、けっして想像をすることも出来ないようなたくさんの神秘に触れてきたのです。
その体験の中でも、今回の体験はとても言葉に出来ないものだったのです。

そのようなこともあって、今回からこのブログも新しいカテゴリーでスタートしようと思ったのです。
まず、2009年9月に載せた文を転載したいと思います。
文章の前後は割愛し、また分かりにくい部分は少し書き直していますが、それは分かりやすい表現に変えただけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その時、私は何か違う感じに気づきました。
「何なのこの感じは!」
これまで感じたことのない、それこそ最高の感じがどんどん私に降りてくるのです。
降りてくる、降ってくる、浸透してくる、とにかくただやって来るのです。
それは、今日の今までずっと続いています。

今までの経験から、このくらい長く続けばもうこの感じが無くなることはないと思っています。
では、この感じがどういうものかを説明したいと思います。
はっきり言って、この感じは幸せとか喜びとか、また満たされているという感じではありません。

それを超えた感じでどう表現していいか、その言葉も何かの例えも浮かんで来ません。
自分の中では、それを「歓迎の光の門」というものに感じました。
その門の中にはまだ入っていませんが、それは二度と私から消えるものではないということも分かっています。
それはとてつもない安心感になっています。

その「歓迎の光の門」の感じを味わったとき、私は思わず「すべて終わった」と思いました。
その思いは、今も変わりはありません。
この感じは、いつも自動的に私にやって来ます。
「神の愛」でもいいかもしれません。

この自動的にやって来る感じに集中したとき、私は初めて気づきました。
「努力は要らない!」
あぁ!この本当の意味はこういうことだったのか。
「一体感!」
精神世界にあるこの言葉の意味も、違う!という感じです。

それは一体感ではない。
もう、そんな言葉も何かを目指す言葉もここには無い!
もういつでもいい!
それは、いつ死んでもいい、ということも超えている、表現出来ない「私がそうである」を目の前にした・・・

やはり、次の言葉は出て来ません。
もう、感じを超えた感じ、この世のどんなものを持って来ても表現出来ない意識と言うしかないのです。
もう私は、いつでもこの「歓迎の光の門」の中に入って行くことが許されている。
その奥から来るものと、いつもつながっている。

こんな感じでいつもいられることは本当にありがたいことです。
こんな感じでいられる自分が、この世のことをどう思っているか、それも言っておきたいと思います。
私は益々一生懸命やろう、もっと真剣にやって行こうという気持ちです。
物質界のことは物質的に意識を使ってこれから先も一生懸命やろうと思っています。

ゆっくりする気はありません。
さらに徹底的に自分の脳、意識の回路を広げて行くつもりです。
やるだけのことはやって、燃えつきて、その前に「歓迎の光の門」にも入って、それで終わりです。
それから次の界を意識で動きます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この文からは、かなり感動している感じが今でも伝わって来ます。
それから、半年以上経って、次から次へと不思議神秘的な体験、そしてヒラメキ、インスピレーションと、特に瞑想もしていないのにやってくるようになったのです。
それについては、一部このブログにも書いて来ました。

チャクラについても、このとき触れたと思います。
そして今回の超神秘集中ですが、これは前の体験のように自動的にやって来ることは同じですが、その質がまるで違うのです。
2年前の体験は、もう要らないというレベルです。
今回の体験は、私はかなりきつい体験だったのです。

それは、すべて自分の外側で進められる自動集中で、かなり高いエネルギーに接触させられていたのです。
私は今回の超神秘体験で、そのエネルギーの威力を知ったことと、それ以外にももっとすばらしいものを得たのです。
それは、さらに次なる世界がうっすら見えたことです。

もちろん、無意識の中でです。
これらの自動集中は、すべて私の無意識の中で行われたのです。
努力も何もない、何もしない自分が自動的にそれに同調させられていくのです。
私はこれで無意識がどういうものであるかをはっきり知ったのです。
前回の体験でも相当な思いに達し、これでいいと思ったくらいですが、上には上が永遠にあるんです。

私はこの2年の間に、本当にたくさんの意識的体験をしたのです。
そして今私は、「歓迎の光の門」の奥のほうに入っています。
これから、この体験を基にたくさんの真理の秘密のカギを、このブログに持って来たいと思っています。