真精神世界

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真精神世界(14)~心配 不安 恐怖のネガティブのワナ!(Ⅱ)2018/07/15 

人生の大きな障害となるのは、心配、不安、恐怖であるということは前回説明した。
恐怖は、心配不安の次に来るものであるから、恐怖に押しつぶされないためにしっかり理解しておかなければならないのが心配、不安である。
その心配不安というものの本質を理解しコントロールすることを覚えておけば、自然に心配という引っかけに意識を向けることはなくなっていくのである。

要は、心配不安恐怖を考える場合、不安をコントロールできれば心配は軽く処理できるようになり、また恐怖に対しても対応の内的反応がこれまでとは違ってくるのである。
こういうことで、今回は不安についていろいろ考えてみたい。
不安といっても、その種類や受け止め方や反応、また個人の生きる環境や経験や能力も人それぞれ違うので、誰にも適応できる不安克服の方法などはないのである。

しかし、様々な種類の不安であっても、それを克服するための基本的知識を理解することはとても大事なことである。
それは、潜在意識にも関係するので、不安をしっかり理解し克服していこうとすれば、どうしてもそれなりの意識の勉強は必要になる。
不安に悩まされるのを何とかしたいのは分かるが、基本的なことも知らないではその先に進みようがないのである。

これから説明することは、一つの不安に限定したことではなく、様々な不安に関係することになる。
限定した不安の説明ではないので、いろいろな説明が混じってまとまった文章にはならないと思うので、自分の参考になることだけに焦点を当ててもらいたい。
すぐに変えられなくても、不安というものは間違いなく減らしていけるのである。

人は、心配不安が押し寄せると、それを冷静に見も考えもせずにすぐそうなるのではと思い込んでしまうくらい、本当にネガティブに飼い慣らされていると言っていいだろう。
自分の力はどこにあるのか、それを意識することもなく、心配不安が起きたらすぐにそのワナに縛られ振り回されているのである。

その心配不安が、本当は間違っていたら、単なる思い込み考えすぎでは、またちょっと先走っていないだろうか、と考える人はどのくらいいるだろうか。
心配不安が湧き上がってきた時、人はすぐにそうなっていったら、そうなってしまったらという思いに入り、その反応に同調しすぐそのワナに取り込まれてしまうのである。

そのワナが不安そのものである。
あなたは、湧き上がってきた不安と自分の意識を分離させることができるだろうか。
不安は外、自分の中は冷静な意識として完全分離させることができるだろうか。
不安は、心配の延長で広がっていくものだから、本当は両方似たようなものである。

不安というものは、物的な視点で考えるよりは、意識的なことで考えた方が分かりやすいのである。
これはどういうことかと言うと、意識レベルで得た知恵を、物的不安に投影するだけで今言った分離が使えるようになっていくのである。
一般的に人は、不安が起こるのは普通だと思っている。

果たしてそうだろうか。
不安が誘導される前に何となく感じてくる心配とは何だろうか。
この心配となる因子を理解し、それを事前に潰していけば不安も減少していくはずである。
結局、心配のとらわれを減らすことが大事なポイントだと分ければ、そのためには何をすればいいかに考えが変わってくるだろう。

もう分かると思うが、すべての心配の原因は無智で未熟な自分自身にあるということに落ち着くだろう。
無智で未熟な自分自身を葬り去るには、意識の智恵しかないのである。
意識の智恵をつけて、それでもどうにもならないということがあれば、まだ智恵が足りないというしかないのである。

この世に、これ以外の心配脱出法があるのだろうか。
暗示や他のテクニックなどは、いつか終着点に達するのだから、その終着点は新たな心配のスタート点でもある。
私自身も今言った通りの自分だったから、それを実践することで変わったことを説明しているのである。

様々な心配克服法があるかもしれない。
今の説明だけでは気づかないかもしれないが、私は潜在意識に関係していることまで考えて言っているのである。
内的な奥から湧き上がってくる心配不安が何であるかその正体を見極められない限り、いずれは不安に追い詰められそれが潜在的恐怖に変わっていくのである。

潜在意識に潜在している恐怖は、潜在意識の中で他の自己意識に強い暗示力を発揮して影響を与えるようになる。
こうして人は、潜在意識からネガティブに支配され続けていくのである。
どんな善い意識の持ち主でも、この潜在意識にあるネガティブ性を超えない限りさらに上の意識段階には入れないのである。

牧師や僧侶、その他意識レベルが高いという人であっても、私はこの段階にある潜在意識のネガティブ性を感じ取って、その人の意識レベルを判断しているのである。
心配不安の関係が分かれば、心と意識の関係も分かるようになってくるのだから、心などいくらでもコントロールできるようになるのである。

このことは何も難しいことではなく、頭の良し悪しも関係なく、すべて意識の智恵の理解と実践で自分のものになるのである。
全体的に見れば、心配も不安も、心も意識も潜在意識も、これらすべては物的なものなのである。
目に見えなくても、物的なものは限界がある。

だから、これらほとんどのことは、自分の意識でコントロールできるものなのである。
程度の差はあるが、そこを知ればどうにもできないといった今の自分の思いなどは、いつか笑ってしまうレベルになるだろう。
要するに、意識の理解と智恵が少ないほど、人は心配不安に悩まされるのである。

不安は、自分の意識の中にあるスクリーンに映し出されるだけであるから、不安を映し出すスクリーンを消すまではいかなくても、映りが悪くすればいいのである。
不安のほとんどは実現するものではないということが分かれば、人はどんなに楽になるだろうか。

実現させるには、まず自分の中にはっきり映し出されなければならないのである。
それが、知らぬ間に潜在意識の中にということである。
知らぬ間にといっても、そういう意識があるからで、無いものは映し出されるはずがないのである。

ここまで分かっても、どうしてもそれを自分から外せないのが人間である。
それも、こうなる段階の理解の進め方や意識の仕組みを知らないということが大きな問題なのかもしれない。
これらのことが十分に理解できれば、意識全体の心配不安も悩み問題もすべて解決していける知恵を得ることになるのである。

すべて解決していける智恵というのは、その方向に向かって行く道でもある。
心配不安が本当に少ない自分、もしこれが実現していくならどれほど気持ちが楽になるかは想像できると思う。
現実世界は、心配不安と同居しているようなもので、人の中ではそれがごく普通となっている。

心配不安がごく普通にあっていいものか、それがどうして浮かんでくるのかをよく見つめてみると、自分の中の弱点に気づけるのはないだろうか。
実際に心配不安から解放される、それも自分でもビックリするくらい解放されるということは事実としてある。
しかし、そのようになるにも自分が納得できるように勉強しなければならないのである。

意識の勉強も、修行者の求めるレベルも、自分のネガティブを超えなければその先は無いと同じことである。
人のネガティブは、自動的に反応する不安というもので潜在意識からつなげられ支配されているのである。
そして、人の未来にしても、何もしなければこの不安から解放されるどころか、反対に次々と押し寄せてくるようになるのである。

心配不安の背後には、恐怖というものが控えていることまで誰も考えはしないもので、その状態に直面したときは、間違いなく心は凍り付くだろう。
これは脅しで言っているのではなく、そのような世界がだんだん迫ってきているので、あえて注意の意味で書いているのである。
これからの時代は、単なるネガティブから全く考えも想像もしなかったようなネガティブが展開していく可能性が大なのである。

どんなことでも知らないという原因は、過去世の中の深い混乱した意識にあるのである。

真精神世界(13)~心配 不安 恐怖のネガティブのワナ!(Ⅰ) 2018/06/15

心配不安恐怖は、人間にとって大きなネガティブである。
特に、恐怖は最大の障害である。
自己変革を通して意識成長を目指す者にとって、恐怖はともかく最初に心配不安を理解しこの支配から抜け出すようにしなければならない。
心配不安恐怖がない、湧いてこないという人は誰もいないのである。

確かに、何事を為すにしても心配不安はつきものである。
しかし、その仕組みを理解し少しずつ克服していかない限り、心から安心できる時間を持つことは難しくなるのである。
結論から言うと、心配不安は少なくても今の状態の半分以上は克服できるものである。

しかし、ただし、と次につなげて言わなければならないことがあるのだが、その克服できる説明は簡単にまとめられるものではないのである。
恐怖はともかく、心配不安というのはどうして自然に湧いてくるのだろうか。
心配は、先のことが分からない考えても自分では答えが出せない、という内的思いから心にじわじわ浸透してくるものや、急に押し寄せてくるものがある。

心配不安の種は人それぞれ違うものなので、ここでは原因ではなく心配不安が心の中でネガティブ展開していくことについて話してみたい。
恐怖に関しては、人生の危機や命の危険に直面したときや、またこれからそのような状態になっていくとはっきり見えたときに、何とも言えないような恐怖感を覚えるのである。

しかし、心配不安に比べると、恐怖というものは私たちの人生の中でそれほどしょっちゅう起こるものではない。
恐怖感を覚えるというのは、不安のレベルが大きくなった時にもそう感じるかもしれないが、それは本当の恐怖に直面しているとはいえないのである。
心配不安恐怖を詳しく説明すると、ネガティブの外し方の智恵に触れることになる。

しかし、それは相当な時間がかかるので、ここでは恐怖よりまず心配不安についての基本的なことを説明していきたい。
順序として、心配不安を理解できれば、その次は恐怖の克服の理解に進むことになる。
この逆はあり得ないのである。

心配不安の種類は多いが、ほとんどの人の心の中はたくさんの心配不安が交差していることだろう。
その種類や質は違っても、人が抱えている心配不安の基本的仕組みはほとんど同じようなものである。
この世はネガティブ世界であるから、物的世界の心配不安は絶えずその辺に転がっているといってもいいだろう。

このブログでは、個人の意識成長を目指しているので、心配不安も物的なことより意識に関係することに重点を置きたいと考えている。
意識レベルの心配不安が理解できれば、この世的な心配不安の解決法も分かるようになり、その智恵は今後しっかり活用していけるようになるのである。
心配不安を止めたければ心や意識を強くすることが大事だが、そう言うとまたそれができるかどうか、また心配不安が心によぎってしまうだろうか・・・

心配不安を克服する方法という前に、準備としての考え方の段階がある。
この段階ができない限り、心配不安の支配から抜け出すということは難しいだろう。
これは、潜在意識にも絡んでくることなので潜在意識から変えることでもある。
ただここでは、心配不安と潜在意識との関係性の深いところまで話すことはできない。

まず心配から入りたい。
ズバリ、心配はネガティブの投影である。
人はそのことを心配しているというより、まず心配ということに対して反応していることが多いのである。
心配の大きさによるが、それによって自分の内的イメージ、妄想的な反応で自らを苦しめそのネガティブ力に同調しているということである。

まず、落ち着くか冷静さが必要で、問題を客観的に見られる自分がいるかどうかである。
こうなるにも、どうしたらこうなれるかといった意識の説明も必要になるので、あらゆる問題解決に対応できる自分を作るということがどういうことかが気づけるかもしれない。

要は、冷静に見ることができるかどうかで、自分が対象を見ている中にどのくらいの事実と作り事(偽物)があるかを見極めることから始めなければならない。
それによって、自分の中から無駄な思いや考えや想像(妄想)を半分以上消すことが可能になるだろう。
いつの間にか自分が勝手に作った心配に心配して、どんな解決法があるのだろうか。

このことをしっかり理解し分ければ、心配がどういうことであるかも見えてくるだろう。
これは、基本の基本であるので、それ以上になると勝手に浮かび上がってくる心配の反応などを相手にしていられないとなるのである。
心配などしても、それは何も変わらない時間の無駄で、それより不安というものを何とかしなければならないのである。

人間は、この不安のレベルによって大きな心的ダメージを受けるのである。
それは、潜在意識まで占領してしまうくらい人にとっては重大なことなのである。
この不安の質や意識的仕組みは、霊的な面まで関係しているのでその内容を全把握することは生まれ変わりを止める条件を満たすことにもなるだろう。

簡単ではないが、これが人間意識を混乱させているネガティブで、この理解が進めば意識の中の霧はどんどん晴れていくだろう。
これは全部自分の中の問題であるから、社会のせい、誰かのせい、何かのせいと文句を言っているいるようでは、意識の中はいつまでも霧が立ち込めたままだろう。

自分の中のネガティブにだまされ続けてはならない、と言っておきたい。
心配不安は、必ず気持ちや心の中に嫌な感じとして湧き上がってくるのである。
その嫌な感じが自分の気持ちにどんどん浸透してくると、今度はそれが不安となってなかなか自分から離れなくなってしまうものである。
不安が印象付いて、長い間苦しんでいる人もいる。

前世からのネガティブ意識の引き継ぎも、今言ったことから考えることもできるのである。
ネガティブのワナは、不安と同調することによって、また次なる心配につなげながらどんどん連鎖させて広がっていくのである。
だいたいこのような繰り返しを許していると、心配不安はどんどん拡大していくのは当然である。

こうしていつの間にか自分が追い詰められていくと、それはいずれ恐怖に変わるだろう。
結局、その勝手に作り上げた自分の妄想の積み重ねで自らを縛ってしまうようになるのである。
すべてとは言わないが、このワナを少しでも止めることができれば、一つ前進していけるという自信がつくかもしれない。

大事なことは、それが現実や本物だと思い、それは間違いなくあると信じ込まされてしまうワナに気づくことだ。
どのくらい削れるだろうか、それでもいつの間にかはまってしまうのが人間である。
少しでもこの世的な心配不安から解放され、もっと明るく気持ちのいい意識で生きていけるようになるのは、どうにもできないくらい大変なことではないと知ってもらいたい。

こういうのも、人はこれまでずっと心配不安のネガティブに支配され、逃れられないように間違った意識につながれてきたからである。
心配不安は、ネガティブ観念の中にしっかり根付いているので、誰もこの正体を分かろうと取り組んでこなかったのである。
すべての心配不安をこのようなことで説明できるものではないが、しかしほとんどの心配不安は、このような内容から入っていけば解放や克服の理解が進むはずである。

本質的レベルで心配不安恐怖を探求していくことは、それは意識の勉強でもある。
高い目標を持った修行僧ですら、自己意識訓練はここから始めていかなければならない。
人間であれば誰にもネガティブがあるのだから、しなければならないことはみな同じだ。

心配不安、そして恐怖の波動がある限り、霊的な面では大きなブレーキになるのである。
人に一番多いネガティブは心配不安であるから、いつまでもそれがある限り思い通りの自分にも近づけず、援助の気づきもなかなかやってこないのである。


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コメント

私の場合 (T.M.)
2018-06-16 17:30:32
私の場合は夜中にやって来ます。目が覚めると同時にその時の心配不安が湧き上がります。
眠気は一気にさめ,次から次へと良くないイメージが浮かびます。一方冷静な自分もいますが
負けてしまい結局抵抗をやめ,後はネガティブの放出に任せてしまいます。
翌日明るい中で音楽を聞いたりしてると,昨夜を冷静に振り返る事が出来ます。
するとまるで
悪魔(?)の襲撃か何かの様だったと感じます。でも後日又同じ事を繰り返してしまいます。
でも間隔が長くなったり少なくなったりして来て,いつかは出なくなります。
安心も束の間で,暫くすると又新たな心配不安で同じ事が始まりますが…
これがワナなのですね!
先は長いですが[又始まった]と即笑い飛ばして外せる自分を目指したいです。

T.M.さん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2018-06-17 18:12:35
よく考えてみると、心配不安のほとんどはネガティブのワナといっていいかもしれません。
このワナを見破ることは、意識の勉強を通して理解していけます。
いかにネガティブのワナとなっているところまで、その原因のところに辿っていけるか、
そしてだどりつけるか、その程度がネガティブからの解放ということになります。
少しでも心配不安の正体が分かると、逆にうれしくなるものです。
謎解きみたいなところもありますので、ちょっと考えて進めてみてください。

反応しない自分 (反射反応)
2018-07-04 06:58:24
何か事があると必ず反応反射する自分がいる。
どこにいるときでもそれはある。
反射反応する枠を取り除き次の段階にいくなことが大切ですね。
ありがとうございます!!

ありがとうございます。 (F・H・S)
2018-07-05 18:48:53
人は、出来る限り自分自身を知るということが大切です。
そうすれば、自分を良く変えるところがたくさん見つけることができます。
反射反応するというところも、その一つです。
知識を集め覚えることではなく、自分を良く変えていこうとすることが一番の勉強になります。
がんばってください。

真精神世界(12)~潜在意識はどうなっているのか! 2018/05/15

「潜在意識とは」と聞くと、ほとんどの人はすぐに答えられないだろう。
ちょっと潜在意識の知識のある人は、「氷山の一角」の例を出したり人の意識の奥にある潜在的能力の例を出したりするかもしれない。
他では、願望実現に結びつけて潜在意識を説明しようとする人もいるだろう。
潜在意識を理解するというのは、本当に難しいことなのだろうか。

潜在意識は、物的意識の根本となるようなものであるから、人間意識に関係することはすべて潜在意識にある。
ということは、潜在意識を説明するには様々な角度から、それも分野を大きく分けて一つ一つ説明していくしかないのである。
潜在意識は物的人間意識のすべてを含んでいることを考えると、これは当然なことである。

もし、私が「潜在意識とは何か」と聞かれたら・・・
私は「潜在意識はネガティブの倉庫」だと答えたい。
こんな回答は、潜在意識の説明にもなっていないと思うかもしれないが、本当に私が早く何とか理解克服しなければならないと思ってやってきたことである。
実際、ここが潜在意識を知る最も基本的で大事なことだと考えているのである。

今回は、この内容について説明していきたい。
まず、潜在意識について一部のことを人に話しても、ほとんどしっくりこないだろう。
潜在意識について話すには、それなりの順序と理解の段階がある。
だから、時間がかかるのは当然で、それをしっかり進めていく人だけが潜在意識を理解できるようになると思っている。

潜在意識を表面的に分かっていこうとする人は、最終的に潜在意識にあるネガティブに潰されることになるだろう。
これが潜在意識の深さであり、潜在意識にある混乱したネガティブ性でもある。
だから潜在意識について、しっかり知ることが大切なのである。
潜在意識は人の意識のすべてに関連しているのであるから、潜在意識をしっかり理解していかない限り、いつまでも迷い悩み続けることになるのである。

意識の勉強はいろいろな分野があり、入り方も様々である。
しかし、意識の勉強の一番大切なポイントは、潜在意識を知ることにある。
ここを少しでも理解できない限り、次の段階はいつまでも遠くに感じるだろう。
一般的に知られている潜在意識と、私が理解し超えてきた潜在意識の内容は大きく違うと思っている。

以前、どこかで書いたが、この世の潜在意識の知識などを考えていると、意識成長がどんどん遅れていくと私は感じていた。
潜在意識は、人が思っているほどすばらしい能力があるのではない。
心が想念の入れ物であると同じく、潜在意識も全体的物的意識の入れ物なのである。

自分の潜在的能力を開発したいのなら、潜在意識の先につながる回路を理解しなければいつまでも観念世界の中に縛られるだろう。
もし、潜在意識にはすばらしい能力があると信じ活用している人がいるとしたら、その人は相当なポジティブ意識の持ち主であるとなる。
何故なら、そのような回路が開いていない限り潜在意識を使うということはできないからである。

波動振動の法則、霊的法則、神の法則に反して成立するものは、この世には一切ないということもしっかり理解すべきである。
ほとんどの人はネガティブ意識であるが、それは悪的人間という意味ではなく、心や潜在意識にネガティブの思いをたくさん持っているということである。
では、普段人が発するネガティブはどこから来るのか・・・

それは潜在意識からである。
人の自分というほとんどのことは、潜在意識から動かされているのである。
その潜在意識の中にたくさんのネガティブが入っていれば、人は自然にそのネガティブを思考や行動に反映するしかないのである。
逆に、潜在意識に入っているネガティブが少なければ、これも自然にポジティブ的なことを反映するようになるのである。

これまで何度も言ってきた、自分のネガティブを知りそのネガティブを外していくことは、最終的にこの潜在意識にあるネガティブを外すということになるのである。
難しいかもしれないが、ここを何とか理解し深く見つめない限り、自分の意識成長が自分では進んでいるように感じても、それほど大きな変化がないということもある。

こう考えると、潜在意識にネガティブをたっぷり抱えているのに、どうして自分が描く都合のいいことを潜在意識にインプットすることで変わるのだろうか。
1,2度うまくいくかどうかではなく、ずっと継続するものが大事なのである。
人の潜在意識は、圧倒的にネガティブが多いのである。
ネガティブそのものが潜在意識と言ってもいいだろう。

人はいくら努力しても、自分の思い通りの意識成長やすばらしい意識の実現になかなか結びつかないのは、この潜在意識に入っているネガティブが邪魔しているからなのである。
人の最大の障害がネガティブである。
潜在意識の次の意識段階が無意識であるが、この無意識から2つの回路が広がっているのである。

その一つはポジティブ側で、もう一つはネガティブ側である。
ネガティブ側というのは、死後の世界や過去世である。
ポジティブ側というのは、真理、神世界のことである。
人はこの神世界の回路を開くことが最も大事なことであるが、一般的にはほとんどの人はほんの少ししか開いていないか、また開くにも理解と時間がかかるのである。

何故、回路を開くのに時間がかかるかというと、人の潜在意識には相当量のネガティブが入っていて、人はそれによって完全に支配されているからである。
ネガティブに支配されていれば、当然ネガティブ側の回路が開きやすくなるので、過去世からのいろいろなネガティブが潜在意識に入って来ることになるのである。

それを知らずに、そのネガティブを顕在意識で今の自分と思い込み表現しているのである。
この大きな意識の仕組みは、自分のした事はいずれ自分で受けるということにもつながるのである。
だから、それをこれから変えていかなくてはならないのである。

何もしないで、自分のネガティブが都合良く変わるということはないのである。
平等公平が神の法則であるので、この法則は人間一人一人が公平に受けることになる。
都合良く変わるとしたら、もう神の法則など無く、神は無いとなる。
しっかり自分の潜在意識をポジティブ性に変えていくこと、またネガティブを外していくことが、芯から自分が変わっていくことになるのである。

何もしなければ今の延長で来世に向かうだけである。
人の生き方は、すべて潜在意識に記録されているのである。
同時に、その記録されたものが自分を支配しているのである。
ほとんどの人の人生も過去からの意識の引継ぎであって、その中身のほとんどはネガティブ性が多いということである。

自分の人生を過去世の意識のままに生きていくのか、それともネガティブをポジティブに変えて自分の人生を新しく創りあげていくのか、この違いだけである。
神につながる方向は、これだけを考えてみてもそんなに難しい内容ではないのである。
もちろん、このような自分自身のネガティブを外していくというのは、そう簡単ではなく大変かもしれないが、それでもやらなければならないのである。

時間がかかるというより、時間をかけるしかないのである。
誰も自分の代わりにやってくれたり、また全面的に助けてくれたりする聖者もいないのである。
結局自分のことは良くも悪くも自分で変えるということが神の法則だということである。

いつかは受けなければならないし、また変えなければならないのである。
それを分かっていながら何もしないというのは、目覚めのためにいつか大きな苦悩に遭うのである。
それが目覚めのチャンスであるのかもしれないが、この内容を理解できれば少しずつ進めていった方が、その苦悩が少なくなるか、または遭わずに済む可能性がある。

苦悩に遭わないというのは、輪廻転生にストップをかけるということでもある。
意識成長、または潜在能力開発について人はいろんなことを考え試すかもしれないが、そんな簡単なものではないということはこれで分かったと思う。
どんな人も、しっかり一つ一つネガティブを外しレベルアップしていかなければならないのである。

本当に地道なのである。
私も同じである。
この勉強に入るまでは、みんなと同じくネガティブだらけの人間だったが、それを全部地道に変えて来ただけである。
私は、自分にあるほとんどのネガティブは変えたと思っている。

結果的に、ネガティブを変えていくと同時に、ポジティブ化した分だけ神側の回路が開き始めいろいろな善いものがやって来るようになったのである。
このような努力によって神側からやって来る善いものを、私は魂の援助と言っているのである。
これは何か特別なことをするわけではなく、自動的にそうなるだけなのである。

この自動的にそうなるということが、神の法則であり、誰でも努力すればそのようになるのである。
私だけが特別なことをやってきたのではなく、地道にやってきただけなのである。  
私が信じてやって来れたのは神の法則を知っていたからで、誰でも努力すれば必ず智恵となるものは自動的にやってくるということである。

神の法則はえこひいきなど無い、また元々自分が原因を作っていないものを結果として自分にやって来るということもないのである。
自分が原因を作ったものだけが対象であるから、だから平等公平なのである。
潜在意識の内容はたくさんあるが、今回は潜在意識はネガティブだということを説明してきた。

人生でやらなくてはならないことは、自分のネガティブ性を外すということである。
それを何百年が何千年前にやってる人は、もうすでに神の世界に入っているのである。
人に与えられたことは、みな平等である。

善いことも悪いことも、その結果はいつか必ず自分が受けるのである。

真精神世界(11)~人は神についてどこまで知っているのか!(Ⅱ) 2018/04/15

何故、人は神についてより深く知っていくことが困難なのだろうか。
それは、この世の知識だけで近づいていこうとするだけで、神に対する意識といって自分の素直な思いを使わないからである。
そうなるのも仕方ないが、人はそのようなことを教わってこなかったというのもあるが、それより神の中に触れていく言葉の意味があいまいというのも大きい理由である。

神の世界に近づいていくには、その世界に通用する言葉の意味を知らなくてはならないのである。
そして、その言葉の意味が、だんだん自分の意識にならなければ接点ができないのである。
人が普通に使っている言葉も真理意識で使う言葉も、表面的な言葉は同じである。

しかし、神世界に近づく段階において、その中に含まれる言葉の意味は全く違うのである。
知識で知っている言葉の意味で、神様仏様と祈っても何が変わるというのだろうか。
こんな程度のことなら、やらない方がまだましと言えるだろう。

何故か分かるだろうか、この程度でもやらないよりやった方がいいのではと思う人もいるかもしれない。
やらないよりやった方が良いということにも、その後の影響を考えた場合大変なマイナスになることもあるので注意が必要である。
私はこの点を徹底して通してきたのである。

それは、大して意味のないことを一生懸命やって、それがしっかり潜在意識に刻み込まれてしまってもいいのかということだった。
潜在意識というと、願望実現しか頭に浮かばない人もいるかもしれないが、実際に潜在意識が心身にどのような影響力を持っているかまでは、ほとんど気づいていないだろう。

はっきり言うと、私は人が神を求める気持ちは何なのか分からないのである。
それは、神はあまりにも遠く、想像を絶するものだからである。
神が何であるか少しでも分かるために私が求めている段階が、聖者意識なのである。
人類にとって、聖者意識は最高レベルの到達点であるから、ここを目指すのはすべての始まりだと思っているのである。

だから、その他のことなど私にとっては大して価値のあるものではないと思っている。
ただ、このような思いで段階を追って進んできたら、今の意識になったということである。
今の意識になって神がどの程度分かったかと言うと、神のことはまだいいというだけで、まだまだ聖者意識と魂意識の一体化を目指す段階である。

その他分かったことは、この世は余計なことが本当に多いということで、価値のないことがほとんどだということである。
神を思う前に、人はやることが山ほどある。
神を思うことは、何を求めてのことなのだろうか。
その思いに、自分のすべてをかけられる絶対性があるのだろうか。

求めるということは、一つの行為であるからその思いの奥に本当の自分がいるだろう。
その奥にある自分の思いが、単なる欲がらみでなければいいのだが、大体は何らかの欲が絡んでいるものである。
そんなものはないと言っている人でも、自分の無意識まで分かっているのだろうか。

祈りにしても、神に意識を向けるにしても、相当なことを準備しなければほとんど無効だと思ったほうがいいだろう。
こういう訳で、私は誰かが言っている神の話などは、ほとんど無視しているのである。
誰も、また宗教家であっても、神のことなどほとんど知らないのだから、余計な話は聞く必要もないのである。

意識の世界、真理の世界、霊的意識の世界は、ほとんどの人が知らない世界である。
精神世界や宗教やその他様々な本で、この世界のことを説明しているものはたくさんある。
しかし、それを説明する言葉、それだけではなく共通として通じ合える意味の持った言葉は本当に少ないのである。

意識の世界は、この世の言葉の意味で理解できるものではないということに早く気づけると、自分を大きく前進させてくれるだろう。
聖書やスピリチュアル系の本に書かれてある、直接神に関係する言葉もあるが、それをいくつか知っている人もいるだろう。
どのようなことを言っているか、その言葉を読むと実にシンプルなのでほとんどの人はその気になってしまうものである。

シンプルなほど人は簡単に思ってしまうが、シンプルとは多くの要素を調和的に凝縮した結果なのである。
真理として、たくさんある言葉の中で一つ例を出してみたい。
例えば、「あなたの思いをすべて神に向け、あなたのすべてを神に任せ祈るならば、その祈りはすぐに叶えられるだろう」といった言葉がある。

この言葉通り、一人静かになって、自分の中に入り、一心にこのような思いに集中し何か大きなヒントがくることを期待した人もいるかもしれない。
しかし、ほとんどの人は期待通りにそれは実現しなかっただろう。
何故だろうか、このように書いてあることがウソなのだろうか。
もし、そのように書いてあることがスグに実現するなら、今頃人類は滅亡しているだろうと言っても納得できるかもしれない。

聖者が言っている祈り方でも、実現しないのは何故なのだろうか。
答えはただ一つで、それは神を知らないからである。
神を知らないからと言うと、またすぐにこの世的な考えに戻るのではないだろうか。
これまで言ってきたとおり、誰も神のことは知らないのである。

しかし、神が作った次元世界や属性や法則と言ったものは、今はっきり知らなくてもこれからどんどん近づいていくことは可能なのである。
神を知るというのも、観念的に神は一つとして現れているとか超人格的存在と考えているようでは、神を知る初歩にもなっていないのである。
もう一つ、「あなたと神は一体である」「心を尽くし、思いを尽くし、全力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ、神は愛なり」という言葉がある。

この言葉の理解を通じて神とつながることで、人は救われるとある。
本当にこの言葉を通して、自分が救われることはあるのだろうか。
また、このように何事も神の御心に同調するなら、神はあなたの願いを叶えてくれると書かれている。
そして、人はこのような言葉を何とか理解しようとし、また心を込めて祈り続けるがいつまでも何も変わらないことに気づくのである。

一部のスピリチュアル関係者は、「私たちが真剣に願うことは、必ず神が聞いてくださると知れば、神に願ったそのことはすでにかなえられている」というのである。
しかし、その通りにならないことを信じ込まされている人は、反対に疑心でどうしていいか分からなくなっているのである。

祈りが通じないのは何故か、どうして神は聞いてくれないのだろうか。
こうして、人はいつもこの原因を神に向けるだけである。
結局、神なんかあるものか、神なんかいないのだ、と決めつけてしまう人もいるかもしれない。
神が人に何もしないのは神に責任があるのではなく、そうさせない自分の意識に問題があるということをいつ気づくのだろうか。

初歩的、基本的なところのつまずきに気づかない限り、同じようなことはいつまでも続くだけである。
輪廻転生がその答えである。
人が神と言っている意識的位置がどの位置なのか分かると、人は神になど全く触れていないということがよく分かるだろう。


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コメント

本当にすべきこと (yumi)
2018-04-17
いつも気づきの多い内容をまとめていただいて本当にありがとうございます。

正直に言ってしまうと
"わかったつもり"になっていることとすべきことの狭間を手探りで進もうとしていることがほとんどではないかと思います。
しかしながら心から願えば、
真に求めていることならばきっと前へ進めると思いますので
まずは自分のネガティブをひとつづつ克服するよう心がけています。

文中にあった、

 -大して意味のないことを一生懸命やって、それがしっかり潜在意識に刻み込まれてしまってもいいのかということだった。

これは、大きな気づきとなりました。
私自身のみならず、周りにいる人たちにもぜひそれをわかってほしい、
そしてなぜそれがダメなのか、きちんと説明できる自分になれるようさらに努力していきます。
いつもありがとうございます。

yumiさん、ありがとうございます (F・H・S)
2018-04-18
自分の潜在意識まで考えられるようになると、気づきにも大きな変化が表れてくると思います。
物的な満足のために潜在意識を考えると、そこに必ずネガティブ性が絡んできますので注意していきましょう。
そうしたらどうなるか、それも潜在意識の影響を受けることになります。
良い方向で活用できるように、がんばって勉強してください。

真精神世界(10)~人は神についてどこまで知っているのか!(Ⅰ) 2018/03/15

人が心の底から神を恐れないのは、本当に神がどういうものかを知らないからだろう。
人が心の底から神を求めないのは、本当に神がどういうものかを知らないからだろう。
では、人は神をどこまで知ることができるのだろうか。

また、人は神をどのように求め近づいて行けばいいのだろうか。
神を知るということは、神の何を知っていくことなのだろうか。
神の概念は時代と共に変化し、現在は過去の時代より神の概念も拡大しているだろう。
どんな人も神を理解したいという真摯な思いやまた近づきたいという願いの強さは、そのまま自分に返ってくるというのが神から人間に与えられた真なる答えである。

神のことをどの程度知っているかは、人それぞれの問題ですべては自分に顕現する神の表現で決まるのである。
神に近づく思いは宗教を通す必要もなく、また誰かと同じ方法である必要もないのである。
自分が神を思う真剣さを分かるのは神だけであることを知って、自己意識を神に向けて純粋化するだけである。

人が神を思い、見つめることのできる神は、感情から出てきたものがほとんどである。
神は感情など知らないのだから、そのような思いがあっては神に届く訳もないのである。
人類は、宗教と共に長い歴史を歩んで来たといってもいいだろう。

しかし、神については本当のことを何一つ明らかにされていないのである。
いやその逆かもしれない。
人間が、神を知ることを間違った方法でやってきたというのが本当かもしれない。
それは、釈迦やイエスの真の教えを受け止めず、これまで間違った神を教えられその中で求めてきたのかもしれないのである。

私はこの勉強をするまで、神について何も知らないどころか神のことなど考えたこともなかったのである。
そんな無知な自分でも、人間意識と神意識の智恵に触れたことで完全に目覚めたのである。
私は、そのような間違った教えからサッサと抜け出し、自分なりに神に向かって探求して来たのだが、今そのことのすべてを考えてみても大正解だったと思っている。

本当の神についての理解が積み重なっていけば、人は苦しみの中に置かれるはずはないのである。
間違いを受け入れそれが本当のことだと信じて生きていれば、いづれその間違いを表現するようになるのは当然なことである。
間違った意識であれば、それは自分の中からネガティブとして表現されるしかない。

苦しんでいる自分を誰かが慰めてくれたとしても、真に自分の意識の間違いを正さない限り、その苦しみから本当に解放されることはないのである。
暗示をかけ、その気になり、やさしいきれいな言葉にだまされその時解放を感じだとしても、根が間違っていればそのネガティブ性はまた復活して自分を苦しめるのである。

本当の神はどういうものかを知らなければ、間違った自分の意識からはいつまでも抜け出すことはできないのである。
神と人間の意識はどこまでもつながっているのであるから、神意識から分離している間は必ず苦悩に直面し苦しむことになるのである。
人が自分と分離しなければばらない意識はただ一つ、それはネガティブ意識である。

神がネガティブ意識まで受け入れてくれるというのは、神の超神性原理上あり得ないことである。
人は、本当の神が何であるか分からなくても、絶対的無限としての一つの神として考えているのかもしれない。
創造神に至る神世界には段階があるのだから、絶対神的な神だけを見ては決して神を理解していくことはできないのである。

要は、神でないものを神として見るなどは、単なる空想にしか過ぎないのである。
間違いはネガティブである。
そのネガティブ意識を持って、どうやって神に近づこうとするのか、それでもそんな方法がどこかにあると信じているのだろうか。

もしかしたら、どこかに何かあるかもしれないといった人間の淡いむなしい期待は、悲しいことだが誰にも心のどこかに潜んでいるのかもしれない。
そんな思いをあきらめきれないのは怠け心があるからではなく、だましの歴史である輪廻転生の中を疑うこともなく生きて来たからである。
私もそれにだまされた一人であるが、今はそれが全部ウソだということを完全に知った。

ここでまず、簡単に言えば、ウソの反対は本当ということである。
それは、この世の観念的なウソホントの範囲ではなく、観念か真理かで考えていくと何かヒントを掴めるかもしれない。
私たちは、神を知ることは難しいとがっかりすることはないのである。
神を知る方法として、誰もができる一歩はこの世と人間の間違いを探していくことである。

よく考えてみると、どちらが早く神を知る準備になるだろうか。
一つは神を知る努力で、もう一つは人間意識とこの世の間違いを徹底的に知っていくことのどちらかしかないのである。
当然だが、この二つは同時進行でやっていくことが一番望ましいことである。
それでも、比重は後者に焦点を当てた方がいいのである。

その理由は、長い間それに付き合っていられるからである。
神を知る努力は、途中でどこを見ていいか、その壁は挫折レベルになるだろう。
神を知っていくにも、ちゃんと段階があるのであるから、焦ること自体むなしさを背負って回り道をするようなものである。
これについての詳しいことは、超拡大意識の中でしっかり説明することは可能である。

それを理解するには、このような初歩的なことの範囲である神について本当のことを知らなければ、さらに深い話など聞くことも耐えられないだろう。
神を知っていくことが自己解放である。
その理解の程度によって、自己意識が向上し変化していくのである。
その段階は、これまで随分説明してきた通りである。

神に近づくことで、一番分かりやすい方法は、自分のネガティブを外すことにすべてがかかっているということをしっかり自覚することである。
それが分からない、その段階を追って向上していく方法が分からないから、最初に自分の意識をよく知ることが必要なのである。
そうは言っても、自分の意識を知ることも大変に思うだろう。

本当に人は自分のことも知らないのだから、神が何であるかなど分かるはずもないだろう。
神、神という前に、そういう自分をしっかり見つめてもらいたいと思う。
人はすべての基本であることを初歩から始めなければ、それが何であるかはっきり分かっていくことは難しいのである。

自分のネガティブを自分の中から外していくことは、真に自由になることである。
同時に、本当の神というものを、どういうものかを知っていくことでもある。
神の中のすべて、人間意識と神意識のつながりが分からなくて、どうやって神を知ることができるのだろうか。
この意識を理解することなくて、どうして真理に入っていけるのだろうか。

真精神世界(9)~思考の世界と意識の世界  2018/02/15

このブログで度々出てくる意識成長というのは、神意識や神の世界に近づく意識の段階を言っている。
この意識成長の段階は当然神方向への上昇の道になるが、その道を通るときに見える景色は様々である。
一つの顕現に限定されたこの世と比較すると、意識成長の過程の話をしてもすぐには受け入れられないかもしれないし、またどう理解していいかピンとこないかもしれない。

これが思考の限界である。
思考の限界を通して、思考の限界を真に知ったときから、人は意識の世界を意識の中で意識していくようになるのである。
何となくこんがらがった表現になるが、意識の世界の感じはこう言うしかないのである。

意識の勉強もだんだんレベルが上がっていくと、いずれはこのようなことに直面することになる。
そのときが訪れれば、それがはっきり分からないために一時的に考え悩んでしまうだろう。
この内容は、今回だけの説明で理解できるというものでもないので、形を変えて今後も説明することになると思う。

当然であるが、思考の世界以外は潜在意識を超えた世界の話になるので、取りあえず頭の隅にでも置いておく程度でも構わない。
精神世界や宗教を通して、人の意識やあらゆる世界のことを知る勉強をしている人は多いが、たとえこの世にある知識をすべて知ったとしても満足など得られないだろう。

逆に、一層心の重さが強くなる可能性がある。
これが到達への障害の答えであるが、その答えの中が意識段階の経過の中にある。
それは、早い遅いということではなく、それに気づくのはどの段階でも可能である。

これが思考の世界と意識の世界という説明の中にヒントがある。
スグに理解できる内容ではないので、これからは意識を意識するか意識に注意を向けることがその理解の一歩になるだろう。
意識の世界が分かれば、当然「無」ということも分かるだろう。
精神世界や宗教を超えたところに、その意識の世界があるのである。

いつまでも精神世界や宗教の中にいると、思考の世界から抜け出すことができないだろう。
思考の世界と意識の世界ということを、まず思考と意識の違いから見つめ分離をかけていく練習からしていくといいだろう。
時間がかかることは当然なことで、すべては自分の意識成長のためであるのだから苦になることもないだろう。

まず、思考の世界と意識の世界を大ざっぱにその違いだけを並べてみよう。
思考の世界は観念の世界で意識の世界は神の世界である。
思考には限界があり意識は永遠に展開していく。
思考の世界は低級世界であり意識の世界はそれを完全に超えた世界である。
思考の世界には真の答えなどはないが意識の世界は意識で感じること自体が答えである。

思考の世界は思考自体に時間がかかるが、意識の世界はそのときが今である。
思考の世界を切り替えるには時間がかかるが、意識の世界は切り替えは瞬時である。
思考の世界には言葉が付きものだが、意識の世界は言葉は要らない。
思考の世界は低級振動だが、意識の世界は高級振動以上である。

思考の世界は相対だが、意識の世界は一で真理である。
思考の世界は非常に狭く窮屈な世界だが、意識の世界は永遠に向かって拡大していく。
思考の世界で言葉を繕うとする哀れ、それから解放されるのは意識の世界である。

思考の世界で思い考えることは、心の中でその反響を聞くのみである。
意識の世界で意識することは、意識の世界にある様々な感じに触れることである。
思考の世界の愛と意識の世界の愛は違う。
思考の世界は無だが、意識の世界は有である。

思考の世界は有であるが、意識の世界は無である。
この見方は、意識が自覚する位置によって変わる。
思考の世界は、思考のワナにはまればネガティブになっていく。
意識の世界は、意識が意識に気づくほど神の意識に近づく。
思考のワナにはまるという結果は、輪廻転生の世界に生きることになる。

意識の世界に入れば、永遠の神の世界で神との一体化の同調意識に入る。
思考の世界で認められのは才能、学歴、地位などである。
意識の世界で神(魂)から認められるは、意識の純粋さのみである。
思考の世界の愛は、限界の中でしか認められない愛である。
思考の世界での純粋さは、おバカか扱いやすいといったレベルで見られる。

意識の世界での純粋さは、神の子として認められる。
思考の世界で「愛」についてどんなに考えても、「真の愛」などに触れることはない。
意識の世界では、「真の愛」の世界につながっていく。
愛の段階も、意識の段階によって、また意識の質によって神の愛を知っていくことになる。

思考の世界では、人間の物的向上能力に大きな価値を与えている。
意識の世界では、人間の物的向上能力は無に等しく価値はない。
思考の世界では、不可能という言葉がありそれで自分を限定し、限界意識を作る。
意識の世界では、不可能という言葉そのものがない。

霊的拡大意識が、真の愛を理解しその愛意識になっていく段階でもある。
思考の世界は、人の意識を小さい意識世界(物的)の中に閉じ込めようとする。
意識の世界は、永遠意識として拡大していくしかない。
思考人間は偉大でも、神の子レベルではない。
霊的意識段階に入った意識が、神の意識に気づいてもらえる。

人は、人間で生きていこうとすれば、いつまでも意識の世界には入れない。
人は、自己の魂に近づいていくことで意識の世界に近づく。
まだまだ、意識の中から出てくる言葉はあるが、これだけでも思考の世界と意識の世界に大きな違いを感じられるだろう。
意識の世界に入るには、それなりの段階を通るしかないのである。

私がこのブログでこれまで話してきたことは、結果的にこの意識の世界に入るためのものである。
ここまでで十分といった意識成長などはないのである。
ここで勘違いしないでほしいことがある。
私は思考の世界がダメだと言っているのではなく、いつまでも思考の世界にいてはいけないと言いたいだけである。

意識の世界を自覚できるようになるまでは、それこそ考えに考え抜くまで思考をしなくてはならないのである。
何故なら、人は思考を抜きには何かに気づくということができないからである。
思考の世界が何であるかはっきり分かるには、思考の世界の限界を感じるまで思考すれば分かるのである。

また、不思議体験として意識の世界に触れたからといって、それで意識の世界が何であるかまで分かることもないのである。
その意識の世界は、理解によって気づくのか、それとも限界を感じたあきらめによって気づくのか、それとも何かの究極に触れて気づくのか、おそらくこの中のどれかで気づくしかないだろう。

それは神の世界に触れることであるから、曖昧やその気になることではあり得ない。
それは時間をかけてイメージして入ることでもないのである。
そこに入るのは、すぐに、一瞬で可能であり、そして何もなく黙っていてもそこである。

知ってしまえば、こうであるという世界である。
知ってしまえば、何でも普通の世界である。
しかし、それまでは努力が必要である。
努力は大変なことではなく、知るために必要なことをするという意味にとればいいだろう。

すべては自分の内から変化するのである。
神(魂)は関係ない、それは努力の跡である。
まず、先に自分が変わらなければ、始まりはないのである。
そして、ここがスタートラインではないのである。
スタートラインに立てるのは、ずっと後、自分の努力が実を結んだ時である。


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コメント

それは努力の跡 (Osaki)
2018-02-23 16:26:35
すべては自分の内から変化するのである。
神(魂)は関係ない、それは努力の跡である。
まず、先に自分が変わらなければ、始まりはないのである。

自分の内からの変化、先に自分が変わらなければ・・変化、変わらなければの中身、どう変わればいいのか、変わるためにはどうずればいいのかを思考するにも、直ぐに手に入れたい、到達したいといった我の企みの罠で繰り広げているのか、それとも、そのために必要な思考の仕方でしっかり考えて実践へもっていくのかでは、見事に雲泥の差だなと痛感します。
自分を過去に沈みこませる、自分にとって本当にきついネガティブの軸にようやく気づき、その軸を中心に勝手に動かされてきた意識の自分という、その一部始終の全容を把握できた時、あっけなく「何を自分はやっていたのやら?」とスッカラカンな自由さを感じました。
そして、自分が本当に変わるというのは、どれだけ知識を集めても、それで格好をつけていても、この克服なくしては無理な話だったのだと、何があっても自分のネガティブ外しに取り組んできて正解だったと、腹の底から感じました。
私にとってこの経験は「素直さ」につながっています。
素直じゃなかったので、今はその素直さが「意識の世界」に入るための味方をしてくれいているように感じています。
始まりに立つために、がんばります。

Osakiさん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2018-02-24 19:01:23
良い気づきです。
何より、「素直」が分かることが大事です。

真精神世界(8)~人の願い(祈り)は、果たして神に届いているのだろうか・・・ 2018/01/15

ここでは個人の物的な願いが神に届いているかどうかを考察するのではなく、人の意識向上との関係で神への祈りが本当に届いているかどうかについて私の思いを述べてみたい。
精神世界や宗教では、神に対する深い理解や信心が絶対必要ということは求められないので、神に祈ってもそれが叶うかどうかを真剣に期待している人は少ないだろう。

祈りの中に、実現の可能性に全く疑いを持たずに祈っている人はどのくらいいるだろうか。
意識向上を目指す者は、できるだけ早く成長するために何らかの願いを神に向けるか祈るかするだろう。
その方法は人それぞれであるが、間違いなくその結果は受けているのである。

少しでもその結果を実感できればいいのだが、ほとんどの人は全く分からないと言って、自分の神の祈り方を疑い、常に本当の祈り方を探しているのである。
自分の意識向上だけでなく他の願いも含めて、神に対する祈り方はたくさんあるだろう。
神社やお寺などは当然で願望実現系やその他あらゆる分野にある願いを叶える祈り方などを考えると、調べた人はいないと思うがとんでもない数の方法があるに違いない。

もし、神に届く本当の祈り方があるなら、その他は全て間違った祈り方になるのである。
このように考えると、ほとんどの人は間違った祈り方をしているとなるはずだ。
一般レベルの祈り方とは違って、今度は少し高いレベルの祈り方が載っている聖者方が登場する本の中では、どのような祈り方を教えているのだろうか。

ここではその内容を一つ一つ書いていくことはできないので、まとめて私がやっている祈り方を話してみたい。
以前にも私の祈り方を書いたことがあるが、ここではどうしてそうするかに触れてみたい。  
よく祈り方で瞑想を使う人もいると思うが、瞑想は祈りの場ではなく瞑想は瞑想である。

瞑想と祈りは完全に切り離すべきで、瞑想を祈りに使う場合は、それは祈りのための集中として別にした方がいい。
私が確信している祈り方は、特別な方法で祈ることではないのである。
私の祈りは自分の意識そのもので、それは毎日である。
そして、特別なことで祈るときは、潜在意識に集中しその意識の中で無意識の方向にその思いを浸透させていくのである。

祈りの言葉などはない、ただ祈る思いの意識があるのみである。
一切何もない無の中でその意識に集中するのみで、これにかかる時間は数分である。
神から見れば、私たち人間の意識はすべて知られているのであるから、いつまでもぐだぐだ祈り続けることは逆に神を信じないネガティブ行為だと私は思っている。

このような祈り方は、一般的に知られている祈り方とは全く違うことに気づいた思う。
ここで大事なことは、私がどうしてこのような祈り方をするかである。
当然、これには重要な意味があり、それをしっかり理解して行っているのである。

その理解とは、人間意識の理解、魂意識の理解、神の理解、法則の理解などである。
これだけでも、一般の祈り方とは全く違うものだということは分かると思う。
祈り方の意識と実現の可能性を考えれば、これだけではまだまだ不十分である。
しかし、それでも一般の祈りよりは比較にならないくらい実現性が高いのも事実である。

「自分の意識そのものが祈り」、これはどういうことかを説明してみたい。
簡単な比較で自己意識向上を祈る場合を考えてみると、ネガティブな人とポジティブな人、そして真理の中にいる人では、どの人の祈りが叶えられる確率が高いだろうか。
神意識に近いのはどの人かである。

それは知識の量ではない、思いの強さでもない、また真理に向かってがんばっている量でもなければ苦悩の量でもないのである。
もっと言えば、信心の強さでもないのである。
大事なことは、真剣に神に向かっている者は、自分の意識からもう「信じる」という言葉を消し去るべきだと私は思っている。

本当に、理解すべき大事なことがある。
何故自分を知り、またそのために意識の勉強をしなければならないのかということである。
ここで知ってもらいたいその一つは、そうすればより自分のネガティブに気づけるからである。

たくさん隠れている自分のネガティブに気づけなければ、いつまでも長いトンネルから抜け出せないだろう。
ほとんどの人は、この長いトンネルの中で一生過ごすことになるので、光が何であるかを知らないのである。
光に触れ、その光が自分の意識だと気づければ、それが祈りの意識、祈りの道である。

祈り方はシンプルである。
外側を、そして自分の中をごてごて飾り立て、祈りが叶えられるかどうかに神経を緊張させていて、いったい何が変わるのだろうか。
そんな祈り方は、もうやめてしまった方があなたの魂も喜ぶだろう。
意識向上に必要なことは、今の自分よりも高い知恵を得ること以外にその実現はない。

これは基本的なことであり、さらに先ほど並べた理解の中で考えていけば、本当に大事なことは何かに気づいていけるはずである。
この内容を、別な角度から考えてみたい。
意識は、人それぞれ違っていても、誰の意識も魂そして神につながっているのである。

自分自身の意識を高めるということは、神に近づいていくこと以外何があるのだろうか。
大事なことは、それは知識ではなく意識で近づいていくことであって、意識でなければ絶対神に近づくことはできないと知るべきである。
その自分の意識の中にいつも真剣な祈りが含まれていれば、それ自体神に向けて祈り続けているということになるのである。

これが私のやっている祈りである。
祈りを叶えられるには、いかに自分の意識状態が大事かということを知ってもらいたい。
すべては一つの中で関連して成り立っているのであるから、祈りが叶えられる運などはないのである。

当然のことだが、私の中には「運」という言葉はほとんど意味のないものになっている。
私が祈ることで神が関係していることはこれだけであって、その他の要素で自分に関係するのは因果法則だけである。
このような理解で進めた方が、祈りの実現性も高いと私のデータから言えるのである。

これ以外の条件で言えば、祈りが叶えられるのは私たちがそれを受けられる意識であること、すなわち準備が整っているということも大事である。
夢や希望、理想や理論、祈りの時間や運などで実現するのではない。
それが真実で、たとえ望むことが一時的に叶えられたとしても、ずっとこの先も思い通りになっていくということはないのである。

人は、ずっと祈りが叶えられる祈りの土台を作らずに、いつも祈り方を探しているのである。
「その土台を作るために時間をかけても・・・」と思う人がほとんどかもしれない。
この意味をしっかり自分の中に落とし込むことは、何よりも大事なことなのである。

何故なら、神の法則が実現の法則なのだから、またその真実を知ることだからである。
物的な祈りにしても、同じことである。
たまに、前世的な引き継ぎで実現することもあるが、それはそれが必然として受け取れる人だけに関係することである。
誰かが本当に運良くうらやましいと思いたくなることがあったとしても、それは自分とは関係ないことなのである。

人と自分は違うのである。
この世は神の法則通りに動いているのであって、人間も然りである。
だから、特別な祈りなど意識する必要はなく、真理の基本的土台や条件を満たすことをするだけで、後は神が自動的に働くだけである。
神秘ではなく、法則通り進めるだけでいいのである。

しかし、人は待てない、そうなるための準備もしないのである。
だから同じことを繰り返すのである。
どちらを選択することが賢明か、それも個人の自由であるが・・・
その結果として、輪廻転生が法則としてあるのである。
意識進化の経過と到達の答えは聖者意識で、神の中に生きている人間は誰一人この法則から逃れ生きられる人はいないのである。

また、ここで注意してもらいたいことを挟んでおくが、ほとんどの人はまだ気づいていないが、今世の中は波動的に確実に悪く変化している。
無意味な願望実現に走ることなく、自分の意識力を強くすることを今以上に目指す意志を強く持ってもらいたいと思っている。


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コメント

大切なことに気づけたような気がします。 (keiko)
2018-01-17 19:18:24
今年最初のブログを心待ちにしていました。ありがとうございます。
「光に触れ、その光が自分の意識だと気づければ、それが祈りの意識、祈りの道である」という部分ですが、「その光が自分の意識」というところで ものすごく反応する自分がありました。
ここの部分を完璧に深く理解したいと思う自分がいます。
また質問させていただきたく思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

keikoさん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2018-01-20 18:17:21
「光に触れ」というのは、内的意識で見る、または感じる全ての体験、気づき、感動のことです。
物的なレベルでは、光が最高の表現になりますが、「光に触れ」の光はこの世で感じる光ではありません。
厳密には、内的意識で見る感じる全てのことは、光として受け取り表現しても良いものです。
それも、その次の段階から表現が変わります。

意識 (関 孝之)
2018-02-18 08:45:50
自分は自ら分かれ自分をつくった。
自分の中心にむかう意識になり光に近づけばおのづと強さはわきでる。
いつもありがとうございます。
ためになるブログ何回も読み直してます。

関さん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2018-02-19 15:23:55
そうやって強さを感じながら進んで行ってください。
だんだん意識の中にある強さがどういうものかが分かってきます。
がんばってください。