聖なる自己破壊

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聖なる自己破壊(7)~ 自己破壊の基本的意味 2016/08/23 

神に近づく最短の道は何か。
神というのがあまりにも大きすぎるなら、聖者に近づく最短の道は何か。
聖者というのもあまりにも遠く感じるなら、真に自分が満ち足りた喜びを感じるための最短の道は何か。
これすら手の届かない理想や夢と感じるなら、その道に入れる最短のショックは何か。

そのショックが自己破壊である。
私たちが神に向かう道、その道を前進するにつれ道の様子もどんどん変化していく。
変化を感じないことがあれば、その途中で足踏み状態かよそ見をしているかだろう。

神に向かっていく霊的な道は、どんどん美しくなっていく。
美しい道を歩くためには、美しくないものをどんどん捨て去らねばならない。
美しいというのは、この世でいうレベルのことではない。
純粋のことである。
純粋と言っても、この世でいうレベルのことではない。

この真の正体は、自己破壊によってしか感じることはできない。
感じるというのも自己破壊によって顕れた、きれいになった意識で感じることだ。
この世にある、意識成長や悟りや解脱を目指す意識の修練のすべては、自己破壊を目指していることに過ぎない。

自己破壊もせず、いろいろなものをたくさん身に付けても、ただ意識が重くなるだけだ。
いずれ老化し朽ちていく肉体やこの世の観念に磨きをかけることが、自分の魂に磨きをかけることより大事なことなのだろうか。
時代の流れにも鈍感で、そのうち何とかなるものだと何も気持ちを動かそうとしないのんびり屋さんが何と多いことか。

今、このような厳しいことを書いているのは、未来というものを意識で読み取っているからである。
自分自身においても、はっきりと意志した動きを決めたからである。
この世の未来を見つめる、という気は私にはもうないのである。
この内容を詳しく書くと、それは未来の予言になるのだろうか。

予言ではない、おそらく間違いなくその通りになるだろう。
神の法則と霊的推測と世界の意識と人の意識と科学の進歩とネガティブ意識の量と経済バランスとネガティブ連携が分かれば、その内容は誰もが納得するだろう。
私が意志していることと人に働きかけることは同じではない。

人に働きかけるためにすることは、もう最短のショックを言うしかないだろう。
それを受け止めるか、またはバカにするかは自由だ。
この先の未来を見れば、人の前には膨大な時間があると思えるだろう。
そして、本当に自由になる時間がたっぷりあると思っている人はほとんどだろう。

第一段回目の自己破壊に到達し、気づける人は幸せである。
自己破壊そのものは古い意識の脱皮だから、その時はけっこう苦痛を感じるだろう。
しかし、その後はそれまで手の届かない理想や夢と思い込んでいたものが、一変して今度はそれに向かう目標に変わるだろう。

そしてその時、これまで嘘やでたらめ、曖昧などに、いかに騙されていたかに気づくだろう。
その時、それに対して怒りが湧いてくるだろう。
こうなることがその道に入ることである。
この怒りは、自分の中にある自分を騙し続けてきたネガティブに対するものだ。

全部自分の中にあるネガティブが、人や何かを悪者にして攻撃させてきたのである。
この自分の中にあるネガティブを壊していくことが、自己破壊である。
「聖なる自己破壊」、当然この意味も今なら理解できるだろう。
苦しくてもがんばって、この第一段回目の自己破壊に到達すれば、あなたは見違えるように変化するだろう。

そして、もうこの世の観念に引き込まれ騙されることもなくなっていくだろう。
気を抜いてはいけない、安心してはいけない、ここからが真のスタートになるからである。
次は、真に自分が満ち足りた喜びを感じるための最短の道に進むことだ。
少しずつ、この世の限界が見えてくるだろう。

この世の限界がはっきりするにつれ、この世や人間意識のいかに狭く小さいことに唖然とするかも知れない。
真に自分の意識成長や納得できる人生を望むなら、この世(観念)と人間意識の狭さを良く理解するしかないだろう。
今のあなたは、この世の可能性や人間意識の広さは、一生のうちにとても把握できないものと信じ込んでいるかもしれない。

何も知らないと、人はそのように思ってしまうのは当然である。
しかし、それは間違いである。
この世の可能性というのは、人間意識の広さからくるものだ。
人間意識が狭ければ、それなりの可能しかないだろう。
この世は、ずっと可能性の少ない世界が続くのである。

何故なら、人間意識が広くなったもの、悟りの段階が上がったものは神の世界に入るからである。
神の世界に入れなかったものが、いつまでもこの世と死後の世界を循環するだけである。
どんなに頭脳が優秀であっても、この世と神の世界のそれを見極める判断基準は違うのである。

いつまでも、この世の観念レベルから物事を見ていては足踏み状態が続くだけだ。
広い見方というのは、真理側から見ることである。
すぐにそうなることは難しいのだから、まずポジティブ意識をしっかり身に付けなければならない。
難しいとか大変だのと言っている場合ではない。
通る道は、これ以外ないのだから。
では、最後にこの言葉で締めたい。
自分自身、いろいろ迷って決められない。
聖者の言葉も理解するのは難しいので、どう信じていいか分からない。

宗教も精神世界も、信じていく道としてはどこか不安定に感じる。
私がこれまで言ってきたことも、どこまで信じていいものかと迷う。
後は、超能力か奇跡を見せてもらうしか信じることはできないのか。
それとも本当の道として、しっかりとしたレールを見せてもらわないと動けないのか。

何も決められない信じられないのは、自分の中に信じる自分が不在なのかもしれない。
これは、誰でも準備すれば育っていくものである。
もし、簡単で良い方法があるとしたら、誰よりも私が先に見つけていると思うのだが。


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コメント

崩します! (Osaki)
2016-08-28 15:57:45
自己執着を自己牢獄というなら、なんでそんな有様に自分がおさまって、それでわざわざ苦しんでいるのかの正体を自分で見破っていくしかありません。
「いったい何をやっていたんだろう?」と馬鹿で愚かな自分を見破るたびに訪れる「ショック」や、目には見えないないのに形あるものとしての観念が存在する意味と、その正体を実感した時に感じる「ショック」。
学ぶからこそ土台ができ、土台ができていくからこそいざという時に確実に崩していける「自己」。
先生は「意識が私だ!」と言いました。
「私という意識」と「意識が私だ」は本気で雲泥の差だと「ショック」を受けている私です。
でも勉強しているからそこに隙間みたいなものが生まれてきて、それは紙切れ1枚ほどの隙間ですが、それだけの隙間を確保するのにどれだけ苦しいか。。
あぁ~しんどい、情けないと「ショック」を受けつつも「自己牢獄の正体」をしっかりと噛みしめています。
要らないものがいっぱいですね。
それでもまだ集めるのか?
もううんざりです、私は。。重たくって背負ってられません、こんなもの。。
自分でやるしかないですね、先生。
自分で進むしかないですね。
さてと、がんばりますかっ。
よしっ!

Osakiさん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2016-08-29 15:51:02
その通りですね。
自分の自我から抜け出すには、最後は自分一人でやるしかないということです。
どんな人にもネガティブがあります。
今生か、それとも来世かは分かりませんが、自分のネガティブとはいつか直面するしかありません。
どんなに逃げても必ず来る試練です。
神の法則から逃れられる人は、誰一人いません。
そのことがはっきり理解できれば、今から自分の意識をレベルアップしていけるのですが。
努力したものは必ず自分に返ってくる、というのが神の法則です。
自我はネガティブ意識です。
それをどこから崩していくか、そして完全崩壊に向けていくのが意識の鍛錬です。
これは、私も誰も、すぐにできる人はいません。
だから、一生、聖なる自己破壊の中に生きるしかないのです。
がんばっていきましょう。

ありがとうございます☆ (Mai)
2016-09-01 14:25:04
先生いつもありがとうございます。毎回ブログを読むたびにセッションを受けているような感じです。
自分の中にあるネガティブたちに気づき、自分の未熟さ・無知さを認め、ネガティブを壊していくことがいかに重要な過程であるかやっと少しずつ分かってきました。でも、まだまだ自分の未熟さを素直に認められない自我がいます。他人に自分の出来なさ(=改善の余地)を指摘され、後で冷静に考えるとその人の指摘は正しいのですが、言われている最中は「なんでこんなこと言われなければいけないのか?」とイライラしたり素直に聞こうとしない自分がいます、そのくせ常に結果(自分の成長具合)を求める自分がいます。何も出来ていない/していないのに成果だけを求めるなんて滑稽なものです。道は一つしかないので足踏みしつつも一歩でも前進するように、大変でも時間がかかっても壊さねばならぬ私自身(ネガティブ)を気を抜かず目を見張っていなければなりません。本当に自分自身なんで「こうなの?」と呆れるくらい駄目な自我がたくさんいます。人のせいにしたり、状況のせいにしたり、とにかく言い訳を言って自己擁護します。本当に呆れたものです。今はとりあえずどんなことでも「言い訳しない・不平不満を言わない」ように自分を鍛えるよう日々を過ごすようにしています。前回の孤独のお話であった、自分を知り、深いことを知るための濃密な時間を日々の生活の中にもう少し取り入れないといけないなと思います。仕事柄色んな人と接する機会が多く、それを通して新たな自分のネガティブ反応を知る機会にもなるのですごくいいのですが、一人熟考する時間(一人っきりの時間)が現在少ないので自分の中をじっくりみる時間を短くても取るようにしたいと思います。ありがとうございます☆

Maiさん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2016-09-02 12:23:25
意識成長というのは、たくさんの知識を集め知ることではありません。
自己意識が成長したと分かるのは、ネガティブに影響されなくなったときです。
何故なら、ネガティブが少なくなった分神に近づいているからです。
それを分かることも意識の勉強です。
それには段階がありますので、ネガティブに強くなるためには使える知識の勉強が必要です。
「自分自身なんでこうなの?」というのがネガティブですので、それを「なんでこうならなければならないの」に
変えて考えれば、何か掴めると思います。
今度、そのポイントを詳しく説明しますので、それまで自分のネガティブをまとめておいてください。

お久しぶりです (hossy)
2016-09-11 19:33:21
ご無沙汰してます。
前回の金子さんとのセッション(6月末)で「君は何かやるんだろうね」とおっしゃってた通りの状況になりました。いつかは自分に役回りが来るとは思ってましたが・・・。
この記事を読み、今の自分の職場での状況、そして自分が感じてる限界を比較すると、まだまだ自分の意識は狭く職場環境云々以前に自分の意識を変えなくてはと痛感してます。
でも、このタイミングでこの流れになったということは、過去に変えるのは無理と思ってた自分とは違うステージに今、立ってると感じてます。
これからも、油断せず、でも、この流れを無駄にしないよう自分のペースで頑張っていきたいと思ってます。

hossyさん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2016-09-13 19:01:32
何か大事なことに気づいたのでしょうか。
自分を変える必要のあることに気づき、前進していける目標が
見えたようですね。
また、次なるものが見えましたら連絡してください。
自分のペースでがんばってください。

聖なる自己破壊(6)~「無為自然」と「愛」と「神」(Ⅱ) 2016/07/11

霊的魂意識は、人間意識が完成した本来の霊意識である。
魂は、霊意識魂と人間意識魂の2つがある。
4次元魂と3次元魂と言えば、分かりやすいだろうか。
2つの魂として分かれてはいるが、その中身は1つの神意識だ。
その神意識はいろいろな言葉で表現されているが、それはこの世の観念にしか過ぎない。

神、仏、霊、真理、生命、愛、永遠、完全。
どの言葉についても、誰も本質的なレベルで説明のできる者はいない。
また、自分の魂の真の姿といっても、ほんのかけらさえも思い出せないのである。
それどころか、この真実を疑う人の方が圧倒的に多いかもしれない。

確かに、この言葉の秘密を少しでも分かりたい、その影に少しでも触れたいと思っても、この感じの意識的距離が果てしなく遠く感じるのは仕方ないかもしれない。
ずらっと並べた神を表現する言葉は、すべては神そのものではなく、とりあえずは神の属性として受け止めておいた方がいいだろう。

神という言葉にしても、この世的には神の属性に入ってしまう。
このように神を表現するときは、神ではなく創造神とした方がすべての感じに近づけるかもしれない。
逆に、これらの神を表現する言葉の中に、「無為自然」を入れるとどう感じるだろうか。

少しは、人の意識に近づいた感じか、分かるといった感じになりやすくはないだろうか。
神や真理といった言葉に意識的に近づこうとしても、どうしても違和感を覚える人は、「無為自然」の意識に親しむと意識的緊張も少しは緩むかもしれない。
これから「無為自然」を神としても、意識成長には全く問題ない。

人間から見て、「無為自然」に到達できる最初の意識がある。
それが、「あるがまま」意識である。
この「あるがまま」も、随分人間的、観念的なレベルで解釈されているが、「あるがまま」意識が神意識の底辺であっても、ここからが神の世界で神意識なのである。

「あるがまま」意識に到達すれば、自動的に「無為自然」に触れられる。
この逆も然りである。
「無為自然」の体験は、不思議神秘体験になる。
当然、「あるがまま」の体験は、神秘というより不思議体験と思った方がいいだろう。

「あるがまま意識」の感じは、この世にはないものだから、いざその体験の感じを言葉で表現しようとするなら、言葉探しに戸惑ってしまうだろう。
だから、それを意識することはできるが、この世では「あるがままに生きる」とか「無為自然に生きる」ということはできないのである。
こう言うと、夢も希望もないと思われるだろうか。

それでも、幻の中でその気になって生きていたいのだろうか。
それが幸せというのかどうかは知らないが、いつまで続く幸せなのか。
私が言いたいのは、だから「無為自然」を目指せというのではないのである。
いつか到達するだろう、「あるがまま」「無為自然」につながる道を歩いた方がいいと言いたいだけである。

道を歩くとは、当然そのような勉強をしていくという意味である。
マイペースでも、とにかくその道を進むということは間違いなく近づくのである。
過去世から今生、そしてこの先も、人の意識(魂)は引き継がれ進化していくものだから、本当は誰もが今もその道にいるのである。

違いは1つ、そしてそれに気づいているか、または自覚しているか、それだけだ。
個人のすべては、全部神側から見られているのであるから、やはり早く自覚した方がよりいいのである。
「無為自然」は神の心、それは純粋意識である。

純粋意識といっても、これも誰も分からないはずだ。
純粋意識の雰囲気を味わいたいなら、自分のネガティブから少しずつ離れることである。
そうすれば、純粋意識の前に「愛」が分かってくる。
この「愛」が何であるか意識で感じるようになれば、この世で言う「愛」の意味とは違うことに意識が気づくだろう。

そして、自分の意識を通して「愛」が浸透してくるということも分かるだろう。
「愛」が自分を通って流れていくでも、「愛」が内からあふれてくるでもいい。
それは、ただ意識が知っているだけであって、他に意識することは何もない。
この意識の中が、「無為自然」というものである。
「無為自然」、その意識に到達すれば、意識の中であらゆるものに無為自然になる。

こんな世界が、この世にあるわけがないのである。
だから、この言葉を知って感動したとしても、「無為自然に生きよう」なんて思わないほうがいいのである。
それは絶対無理だから、と言いたい。
本当の意味も知らずに、そんな無理な生き方をすれば、いずれ内的矛盾に苦しみことになるだろう。

それより、確実にその境地に近づける基本的な土台創りに励んだ方が、まだ懸命と言える。
一歩一歩近づく以外、他に方法はないのである。
実にシンプルだ。
余計なことなど、何も要らない、寄り道も回り道も必要ない。

イエス、釈迦、聖者方の教えやそれに関係することをしっかり勉強するだけでいいのである。
本当はこれで十分なのだが、人は何か期待する思いが強いのか、どうしても回り道をしたくなるようだ。
「無為自然」、自然、自然、純粋だ。

自分の意識の中が、これがあるだけでいいのであって、誰かに知られることでもない。
あなたの中に大自然を大きく超える世界があるのである。
それは、あなたの意識の中でしか知ることのできない世界だ。
「ここしか無い」と聖者方も言っているのに、それでも信じられないのだろうか。

真に信じるというのは、一体につながることである。


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コメント

Unknown (tani)
2016-07-12 14:47:46
ブログの更新をありがとうございます。
私は、純粋意識を知るにはまだまだ距離はありますが、気づけて自覚できただけで本当にありがたいと思っております。
純粋意識に近づくために、一歩一歩、頑張ります。
先生のセッションを楽しみにしております。

taniさん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2016-07-13 20:08:23
純粋意識にできる限り近づいていくために知っておくことがたくさんあります。
少しずつ、理解していくことが大事です。
いろいろお話したいと思います。

聖なる自己破壊(5)~「無為自然」と「愛」と「神」(Ⅰ) 2016/06/27 

「無為自然」とは、老子の教えである。
この「無為自然」と聖なる自己破壊がどうつながるのか、2回にわたり説明していきたい。
まず、「無為自然」の意味だが、「自然」というのは、他からの影響を一切受けることもなく、それ自体が変わらずそのようであるさまを言い、「無為」は、何ら作為をしないということである。

無為自然を「あるがままに生きる」とか、「無為自然に生きる」ということにつなげて説明している人もいる。
それは本来の意味を理解していれば、一般の人には無理と言えるくらい難しいことである。
ただ、そうやって意識することが自己成長の気づきにもつながるなら、それはそれで無理に間違いという必要もないだろう。

しかし、ここでは「無為自然」の真の意味に近づいてもらいたいと考えている。
ここまではっきり言うのは、「無為自然」というのは、思考を通して分かることではないからである。
「無為自然」に入ることが絶対に無理ではないと言える人は、意識の気づきを目指している人だけにその可能性が開かれているのである。

要するに、「無為自然」に近づくにも意識の段階があるということである。
聖なる自己破壊の完成、到達点が「無為自然」の境地ということである。
しかし、そのずっと手前であっても、その道を歩いていれば「無為自然」の感じに触れていけるのである。
「無為自然」は、純粋意識でもある。

結局、「無為自然」を理解していけば、一つの言葉が出て来るだろう。
それは、神。
「無為自然」は神、それも神の原理を表す言葉である。
もっと分かりやすく言うと、神を擬人化して例えるが「無為自然」は神の心となる。

心、意識、潜在意識、無意識と意識段階は霊意識に向かって上がっていくが、神の心である「無為自然」は、無意識からの世界になる。
話を進めていく前に、少し老子のことに触れてみたい。
「無為自然」に近づくためには何が必要か、これを老子はいろいろな教えを通して我々に気づきを与えてくれている。

大雑把に言えば、この世の観念、ネガティブのことになる。
「我欲」と「執着」を土台にしてそれから派生する2次的、3次的ネガティブや感情といったものから自由になることを教えているのである。
老子という人物を調べると、哲学者、思想家となっているが、それは間違いである。

老子は聖者である。
老子の存在した時代は紀元前4世紀から6世紀となっているとおり、その存在自体にも諸説がある。
本当は老子は存在していなかったという説まである。
老子が存在していた時代には、孔子という人物もいた。

この2人の接点があったかどうかは不明だが、老子と孔子の意識レベルの差を分かりやすく例えると、空海と最澄以上の差がある。
聖者と比較する方がおかしいのだが、いろいろな説があるので、今後老子の意識が孔子レベルと間違わないように一応書いておきたいと思った。
何故、老子が哲学者や思想家ではなく聖者だと言いたかったかは、こういうことである。

哲学では、完全に思考を離れた「無為自然」など、引き出せるわけもないからである。
私も勉強不足ではっきりしたことは分からないが、老子が存在していた時代は仏とか神といった概念があったかどうか、またあったとしてもどの程度人々に浸透していたのか。

また、この時代意識の高い修行僧はどの程度いたのだろうか。
そんな中で、老子の真理の教えを誰が理解できるのか、またこの時代に現代でも理解が難しい真理レベルが必要だったのだろうかいう疑問が湧き上がってくる。
もし、仏とか神といった概念が修行僧の意識にも深く浸透していないとしたら、老子は神(仏)という言葉は使うことはしないだろう。

それよりもっとシンプルで、素直に浸透してくる言葉を使うだろう。
それが「無為自然」
この言葉なら、仏や神という言葉より、もっと身近に感じ、自分の中に取り入れることができると、私はそう感じる。
「仏」「神」「無為自然」、意識レベルは全部同じだ。

あとは、それを受ける側の意識だけだ。
これが理解できれば、心の中に線を引くことも、壁を創ることも、すべての観念も意識することはなくなる。
また、宗教的壁もすべて取り払われるだけだ。
観念も無い、何もない、これがすべてだ。

その、何も無い中にすべてのものが「愛」としてあるだけだ。
何も無いというのは、単なるこの世の観念的発想に過ぎない。
だから、「無為自然」から見ればこの世の方が何も無いとなる。
この世は幻だ、というのはこういう意味である。
すべて神の中、この神の中に何故何も無いという観念があるのか、ここから間違いが始まっている。

思考、心、意識を拡大していかない限り「無為自然」など分かるわけがない。
「無為自然」という言葉は真理であり、その表現だから、「無為自然」は古くなって消え去っていく言葉ではない。
どこまでも、人々の意識と一体になるまで残っていく言葉である。
真の老子の教えが生きる時が来る、それが今とこれからの時代かもしれない。

同時に、本当のイエスや釈迦の教えも生きる時が来るだろう。
イエスも釈迦も老子も、その他の聖者方は、未来やすべてを見越して人類のために準備していると考えると、この時代の老子の教えも理解でき、意識の拡大がいかに必要かということも気づけるだろう。
老子の内容は、聖者でなければ表現できないことが含んでいる。

聖なる自己破壊(4)~霊的意識成長は、聖なる自己破壊の連続の道! 2016/06/14

聖なる自己破壊は、あなたが意識成長を志したときから既に始まっている。
意識成長は、古く間違った観念からの脱出を意味しているのだから当然である。
ネガティブ方向に向けて意識成長するということはなく、それは堕落という。
意識成長はポジティブ方向であり、その到達点は霊意識である。
意識成長には段階があるということも、誰もが知っていることである。

段階というのは、あくまで成長の過程を分かりやすく自覚できるためのものである。
それは解脱に向けて進んでいく一本道である。
その道をただ前進していくこと、ゴールに近づいていく過程が段階である。
その道を、スピードの出せる乗り物(方法)を利用したとしても、ゴールに早く近づくことはできない。

その道を通るには、必ず自分の足跡を残さなければならない。
その足跡が、ここまで来られた、分かったという成長した自己意識で、潜在意識に刻まれた証となる。
意識成長の実感は、残された足跡の濃さによって決まるだろう。

自分が辿ってきた足跡も薄くて見えないようでは、この先の進む道もかすんで見えないだろう。
誰でも最初のスタートは知識から入り、あらゆる思考法を駆使して未知の分野を手探り状態で進むしかないだろう。
そして、その中をだんだん知り始めたときから、意識というものを自覚するようになる。

知識、思考(心)、意識という理解の段階的流れの構造が身に付いてくるにつれて、次なる新しい意識の世界が分かってくるようになるのである。
その進んで行く道も、色分けされていることが分かるときが来るだろう。
それは、ブラックからグレーの段階、そしてホワイトへ。
色は振動(周波数)であるから、重い波動から軽い波動へ、そして振動へ。

これらは、五感から意識へと上昇し、その段階を知ってしまえば、それは意識化されたことになる。
すべてのことに順番がある。
神秘や霊的なこと、また意識や真理がいつまでも分からないということはないのである。

学び方、理解の順序といった、自分に対する教育の仕方が分からないだけである。
また、分からないことだけにいつまでも焦点を当て、柔軟な見方考え方である基本の欠如を自覚することができない。
一般的な考え方は、まず自分を縛り上げ固定させ、それを安定として安心する。

分かりきった思考のパターンを当てはめて、そして分からないと言う。
もっと悪いことは、それを何とか分かる方法や都合の良い落としどころを探すことだ。
そういうことを積み上げていって、本当に分かった自分創りになっていくのだろうか。

結局、人は心では意識成長を望みながら、それに伴う自己破壊を嫌うのである。
この基本は、本当はそれほど難しいことではないが、ほとんど人はそうすることを望まないのである。
何故なら、本当は知ってもいないのに基本を軽んじ、理解する基本も付いていないのに都合の良い楽な自分を求めて焦るからである。

たとえ、これで道から離れることはないとしても、これは寄り道であり遠回りである。
聖なる自己破壊というのは、それは人それぞれが絶対通らなければならない道であり、実際すべての人はその道にいるのである。
人類のほとんどは足踏み状態で、そのあたりを少しの後退か前進かの人生の繰り返しで、輪廻転生漬けになっているのである。

何も難しいものはないのであって、ただこの大事なことを信じない意識が邪魔しているだけである。
信じる信じないにも度合いがある。
その度合いで人の意識成長は決まる。
その度合いで、この世の生き方に対する焦点の当て方も違ってくる。

また、その信じる度合いによって、自らを擁護し言い訳し執着を正当化させていく。
こうして、その信じる度合いによって、自身に正対させ直視することも避けようとする。
これができるかできないかではなく、これも何であるかはっきり分からないという人もいるだろう。
いきなり自分の意識成長を分かる人は、私も含めて最初から知っている人はいないだろう。

また、自分を知るこの基本的なことを知っている人もほとんどいないだろうし、気づくにしてもかなりの時間が必要だろう。
しかし、何かを感じる意識力のある人は、今私が書いていることから大きなヒントを得られるだろう。
私は今回、意識成長の基本である、真の道を歩く一番近道のことを書いているのである。

このことを超能力に関係することで説明すると分かりやすいと思う。
超能力といってもテレビや誰もが思っている都合のいい能力のことではない。
イエスや聖者方が行使できる霊的原理による特殊能力のことである。
聖者方も言っているように、本来この力は誰にでも備わっていて、使う気になればいつでも使えるといっている。

この深い意味を知らない人はその気になり、また疑う人はムキになって否定する。
どちらも全く意味のないことだが、この力の行使は霊意識の完全理解があって実現できることになる。
もちろん霊意識、神の法則そのものといった絶対、一体意識である。

それに似たようなレベルを何とか使えるようにしたいというのが、念とか黒魔術的なものになるが、それはネガティブであるから絶対神の法則に反することになる。
すぐに、簡単とか、または誰でもできるといわれれば、どうしても何も知らない人はその気になってしまうかもしれない。

結果など言うまでもないが、失敗かネガティブ波動で後々苦しむか、それが嫌ならネガティブ波動に同調してまた何も知らない人をその世界に引きずり込むお手伝いをするかだ。
ますます道は遠のくのみで、ハルマゲドン行きが現実になっていく。
自分に起こってくる異常な感覚にも、その原因にも気づかないといったこの手の被害者は、私はけっこう多いと思っている。

何も知らないとか、都合の良いものを早く求めるとか、早く自分を良くしたいと焦るのは、大体が真の道を外れていく原因となる。
何も凄いといったこともなく、最初はしっかり基本的意識の土台をつけるだけで、自然に聖なる自己破壊が身に付いてくるのである。
その道に、しっかりとした足跡をつけていくだけで望んだ自分が実現していくだろう。

聖なる自己破壊(3)~意識成長のために必要な、本当に大事なこと! 2016/02/29 

人とって、自分を意識成長の道におくいということは、真理に向かいその智恵を理解していくことである。
そして、意識成長のために最初にすることは、そのための準備である。
それは、精神世界や宗教の中で教えている言葉を知ってそれに慣れていくことであるが、同時にそれは必要な知識を集めることである。

このことは誰もがやっていることだが、これを飛ばして進もうとすれば、当然つまずき、早くに挫折してしまうだろう。
このことは本当に基本的なことであるが、これと同じようにもう一つ、基本的なことで本当に大事なことに気づいていない人が多い。
自分の意識を高めたり、能力をつけたりするには、知識とは別にあることを知って受け入れておかなければならない。

それは、今の段階で簡単に言えばこういうことである。
ほとんどの人は、今の自分という意識を残したまま、智恵や能力をつけようとする。
あくまで、今の自分自身を変えることなく、また失うこともなく、早く自分の望むことを手に入れようと思っている。

言葉上は、観念を手放す、ネガティブな自分を手放すとか新しい自分に変わると言いながら、実際は何も変わっていない人がほとんどだろう。
成長のためには、自分も一緒に変化していかなければならないのだが、それには触れないようにして、大して重要でもない余計なものを早く消化しようとがんばっている。

この内容は、短時間で説明できるような簡単なものではなく、人間の全意識に関係するので、あらゆる段階における話をすれば膨大な量になるものである。
これこそ悟りの段階であり、本などにも多くは書かれていない内的意識成長の支えとなる、隠れたもう一つの意識成長の智恵と言ってもいいだろう。
どんな人も、今の自分というものに愛着を持っている。

自分が嫌いと言っている人でも、自分の容姿や能力やネガティブ性を嫌っているだけで、真に自分そのものである意識まで嫌うということはない。
それは、無理なことだ。
自分は自分で、それが真の意識だからである。
人は、この今の自分というものに固執している限り、新しい自分を創っていくことはできないのである。

この一言でさえ、抵抗を感じている人もいるだろう。
それでもできると思っている人は挑戦してみるのもいいが、神の法則まで変えられるのだろうか。
少しずつ、自分を高い意識レベルに上げていくということは、この世の観念、それはこの世に染まった自分を離していくことで実現するものである。

瞑想にしても、他の能力にしても、今の自分を失わないように大事にしているようでは、自分が望む成就などあり得ないということだ。
自己成長の最大の敵、そのネガティブは今の自己意識である「自我」といえば、何となく分かるだろうか。
真に意識成長を目指すには、本当にあらゆる方向から見つめなければ、いつか右から、左から、または足下からネガティブな揺さぶりで混乱してしまうだろう。

意識成長における第一番目の変換意識は、今の自分自身から離れていくということを、まず自覚することである。
離れていくというより、離していくといった強い意志を持った方がいいだろう。
なぜなら、今の自分の意識とこれから向かう先の成長段階の意識とは、まるで違うものだからある。

違う意識を、同時に二つ持つことは無理である。
これを言うなら、自分が高い意識に至れば、それ以下の意識は分かるとなるだけだ。
人の意識成長は、順番にいろいろな意識段階を真理に向かってその中を移動するのである。
だから、今の自分自身の意識を固定しているようでは、自由な意識として真理の世界へ向けて移動することもできないのである。

今の意識の場にいるということは、一生観念と同調していくということである。
人が目指す意識の段階またはその世界に入るということは、その世界の意識と同調しているから、その場の意識と自分は一体ということになる。
意識の段階というのは、本人が目指す意識の場であるから、求めれば神世界まで続く。

意識の段階の先は、人の言う未来ではないということも分かるだろう。
それは未来というのではなく、人間意識の進化の完成である神の世界である。
では、この世と神の世界(霊界)とは、何か違うのだろうか。
当然意識レベルの違いであるが、それは同時に振動レベルの違いでもある。
神の世界には入れないというのは、意識がこの世の振動に固定されているからである。

三次元は神が創造した世界の中で最下位の世界であって、それ以下の世界はない。
あえて言うなら、この世はポジティブな世界で、それ以下がネガティブの世界になり、さらにそれ以下の一番底辺の世界は、悪魔意識レベルの世界である。
地獄と言われるのは、ネガティブと悪魔意識レベルの世界である。

人は、真理の世界にも地獄レベルの世界にも入って行けるのである。
どうやったら入っていけるだろうか。
今のあなたの意識を、このどちらかに変化させていくだけである。
もちろん、何もしなければ今のままである。
今のままでよければ、神様仏様と手を合わせることもしなくていいだろう。

たとえ、あなたがその気になって、何かの教えを受け入れたとしたなら、そこに含まれている振動レベルの意識になっていくだろう。
偽物を通って真理に辿り着けるものはいない。
たとえだまされたとしても、それから気づきを得れば、真理に近づくということもある。

あくまで、本物を求めているという意志があればだが。
人の意識成長は、人生途中で答えを出せることはない。
また、他人から決めつけられることでもない。
誰にも一生チャンスがあるのであり、一生の結果がその人生での意識レベルである。

チャンスは結果を含む。
それをいかに見極めるかだ。
今の自分の意識は、自分からどんどん離していかなければならない。
どんどんポジティブ、そして真理の智恵と取り替えていかなければならない。
選択は、三つに一つだ。

今のままでじっと動かないか。
それとも、地にのめり込んで行くか。
そんなことより、こんなことはもうどうでもいいと言えるか。
本来の自分の意識の居場所である、聖者方や仲間がいる世界に戻っていくか。


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コメント

時間 (地球を旅する正體師 関)
2016-08-10 06:56:31
観念を越える。どうしても観念の世界に戻ってしまう。自分そのものから抜け出すとても大切だと思います。
観念的に生きてる人間とそうでない人間は、時間的速さや生きてる時間が違いますか??
意識と時間の関係について知りたいですね。
なんか旨く伝えられなくてすいません。
ありがとうございました。

正體師 関さん、ありがとうございます。 (F・H・S)
2016-08-11 18:26:54
観念も含め、すべての世界にある事象を意識で処理するスピードがその人の時間です。
その意識が次元を上げていく要素になります。
外の時間は決まっているかもしれませんが、内なる世界に展開する時間はその人の意識次第です。

聖なる自己破壊(2)~潜在意識を支配する意識進化の道! 2016/01/06

潜在意識の構造について詳しく知ることは、どこが難しいと感じるのだろうか。
潜在意識の理解は、一般的に知られている潜在意識の内容とは大きく違うと私は思っている。
意識成長と潜在意識の理解は、別なものとして切り離して考えるものではない。
この潜在意識を熟知していく勉強の過程が、意識向上であり意識進化につながっていくと考えた方がすべてが一致する。

悟りの高度な段階や至高意識到達への道は、まず潜在意識を熟知できなければその道は遠い。
意識向上の順序として、いつも頭の中に潜在意識のことを入れて考えていくことが、一番大事なことだと考えている。
潜在意識の理解については、本当にたくさんの見方考え方と探求方法がある。

どれをとっても、すべて実践的に覚えていけるものなので、潜在意識が難しいというより、それが何であるか知れば知るほど楽しくなるものである。
難しいレベルで言うと、潜在意識は3次元界の限界意識であり、潜在意識はこの世の人間意識だけに関係していることである。
この潜在意識が何であるかを理解すれば、この世や人間意識の7、80パーセントは熟知できたと言っても過言ではない。

潜在意識は、真剣に探求する思いとその勉強の仕方がわかれば、潜在意識を熟知することは十分に可能なことである。
意識の勉強の目標というのは、まず潜在意識の熟知に向けて努力することなのである。
高度な潜在意識の理解は、次の意識段階である自己否定の理解を容易にしてくれる。

自己否定の次は自己破壊といって、今度は理解した潜在意識のほとんどを否定することに入るのである。
せっかく苦労して理解した潜在意識を最後に否定するというのは、どんな人もその意味は分からないだろうし、そんな勉強ならする意味がないと思うだろう。
しかし、意識はその段階を理解しなければそれまでの自我も否定できず、またそこまでの理解がなければ、当然自己破壊の意味も分かることはない。

ここまでの話は、究極の話なので今は全く関係のない話として忘れていい。
潜在意識を熟知することで、超幸せとなるのは間違いないことだと確信している。
大事な事は、これが完全なる道であり、この完全なる道以外に自覚による神に近づく道はないということだ。

このように、はっきりしている道があるのだが、それでもほとんど人は、そのずっと手前の潜在意識を理解するにも、大きな勘違いをしている。
おそらく、それを指摘しても受け入れてくれることはないと思うが、それ以上に大きな勘違いからは何にも生まれない。
大きな勘違いで多いのは、潜在意識が霊的力を持っていると信じていることである。

小さな願望実現にむなしい努力をする人を見ると気の毒に思える。
何回も起こる訳もない願望実現の方法に真剣に取り組むことは、自己自滅の道につながる可能性が大きい。
ちょっとした願望実現が仮に1、2回起こったとしても、それで一生の満足が保障されるのだろうか。

潜在意識が力を持っているという勘違いの原因は、人が潜在意識に支配されていることにある。
人の潜在意識の正体は、すべての欠点、短所、弱点からなるネガティブそのものである。
そのネガティブから解放されていない人は、そのネガティブ潜在意識の支配下に置かれているのである。

人は、相当数の輪廻転生を繰り返して、今はその結果に生きている。
生まれてからここまで、人はこの世のネガティブ暗示と洗脳の下で完全にネガティブ想念に染まっている。
その自分を、人は自分自身だと信じているのである。
何度も言ってきた、この世だけにしか使いもののならない意識、それが今の自分の意識である。

それが、ネガティブの友と一緒に、いつまでも輪廻転生を繰り返すというのが真実。
と言っても、いつまでも輪廻転生は続くものでない。
人に浸透しているネガティブ意識の量から考えれば、滝つぼが目前に迫っているのである。
よく、知らないことが本当は幸せだという言葉があるが、それは何も知らない者が言う言葉である。

その無知と一緒に、どうして知恵のない同じ繰り返しをいつまでもしなくてはならないのだろうか。
そうはいっても、結局人は動かない。
今の日本や世界を見て、それでものんびり何とかなると思っている人がいるのが不思議だ。

何の未来かは分からないが、人はその未来を希望と夢を持って生きている。
この未来の希望や夢を、何故明確にしないのだろうか。
このようなものは、早く一切無いと気づくかそれとも苦悩に直面して始めて気づくか、そのどちらが先になるだろうか。
いつまでも都合の良いことを求める思いが、ネガティブ潜在意識に支配されているということである。

意識の勉強の中心となるのは、すべてに関係する潜在意識を理解し尽すことにある。
潜在意識を熟知し、自分の顕在意識がその新しい智恵からなる潜在意識に支配されたと、そこから次なる神意識世界への道が開けるのである。
この自分の潜在意識がどんどん分かっていくと、同時に人の意識も良く分かってくるものである。

この人の潜在意識の中には、びっしりとネガティブがつまっていることを知るべきである。
表面的な人の良さなどぶっ飛んでしまうくらい、人の意識にはびっしりネガティブがつまっているのである。
それが人の潜在意識であるが、そのネガティブがどんなレベルであるかは誰も知らない。

しっかり理解すべきは、このネガティブ潜在意識に支配されているのが人類ということである。
このネガティブ潜在意識に支配されている人から、どの程度善いことが出てくるのだろうか。
真からどのくらいの善が愛が出てくるのだろうか、それともそれは期待してはいけないことだろうか。

こんなレベルのネガティブ潜在意識に、どんな創造力があると信じているのだろうか。
それを信じ、待って待って最後に残るのは、むなしい妄想の残滓と、何も成長していない自分だけにならないように今から注意すべきだ。
ネガティブだけでない、当然人の潜在意識にはポジティブもある。

しかし、圧倒的にネガティブの量が多いので、人はポジティブが何であるか、またその重要性にも気づけないのである。
だから、自分のポジティブ性を高めることなどそれほど重要でないと、また勘違いして、どんどんこの世に自分の意識を埋没させていくのである。
ところで、この世で一番大切なものは何だろうか。

私は自分と答えるが、どんな人もすぐに自分と答えてほしいと思っている。
大切と思うものが、真っ先に自分と答えるのは、余りにも自分勝手で愛がないと感じるだろうか。
しかし、本当に自分を大切に思える人は、他人の意識も同じく大切に思えるはずだ。

それが愛の重要性で、自分に愛がある人は、拡大心、拡大意識に向け潜在意識も理解しやすいだろう。
人は自分を高めていくことで、どれだけの有意義を生み出すことができるだろうか。
自分以外のことを第一に大切にする人は、どんな可能性を期待しているのだろうか。

少しでもポジティブ方向に近づくには、ネガティブ潜在意識をポジティブに変えていくことが第一に重要なことである。
人にとって、これが一番重要なことで、人が生きる意味は本当はこれしかないのである。
また、自分の意識を高めることが、一人ひとりに神から与えられた使命である。

これが神の法則である。
真に、自分は神とつながっていると思っている人は、これを実行しないではその思いは無効である。
一人ひとりが絶対やらなければならないことが、神の法則にある。
それがここで言っている、ネガティブ潜在意識の支配から離れることを目指すことである。

ネガティブ潜在意識から離れられれば、心というものもそれほど必要なものでなくなる。
何故なら、心は迷いの場であり、ネガティブを入れる場でもあるからだ。
人が思っている潜在意識は、この世、ネガティブに関係していることばかりである。

幸せを求めることは悪いことではないが、もっと見方を拡大しなければ、それもネガティブ潜在意識に支配されていることになる。
一見、この世でいう良いものの背景には、ネガティブが隠れているということも知っておくといいだろう。
また、意識が進化するということは、この世では当たり前といった言葉の意味も大きく変化していくのである。
それは、真理の世界であるから。

聖なる自己破壊(1)~意識向上を望む人だけが読める、魂意識の言葉! 2015/12/04

新しいカテゴリーを追加した。
これから時々だが、このカテゴリーに載せていく内容を説明したい。
このカテゴリーは、私の意識を表現する場で、私の意識空間として用意したものである。
その表現は、私の思いでも今考えていることでもない。

あることに対して、私の意識を言葉に変えて表現する場だと受け取ってもらいたい。
当然、分かりやすくとか、また出て来る言葉についての説明もしない。
この場は、私の意識を公開することで、客観的に自分の意識を分析して、まだ隠れている偽りの自己否定をする我を発見し、それを破壊するために作ったカテゴリーである。

だから、このカテゴリーだけは、私自身のためなので無理に読む必要もないものである。
はっきり言って、読む側にとっては、まったく親切でないカテゴリ-である。
もし、あなたがこの内容に触れて、いつか理解し始めたときは、素直に自分の意識レベルが上がったことを喜んでほしいと思っている。

また、この内容を否定出来る人は、その自分の意識レベルの高さに自信を持ち喜んでほしいと思っている。
自分のことは自分で分からなければ、どうやって先に進んで行けるだろうか。
自己破壊は、自我意識の最終段階のことである。
その前にすることは、自己否定である。

自己否定も、本当はどういうことなのか、これも分からない人がほとんどだろう。
じゃ、自己否定の前にすることは何だろうか。
それは、自分自身のすべてに関して未熟であるということを完全に認めることである。

これは厳しい世界だろうか。
ごく普通の一番早い意識進化の道を、この世は幻の飾り立てた道を喜びのゴールに向かってワクワクしながら歩いて行こうとする。
そんなのはあるわけが無い。
自分のネガティブを、そんなことで克服され消えると思っているのだろうか。

神まで騙せるとは思っていないかもしれないが、やっていることはそういうことになる。
人間と神の違いも、本当のところは分かっていない。
神を出して来ても、全部人間サイドから見たものだ。
この世には絶対は無いと言いながら、それでよく神を見つめられるものだ。

絶対が何であるか分からないのは、自分が未熟だからということにも気づいていない。
それを言うなら、観念には絶対が無いと言えばいいのである。
神の法則(霊的法則)は絶対だ。
この神の法則を知れば、神の法則で生きていける。

そうなれば、願望実現もごく普通に可能になるだろう。
真の願望実現の法則も知らないのがほとんどだ。
真の願望実現の法則を教えようにも、それを使える意識も準備されていない。
すべてを可能にする力は意識だ。

その意識になるために、自分の未熟を認め、自己否定し、最後の仕上げに自己破壊をするだけだ。
ここまで来れば、心地良い以外のなにものでもない。
そこまで到達するには、人は大変だと思ってしまう。
苦しい辛い道を努力して進んで行かなければならないと思っているから、やりたくないのだろう。

そうやってここまで逃げて来たのだが、いつまで生まれ変わりを続けたいのだろうか。
いつかは、自分のネガティブを自分自身で何とかしなければならない時に直面するのに。
これからの時代は、だんだん誰もネガティブから逃れられないようになっていく。

何も知らないほうが幸せでいいというのは、過去の話だ。
これからの時代は、知らないことが多ければ多いほど苦しむことになるだろう。
平和ぼけも、ただの言葉として笑っているようでは同じようなレベルかもしれない。
人間の歴史と人類意識と人間意識レベルを総合して未来を読めば、どうなるかぐらいは答えは出ている。

超善悪レベルの中にすべての人間意識を入れて読めば、未来がどうなるかくらいは分かるものである。
その説明もしっかり出来るだけでなく、誰もが想像もしない未来の動きも読めるものだ。
ハルマゲドンを回避し、神の世界に入るためには、のんびりしている時間は無いとずっと言ってきたが、目先だけを見ている人には関係ないとなるだろう。

こんなことばかり書いていると、私の意識はネガティブで現実を見ていないと思う人もいるだろう。
そうだろうか、私は誰よりも現実の深みを見通し、ネガティブを知り尽くしているのだが。
このカテゴリーの文章には説明は無い。

私の意識をそのまま反映して言葉に置き換えているだけだから。
これからも、もっとネガティブの深いところをえぐるようにして、その何の価値も無い正体をさらし者にしていきたい。
つまらない、くだらない、何の価値も無い、これがネガティブの正体だ。
ネガティブに価値を与えるとしたら、それを超えたときにポジティブがはっきり分かるといったことしかない。

完全にネガティブが無くなれば、それでポジティブのみになるのでは無い。
完全にネガティブが無くなれば、神の世界だ。
相当数の生まれ変わりの中で、積もり積もったネガティブをどうポジティブに変えていくか。
ここからが始まりでこれが基本レベルであるが、自分には関係ないと思っている人が多い。

自分の神である魂の援助も受けられないくらいのこんな辛いネガティブはないだろう。
人は神の罰が当たるのを怖がるが、自分の神(魂)を無視して他の神に手を合わせるくらいの罰当たりは無いことにも気づけないのである。
この世の観念はほとんどが間違いで、神の世界を目指すにはまったく使いものにならない。

観念はこの世だけに通用するものだから、それで真理を理解しようとしてもムダである。
それが分かれば、常識的な観念を身に付け、この世に合わせていればいいだけである。
何も大した価値もないこの世に、自分のすべてをどっぷり浸からせることはないのである。

自己否定までの意識に到達すれば、この世のことであっても、余裕で愛と親切で触れていけるのである。
比較も戦いも無い。それはこの世レベルに過ぎない。
それは、この世がすべてと思っている人達の意識である。