観念の限界・解脱1-7

【1-7】 【8-13】 


 観念の限界・解脱(1)~ 解脱の道は、観念をよく理解していくこと! 2019/1/15 

今回から、新しいカテゴリー「観念の限界・解脱」で、観念に関係することをいろいろな角度から理解しやすいように説明していこうと考えている。
観念の限界と言っても、観念については範囲が広いだけでなく簡単に説明できるものでもないので、かなり長く続くと考えてもらいたい。
これまでも、このブログでは観念について本当にたくさん説明してきた。

そろそろそのまとめとして、今の自分の意識をしっかり確認するためにも、もう一度観念の理解に向き合っていくといいだろう。
最終段階に向けて「今、ここから...」新しいスタートを切ってもらいたい。
真理を説いている聖者方が人が真理を理解する前に準備しなければならないことは、まず観念を知り尽くし、自分と観念を分離することだと言っているのである。

これから観念の説明が続いていくが、大変厳しい言葉が出てくるかもしれない。
そうしなければならないのは、いつまでも幻のぬるま湯にのんびりつかっていることから脱出するためである。
この世の流れにまかせていると、意識がマヒしていくだけである。
観念が何であるか、本当のことに気づかないかぎり、観念の限界なども分かるはずもないのである。

そんなことは関係ないと思っている人は、この世の未来に向かって生きる人である。
自分、または人間の未来とは何か、それをじっくり考えたことのある人は少ないだろう。
一般的に未来と言っているのは、観念世界に関係することに限定されるものである。

観念の限界を知ると一言でいっても、それを理解するには相当な時間がかかるものである。
しかし、それを知って自分から分離できるようになっていけば楽しいだろう。
楽しいだけでなく、自分の世界が大きく広がることに喜びを感じるだろう。
それだけ、観念という世界は狭く低級なのである。

ほとんどの人は、その観念にすべてを支配されているということも知らずに生きているのである。
聖者意識から見れば、観念レベルは本当に無に等しいくらいの幻にしか感じていないだろうと思う。
観念の限界を知って、初めてそこからが真の魂(神)意識の勉強のスタート点に立てると思った方がいい。

これについても、観念の限界というものを意識できるようになっていくと気づいていけるだろう。
真理の言葉やきれいな言葉を並べても、観念意識が入っていればそれは絵に描いたもちと言われるような程度のものに過ぎないのである。
どんなポジティブ的なことであっても、それは観念である以上、それには限界がある。

どうしてそうなるか、いずれその意味を分からないとならない。
このような内容は、当然一般的なことではないが、だからといってとんでもなく高いレベルの話でもないので、知らなくてもいいと片付けられるものではない。
順序よく理解していけば、誰でもこのような深い内容でも分かっていけるのである。

真理ということも、高いレベルという考えや見方を外さなければならない時代に入って来ているのである。
高いレベルではない、低すぎる人間意識から抜け出す意識を持つべきである。
この世にどっぷり浸かってきた意識は、観念は正しい、間違いがないとなるかもしれない。

しかし、これ自体が間違いなのであるから、観念世界のどこを見ても本当は正しいものなどあるわけがないのである。
この世を中心に生きていれば、それは正しいになるかもしれないが、魂意識としてはずっとこの世に生きてはいけないとなっているのである。
地の果てに向かって生きないように、一人一人に永遠の死が実現するようにと、聖者方は祈っているのである。

一般から見れば、このような言葉はとんでもないことに感じるだろう。
「視れども見えず、聴けども聞こえず」、聞く耳も見る目も無いのがほとんどの人であると言われている。
誰にでも振りかかって来る神の法則から、逃げ切れる者は一人もいないのである。

それでも、「そんなことないよ」といって何の根拠ない自分の考えを信じている人は本当に多いのである。
このことを早く受け入れることができれば、どれほど自分の意識向上が加速するか、私は本当にこれだけは早く知ってほしいという思いである。
「視れども見えず、聴けども聞こえず」と自分に言われたなら、ほとんどの人は自分の生き方を否定されたような感じになり、感情的な反応をするかもしれない。

しかし、これにしても本当のことを知らないために起こる反応でしかないのである。
すべてが冷静的でない、理性的でない反応は、周りの人を見るとそれがほとんどだから自分もそれで間違いではないと思い込んでいるだけである。
このような人は、神の世界をどう思っているのだろうか、またどこまで知っているのだろうかと思いたくなるが、ほとんど何も知らないだろう。

神意識を無視して、人類は素晴らしいというくらい滑稽なことはない。
これらすべて観念の中だけの世界である。
観念には意識の進化などはないのである。
いつまでも変わらない意識の停滞があるのみで、長い人間の歴史はこの意識停滞の歴史である。

だから、この観念意識の停滞から抜け出すしかないのである。
これ以外の方法で、この世の低級観念から抜け出す方法があっただろうか。
観念が自分の意識になっている限り、この世に縛られて身動きもできなくなるくらい、自由意識も遠くなっていくのである。
地球という大きなネガティブな籠の中に幽閉された意識ということを、いつ気づくのだろうか。

この大きな籠の中は、暗示とか催眠といったもので、それが潜在意識まで浸透している。
このようなことは、意識の勉強をしている人にも、まだ観念の影として進む道を邪魔するものなのである。
だから、どこまでも自分の意識レベルを高めていくには、観念の徹底した理解がとても大事なのである。

これでも、私は自分のこれまでの意識勉強の中の経験から、人の意識向上のために一番早い進め方を言っているつもりである。
今回は、これから進めていく新しいカテゴリー「観念の限界・解脱」の内容説明になったが、観念についてはこのカテゴリーで最後の説明にしたいと考えている。

  • 今回浮かんで来たのは、先生のブログに時々出てくる[自分に素直]と[純粋]という言葉です。[自分に素直]は自分のネガティブを素直に認め外す努力が出来るか。[純粋]はプライドや損得など物的には何の得にならなくても自分の向上を第一に出来るか。…なんだと思いました。この世の観念的な意味と視点の違いを感じることが出来ました。ありがとうございました。 — T.M. 2019-01-15 (火) 22:16:39
  • T.M.さん、ありがとうございました。この世はネガティブです。観念を知り尽くせば、このことがよく理解できます。自分の間違いを認めていくことが自分を素直にすることです。それを通して、自己意識の純粋性に近づいていきます。これは、誰も関係ない自分の世界です。これを目指してがんばっていきましょう。 — F・H・S 2019-01-20 (日) 09:11:07

 観念の限界・解脱(2)~「我」も「観念」も同じようなものである! 2019/2/15 

観念というものがはっきり分からないという人は、自分という人格を作り上げている「我」と考えてもいいだろう。
「我」は、個人個人の思いや考えや感情などが集まったもので、これも様々な経験が積み重なって形成してきたものである。
また、この世的意識で考えれば、善もポジティブも愛もすべて「我」の範囲である。

我自体の意識レベルを分類すれば、低級意識から高級意識まで分けられるのであるが、高級意識であっても「我」の範囲に入るのである。
ただ、意識はすべての段階ごとにはっきりと線を引くことはできない。
我意識から真理意識に入っていく段階になると、意識的には物的霊的という分離意識の感じがはっきり出てくるものである。

そこまで自分の意識を高めれば、今言った内容は自然に分かるものである。
国語辞書では、「我」と「観念」の意味は当然違うが、意識段階を上げていくことからすると、「我」も「観念」も根本は同じようなものである。
言葉の意味にこだわる人は、この説明には抵抗を感じるかもしれないが、潜在意識まで入って理解できればなるほどと思うだろう。

私は、「我」も「観念」も、意識的に見れば全く同じものとして考えている。
意識探求が深くなっていくと、いずれこのような見方になってくるので、今からそのように考えていた方がネガティブ意識の本質も理解しやすいかもしれない。
また、こう言うとさらに抵抗を感じるかもしれないが、「我」と「観念」はネガティブ意識なのである。

もちろん、「我」と「観念」の中にもポジティブが含んでいるのは当然である。
しかし、実際に意識探求が進んでくると、いずれはそのポジティブもネガティブとして扱う段階に入ってくるのである。
だから、ネガティブとしての「我」と「観念」を知り理解することが、早く自己意識向上につながっていくのである。

自己意識の成長を考えると同時に、自身の「我」と「観念」にも意識を向けて見ていくと、いろいろなことに気づくようになっていくだろう。
こうして、「我」と「観念」のことを深く理解していければ、周りの人間からだんだん拡大して人間意識が何であるかまで分かってくるだろう。
「我」と「観念」は、人間の物的意識であるから、それを理解するには意識の基本的構造を知っておいたほうがいいのである。

人間の意識の段階を大きく分けると、心、意識、潜在意識、無意識、神秘意識、霊意識となる。
心から離れどんどん霊意識に近づいていくと、当然自分の意識レベルも向上していく。
ただ、「我」と「観念」というのは、心、意識、潜在意識までの範囲である。

潜在意識が3次元の限界、観念の限界である。
この潜在意識の限界近くまで理解が進めば、一般的に言われている潜在意識に関係する特殊能力や願望実現などの本当のことが分かるだろう。
これまで何回か書いてきたが、私は潜在意識自体には特別な力があるとは思ったことがないのである。

それどころか、観念的な潜在意識は使いものにならないので、逆に自分の理想と
する潜在意識に変えてきたくらいである。
ここで取り上げる観念レベルというのは、心、意識、潜在意識までの範囲で、それ以上の意識世界についてはなるべく触れないつもりである。
基本として、観念がどういうものか、何であるかをしっかり知っていくことが、意識成長を早めるためにとても大事なのである。

自分の意識が、他人の意識よりどんなに高くなったとしても、次の段階を目指すにはいずれ必ず躓きが来るのである。
それは、真理ではなく、観念を十分に知らないために直面する壁である。
ほとんどの人の知らないことは向上の壁で、それが今言ったことなのである。
人の思い考え感情は、潜在意識まで深く浸透し自分が関係するほとんどのことに強い影響を及ぼしているのである。

深い意識で見る世界、深い意識で読む世界は、それがどうなっているかをよりはっきりと説明できるものである。
聞きたくない、見たくない、考えたくない、触れたくもない、そして今のままで、何とか楽しく生きいけられればそれでいい、と思う人も多いだろう。
しかし、今生で終わればそれでいいかもしれないが、意識は来世もその先もずっと続くのである。

自分の理想の未来を築くのはそう簡単ではないが、それでも努力なしでは何も実現させることはできないのである。
「我」と「観念」は、自分の意識を物的世界に閉じ込め、真の自由を奪うネガティブ意識なのである。
「我」と「観念」は、真理を見せなくするネガティブ意識フィルターである。

多くの人は、真理、霊的な勉強や修行を一生懸命やっていれば、いずれはその域に到達するだろうと思っているのである。
しかし、どんなに真理、霊的な勉強や修行を一生懸命やっても、自分の意識にネガティブがあってはずっと目の前の壁とにらめっこ状態が続くだけである。
だから、ネガティブである「我」や「観念」をよく知った方がいいのである。

どんなに真理や霊的なことに深く入ったとしても、最後の詰めがどういうことかを知らない限り、何も起こらないだろう。
神側から援助が来るというのは、そのために自分の意識を準備するということであるが、それがどういうことかその中身を知らない人が多いのである。
この世は、曖昧や騙しが多すぎるので、この大混乱の中で気づくのも大変である。

本当に自分が求める気づきや意識成長の道を歩くには、今回書いたことをどのくらい理解し、それに集中できるかにかかっているのである。
答えはある、それは簡単に言えば「観念をしっかり理解すること」であるが、これは真理を理解することに匹敵するくらい努力が必要なことでもある。
しかし、その一歩一歩は、確実に自分の知恵となって返ってくるだろう。


 観念の限界・解脱(3)~ 観念を知り尽くすことの価値・・ 2019/3/15 

イエスやシャカの教え以外に、聖者方が登場する本などには、本当にすばらしい言葉がたくさん載っている。
人はそれを元に、これまでの自分を反省し、さらなる意識向上を目指して努力を積み重ね思い思いの目標に向かってがんばっている。
聖者方の説いていることのすべては、真理に通じているということに疑いの余地はないだろう。

その内容は、それほど詳しく説明していることもなく短い言葉で終わることも多い。
例えば、「人の意識は神と一体で神の能力のすべてを持っている」といったことだが、この大事な言葉も精神世界や個人のサイトなどで適当に利用している人がいる。
聖者方の説いていることは、このような「人は本来神である」といったことが多く、今すぐにでもその力を発揮できると言うのである。

聖者方は、真理から見たことで言っているのだから、それは簡単に言えることだろうし、実際にそうできるのは当然なのだろう。
しかし、これを精神世界系になると、その通りに簡単に人に言うのである。
聖者がそう言っているから、それは簡単に実現するものだと思っているのだろうか。
もしそう言ってその通りになるのなら、とっくに人類は破滅しているだろう。

自分でもできないことを人に言うこと自体どうかしているが、実際にまだあるのである。
「自分は神である」という言葉を何度も自分の中で繰り返し、そうなっている自分を思い込みなさいと言う。
そうすると、それが自分の意識の中で徐々に育っていき、いずれそのような自分に近づいていくと言うのである。

聖者方がそう言っているのだし、聖者は絶対ウソを言うはずもないだろう。
と、そう言われるとその気になる人もいるのかもしれない。
また、「もしかしたら」という思いが気持ちのどこかによぎるのだろうか。
今回は、このようなことをどう理解するか、また本当に大事なことは何なのかを説明していきたい。

確かに、聖者方が説く真理については、どんな角度から表現しても間違いがあるはずもないのだが、それが意識向上の躓きの原因になるなら見直した方がいいだろう。
人をその気にさせ期待させる真理の言葉を巧みに使うところもたくさんある。
意識成長したいと思っている人には、何よりも簡単で実現性のある夢を持てる内容は、とても魅力的に映るだろう。

しかし、聖者方の説いていることは、普通の歩みではほとんどの人には実現不可能なことなのである。
この間には、意識の段階というものがあり、どんな人も自分が実現を目指す点までは必ずそこを通らなければならないのである。
その点に簡単に到達できる魔法の言葉や潜在意識の使い方など、ある訳がないのである。

最初に夢みたいなことをチラつかされて、それに夢中になって求めていく人は最初から大きな躓きに遭っている気の毒な人である。
このような人のことを、何か否定的なことで言っているのではなく、もっと慎重に足下をしっかり見てはどうかと思っているだけである。
実際、私達の意識向上は、神ではなく聖者レベルを目指していくことになるのである。

その聖者レベルを目指すには、真理の理解というところが大きな目標になるはずである。
聖者レベルを目指すといっても、実際に聖者意識到達を目指すということではなく、意識向上でする勉強はこの道を通るということである。
この道に入るにも、たくさん知っておかなければならないことがある。
真理の理解など、誰もスグにできる訳ではないので、当然その前にすることは山ほどあるということである。

そのことを考えないで、随分簡単に思ったり言ったりする人が本当に多いのである。
別にそこまでのことは考えてはいないからという人もいるだろうが、そのようなことではなくどんな人も道は一本しかないということを知るべきである。
最初はどんな入り方をしようが、自分の好きな道を通ろうが、結局は一つの道になるのだから、しっかりその道を知った方がいいのである。

レベルの高い本を通して、高い意識レベルの知識をたくさん持っていようが、結局は基本的なことを知らないと足踏み状態になるのである。
その基本というのは、自分自身を知ったり、精神世界や宗教などの本を読んだりして、目に見えない世界や霊的なことを分かっていく勉強である。
そして、それと同時、観念というものをよく知っていくことである。

特に、観念をよく知っていくことである。
長い間、人間の精神や意識に関する勉強をしてきた人は、今言ったことはとっくに知っているというかもしれない。
では、観念をよく知るということはどういうことなのだろうか。
観念はこの世、観念は自我、観念はネガティブ、と私は思っている。

観念を知るには、同時にポジティブや真理の知恵も必要である。
神の能力を得るためだけに、このポジティブや真理の知恵をそれに向けても、何も来るものはないだろう。
逆である。
ポジティブや真理の知恵を、徹底した観念理解に向けるのである。

こうするには理由がある。
聖者意識や霊意識や真我一体意識は、観念レベルがあっては撥ね返えされるからである。
また、人の心に悩みや問題があっては、それも撥ね返えされるのである。
神意識に入っていく前に、悩みや問題で苦しんでいる自分を何とかしなければならないのである。

この世は観念の世界で、私たちは観念の世界に生きているのであるが、この観念が神意識に近づくことを邪魔する障害ということである。
とても難しく感じるかもしれないが、それはどうしてだろうか。
それは人類全体が、神意識より観念意識が大事という暗示にかかっているからである。
この暗示力は強力である。

まとめると、意識向上の目的は、神意識がどうのこうのというより、その前に自分を悩みや問題から解放させるためにすることである。
それが実現すれば、自動的に神意識が降りてくるだろう。
観念を知るという中身は、真理と同様に非常に濃いものである。
ネガティブだが、観念を知り尽くすことは、それだけ価値のあることである。

  • いつもありがとうございます。聖者方の本を読んだり、知ろうとしたりしていると、だんだんと上ばかり・・・それも途中のステップを抜かしていきなり上だけを見てしまい、自分自身の足元・自分のことから離れて理想や希望だけ意識しても何も進むことはできないということを、先生のブログで改めて思い出すことができました。実際のところ、思い出すことができたけれども、そのやり方すらまだまだ手探り状態であることに気づかされます。それでも、ここで立ち止まっているつもりはありませんので、少しでも成長できるように日々注意深く自分の心と反応を見ていきたいと思います。本当にありがとうございます。 — yumi 2019-03-15 (金) 10:43:30
  • Yumiさん、ありがとうございます。まず、自分の弱点から見ていくといろいろ広がってくるかもしれません。意外に弱点と思っていないところも弱点になっていることもあります。がんばってください。 — F・H・S 2019-03-17 (日) 17:17:29

 観念の限界・解脱(4)~ 幸運・不運・必然・偶然(Ⅰ) 2019/4/15 

今回の内容は、かなり意識を拡大した神法則から見た話になるので、矛盾を感じるところもあるかもしれない。
まず、幸運と不運について、私はこれをどう捉えているかを話してみたい。
結論から言うと、幸運も不運もない、私にとってそれは当然のことであってそういう生き方をしている。

そうは言っても、いろいろな記事を書く場合は、幸運とか不運と言う言葉を使うこともあるが、これは一般的な意識で考える場合は仕方ないと考えている。
神の法則の本質でいうと幸運も不運もないが、それを一般の人に言って何の意味があるのだろうか、となるだけである。
観念レベルと真理では、すべてが大きく違うものである。

どちらが正しいかということではなく、ある面間違いが正しいとなっているのが観念世界なのである。
この世で、こんなことを言っても仕方ないことであるが。
どうやったら幸運を引き寄せることができるのだろうか、どうすれば不運を防ぐことができるのだろうか。
これは、この世に生きている人にとって潜在的大関心に違いないだろう。

そのために、占いや引き寄せの法則や、また幸運を引き寄せるためのあらゆる思い込みをその実現のために祈り、定着させようとしている。
ほとんどの人は、そのような気持ちをどこかに持っているはずである。
そして、もう一つの関心事は、それがいつ来るか実現するかである。
表向きは余裕の顔を見せながら、心の中では相当な集中力を発揮している人もいるだろう。

早く実現させたいという方法だけなら、精神世界に行けばいつでもあるだろう。
不思議なことではないが、そういうところにはいつもたくさんの人が集まるものである。
何度痛い目に遭っても、都合のいい願望実現に期待したくなるのが人間なのか。
冷静に考えてみれば疑問の方が多く出てくるはずだが、これも非現実的確率の逆転思考で冷静な判断をさせないのだろう。

実現などずっと続くものはないし、また一攫千金や超確率を期待できるものはないし、ずっと都合よく幸運が続くことなどもあるはずがないだろう。
それでも、誰でも一度はそのような超幻想に期待したくなるのも事実である。
ほんの一握りの人が、そのような幸運といったものに出合うだろうし、確率的な仕組みでその幸運を掴む人もいる。

喉から手が出るくらいの幸運を掴みながら、逆にそれで不幸になる人もいるというのも皮肉なものである。
この世的な見方をすれば、幸運も不運もいろいろあり、それは一喜一憂の世界に過ぎないのかもしれない。
幸運も不運も、本当にいつ来るかは誰も分からないので、いきなりやってくるとれは偶然になってしまうだろう。

幸運と不運と言えば、ちょっと大きなことになるので、普通私たちに起こるのはついているとかついていないということかもしれないが、どちらも同じことだ。
これもいつ来るかなど誰も分からないので、それがいきなり来ると、どうしても「偶然」という言葉が出てくるものである。
では、幸運や不運、またついているとかついていないというのは、それは本当に偶然に発生するものなのだろうか。

偶然であれば、これは神の法則とは全く関係ないとなる。
神の法則が関係していなくても、そこには神が関与しているものは何もないということである。
少し難しいが、この機会に、本当に偶然というものがあるかどうかを考えてみるといいだろう。

神の法則といっても、まだよく理解できていない人も多いだろう。
私は、人間は完全に神の法則の中に支配され、その法則から離れた生き方を出来る者は誰一人いないと書いたことがある。
神の法則の中でも、人にとって因果法則というのは誰もがその法則の中で生きるようにされている絶対的な神の法則なのである。

神の法則は、絶対必然の中において調和的公平である。
ここには、少しの乱れや間違いなどあるはずがないのである。
これは人間思考で考えるようなものではなく、真理レベルの意識で感じ受け止めるしかないことである。
この中に、どうやったら偶然というものを入れられるのだろうか。

グズグズ言っても仕方ないので、それは完全な間違いとしていいだろう。
この世には偶然という言葉はあるが、それは真理でない相対世界の中だけで成立する言葉である。
間違いについて考えても時間の無駄なので、ではどうして幸運や不運が偶然ではなく必然なのかとなる。

これがはっきり分ければ、無駄な生き方はどんどん少なくしていけるだろう。
このことを突き詰めれば、因果法則の深い理解にとつながるものである。
話せば、内容は深く関連し多くの話をしなければならなくなるので、今は大雑把に説明してみる。
人は何かの目標を立て行動するにおいて、その先に何が起こるかは誰も知らない。

ほとんどは、何も起こらずスムーズに終了するのかもしれない。
しかし、その途中予期せぬことが起こると、それは偶然となる。
気持ち的には、それを偶然としてもいいが、それ以上に本当のことを分かっておくと自分の意識も上がるというものである。
人の偶然は、全部自分中心に考えてのことであるが、実際は見えないところで自分だけがそうなるために準備されているのではないのである。

相手がいれば相手、複数であれば複数、事件や事故であればそれに関係する人たちまでが、人が出合う必然(一般的には偶然)に向け動いているのである。
それは因果法則に関係する人たちがその出来事に向け動いているのであるが、それはあくまで個人の原因によるものである。
その原因の結果を受けるために、いろいろな関係が動いているということである。

それは、これと決まったものでもなく流動性とか変化のあるものだろう。
何故なら、このようなレベルは人間が考えても分かるものではなく、すべて神レベルの因果法則の公平性の法則として現れなければならないからである。
今回の内容は、つかみ所がない本当に難しいことかもしれないが、大事なことはもっと因果法則を理解してそのような生き方をすべきということである。

因果法則の完全理解とその生き方が神方向の道である。
因果法則の完全理解に近づくことが、神側に近づくことである。
それを完全理解した者は、幸運や不運といったものに心を振り回されることもなくなるだろう。
神の法則を理解していけば、自分はどうすればいいかが分かってくるだろう。


 観念の限界・解脱(5)~ 幸運・不運・必然・偶然(Ⅱ) 2019/5/15 

前回の延長で話を続けるが、要は因果法則をよく理解すれば幸運、不運、必然、偶然ということも分かってくるのである。
人は本質的なことを知らないために、本当に無駄な時間を費やし、それでも苦悩から抜け出すことができないのである。
本当に自分を救ってくれる人生の智慧を、難しいとか時間がないとか今の自分には関係ないとかいって、いつまでも心開かず停滞の中で過ごしているのである。

これはたまたまそうなっているのでも偶然でもなく、必然の現れなのである。
何もしないところに何か喜ばしいことが降ってきて、人生を幸運のぬくもりの中に包んでくれることがあるのだろうか。
そのような人も、ほんの一部いるかもしれないが、そのような人は偶然の賜に預かっているのだろうか。

偶然とは何か、それは何の法則もなく勝手に現れることであるから、たまたまそうなったという解釈でもいいだろう。
偶然があるのなら、神の法則である因果法則も否定しなければならない。
実際、この因果法則の否定状態がほとんどの人の意識である。
因果法則とか因果応報といった言葉は誰でも知っているが、その深い意味を知っている人は少ないだろう。

さらに、それを活用して人生を好転させている人はもっと少ないだろう。
理解し活用していくことですべてが好転していく法則があるのに、何故人はこんなシンプルなことを無視するのだろうか。
無視するだけでなく、何故不完全である実現の法則のやり方に夢中になるのだろうか。

やはり、人は楽に簡単にできる方法というものに冷静さを失ってしまうようだ。
2,3年の基礎固めでも、その後の人生を大きく変える真理の理解というものを信じられないのは、これも観念の否定的暗示によるものかもしれない。
少なくても苦しまなくていいことをいつまでも抱え込んでいること自体、いったいどうしてそうなるのかと、気づけない人の意識に寂しさを感じる。

偶然もなければ不運もないのである。
一番大事なことは、私たちを満足させるために働く法則の理解である。
これを実現させることは、これまでの自分のネガティブ性の精算でもある。
それもスグにできるものではないので、このブログで説明しているようなことを理解しそれを実践していくことで可能になるのである。

これが、この世で言う幸運を引き寄せる因果法則の原因に当たる部分である。
そうすれば、これまでの自分のネガティブもどんどん減少していくのである。
これは一人一人に課せられた神の法則でもある。
自分のネガティブは自分で何とかしなければならない、ということである。
いつやるのだろうか、幸運という偶然がそれをしてくれるのだろうか。

偶然に舞い込んでくる幸運という考えを必然に変える方法は、たった一つしかないのである。
それが、誰にでも活用できる因果法則の真の意味である。
神の法則以外に、何を考えなくてはならないのだろうか。
「そんなことないよ」とか「時代が変わるとすごい方法が出てくるかもしれないよ」と思っている、そんな超楽観的な人もいるだろう。

また、人の中には霊性が乏しいといった人がいる。
そういう人に限って、希望的楽観思考が強いので、これは何を言ってもどうにもできないのである。
苦悩を通して気づくというのが、人間には一番の魂の援助なのかもしれない。
とにかく、神の世界では偶然といったものはなく、すべてが必然の中での調整が働いているだけなのである。

その結果が、人間世界や個人に現れてくるのだから、偶然といった適当なものである訳がないのである。
人が原因として作った行為や行動の一つ一つが、そのまま現れるといった考えも神を人間的レベルの延長で見ているからなのである。
自分が作った原因に値するものであれば、それが何であれ必然として表現されるだけである。

結果的表現は、数や量は種類の問題ではなく、意識に関係する質の問題である。
例えば、自分が何か悪いことをした場合、だからといって結果的にそれと同じことを受けるとは限らないのである。
そして、その結果はスグに現れるかどうかも、人には分からないのである。
誰かから傷つけられた人は、その相手にスグに報いとして結果が現れてほしいと思うかもしれないが、その結果は来世になるかもしれないのである。

人は、因果法則からは絶対逃れられないのである。
これは、善悪どちらの行為行動にも言えることである。
また、人に対する思いにも因果法則は働くのであるから、心の中で誰かを悪く思うことは、たとえその人が悪でもしっかり自分に返ってくるのである。
これが、因果法則である。

人が矛盾に感じるのは、自分が被害者であって少しの過失も認められない場合でも、その相手に憎悪を抱くことはすべて自分に返ってくるということである。
こう言うと矛盾を感じると思うが、それは真理の理解が足りないためにそれしか自分を納得させるものがないからである。
因果法則を中心に、幸運・不運・必然・偶然を考えた場合、すべてに答えが出るのである。

この内容だけでも、まだ半分程度の答えである。
それだけ、人は間違った観念の世界の中で正しいといったこだわりの暗示を信じて頑なに自分を主張しているのである。
これに早く気づくことで、不幸(ネガティブ)が遠ざかり少しずつでも幸運(ポジティブ)といった喜びを築いていけるだろう。

いつまでではない、やらないことには何も起こらないのである。
運良くといった偶然に騙されてその気になるくらい、将来的に不幸なことはないだろう。
スグにではないが、答えがある道を歩めるのである。


 観念の限界・解脱(6)~ 観念からの脱出は解脱への道! 2019/6/15

一言で観念を知るといっても、基本的なことから理解しようとすると大変時間がかかることかもしれない。
しかし、真の意識向上は、観念を知り尽くさなければ必ず大きな壁の前でうずくまることになるのである。
何故なら、意識レベルの向上は、ある段階から観念と自己意識を分離させなければならないからである。

このような内容は、これまでも何回か説明してきたので今回で最後にしたい。
観念とは、人が考えることや思いなどで、またそれから浮かんでくるすべてのイメージも観念の中に入れていいだろう。
そう考えると、観念とは人間のすべてで人間意識そのものと考えていいだろう。
もっと言えば、各自それぞれが観念レベルの意識で成っているのである。

この世のほとんどの人が、この観念を自分自身としているのである。
真の意識向上は、今の自分の意識である観念をどんどん自分から外していくことなのである。
自分から自分の意識である観念を外していくと、最後には何もなくなるのではないかと考える人もいるかもしれない。

観念を自分から外していかなければならないのは、その代わりに新しい意識を入れるためである。
新しい意識といっても本当は元々ある意識で、ただ観念に染まった人間にとっては、それは初めて触れる意識に感じるだろう。
それが真理というもので、神の世界に触れるきっかけになるものである。

神の世界に触れると言っても、これまでの神の教えは本当に自分を神の世界に導くようなものはほとんどないといったレベルである。
観念意識のままで神の世界に触れられるとしてきたことに、大きな誤りがある。
ここを理解するだけでも、本当に大変な勉強が必要かもしれない。
それだけ大変な勉強が必要だという裏には、それだけ間違ったことをたくさん受け入れてきたからである。

だから、間違いを知って本当のことに近づかなければならないのである。
本当のことに近づくため、神方向に近づくためには、直接真理の勉強に入った方がいいのだろうか。
どの方法が、自分にとって早い理解につながるのだろうか。
意識向上の勉強は、様々な方法があり自分に適した方法に出会うにはいろいろ迷うことが多いだろう。

一般の人が、いきなり真理の勉強に入っていくというのは良いことではあるが、おそらく途中で挫折するだろうと考えている。
それより、観念は相対で成っているのだから、ポジティブネガティブという大きな分け方を知ってその理解から入った方が分かりやすいだろう。
そして、間違いやネガティブということをしっかり知り、その間違いにハッキリ気づくことが大事なのである。

徹底的にネガティブに気づくということは、あとはその反対が何であるかを理解するだけになるからである。
それがポジティブということになる。
自分の中で、ポジティブとネガティブの分離がハッキリしてくるだけで、意識的には相当な成長になるだろう。

これがあやふやでは、次の真理には入っていけないのである。
真理に入っていけば、これまで自分の意識だった観念が余りにもお粗末過ぎることに驚くだろう。
こうして、どんどん自分の意識が広く深くなっていくことが、意識拡大というのである。

意識拡大が当たり前にならなければ、真理を理解していくことも難しくなる。
これは、神の法則でも説明できることである。
人の意識は、神の法則に従って存在しているのである。
とにかく、これまで観念の中に生きている間は、人間意識は複雑で掴みようがないと思うしかなかった。

それが、観念を自分の意識から分離できるようになってくると、観念世界がいかに狭く、またそこに生きる人の意識も驚くほど何も知らないといったことに気づ
くのである。
その気づきに唖然とすると同時、この意識に達した自分に喜びを感じるだろう。
これは、すべて真実なのである。

こんな意識状態でも、まだ本当のすばらしい世界に向けてのスタート点にも立てていないのである。
先はずっとずっと続いているのである。
それが、神の世界である。
この世は限界のある世界、観念は限界意識である。

その反対は、神意識で無限永遠である。
真の自由意識は、観念から離れた意識の中にある。
肉体がこの世に縛られていたとしても、観念に縛られない自由な意識はどこまでも広げていけるのである。

このようなことをしっかりと自覚をしないで、普通に生きていると何が何だか分からないといった生き方になるだろう。
逆にこのようなことをしっかり意識して神方向に進んでいけば、自分自身をしっかりとコントロールするということも考えるようになってくるだろう。
このようにしなければ真理神方向に向かうことはできないのである。

人が唯一神側から求められるのは、本人の深い意識の変化そのものだけである。
嘘や騙しはこの世には通じるが、神にはすべてバレているのである。
だから、しっかりと自分を見つめてやらなければならないということである。
このように、観念というものを本当に理解し最終的に観念を大きく把握したとき、次に来るものは何だろうか。

それが神意識と観念という分離である。
これは相対ではないのである。
神と観念というレベルから考えたとき、観念はもはや不要のものなのである。
答えはもう決まっているのである。
だから、我々の意識は不要の中に生きているとなる。

我々の意識は不要の中に生きていると言うと、いろいろなことに関して反発したくなるだろう。
しかし、こう言うのもその段階で神側から出て来ることなのである。
この不要な観念をよく理解し納得をして、自己意識を神側に移行させていかなければならないのである。

こういう段階は、いろいろな智恵が必要で真理のことも深く理解しなければならないが、結果的にそれから得るものの大きさに驚くだろう。
たとえそこまでいかなくても、観念をしっかり理解すれば、この世に生まれ変わってくることも止められるのである。
要は、ネガティブをよく理解することが、観念を理解するということでもある。

最終的に、人が神に判断されるのはこの世で何をやったかではないのである。
その人の深いところにある意識のあり方だけで判断されるのである。
当然、それは神意識の中でなくてはならないのである。


観念の限界・解脱(7)~ 言葉の意味の意識化から言霊に近づく! 2019/7/15

今回は、言霊について話してみたい。
言霊を辞書で引くと、「古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力」と出てくる。
言霊という言葉は、知っている人も多いと思うが、本当の意味や不思議な力については全く分からないだろう。

ネットではどのような説明が出ているのだろうかと、「言霊」で検索してみたが出てきたものを見ると驚きで唖然とした。
現代は、様々な点で低級化が進んでいるが、神秘霊的なことまで都合の良い解釈に置き換えているとは・・・。
これからする言霊の説明を読んでから、ネットで言霊のサイトに目を通していけば、気づくことも多いだろう。

言霊は、引き寄せの法則や願望実現で使うものではない。
人が普通に使っている言葉の中には、言霊など一切含んでいないと言える。
以前にも書いたが、人が使っている言葉は、言霊の抜け殻で形骸化したものに過ぎないのである。
一般的コミュニケ-ションで使っている言葉で、それに言霊が入っているかどうかを語ること自体大きな間違いである。

スピリチュアル関係では、この言霊をうまく利用している。
それは、「古代の日本人は言葉に宿る霊力が、表現する内容を現実に実現することがあると信じていた」というところだけに目を付けるからである。
当然、願望実現や引き寄せの法則にうまく関連させて説明していくのである。
スピリチュアルビジネスは何でもありで、これからは真理の言葉さえも願望実現系に使われていく可能性が大きい。

言霊は真言(マントラ)に含まれるもので、それ以外の言葉に含まれることはないのである。
それ以外の言葉に含まれる場合は、その言霊の意味を知っている人の意識レベルから発する言葉に含まれるだけである。
これから言霊を意識していこうとするなら、この点をハッキリ知っておくべきである。

言霊を含んだ言葉を発すれば、それは実現化するのである。
それができるのは、聖者かその弟子レベルかである。
では、言霊の霊とは何かとなる。
霊は神にあるもので、それは低級な幽霊的なものとはほど遠いものである。
幽霊の霊は、ただ人には見えない不思議なものとした位置づけで使っている言葉に過ぎないので、霊という言葉もハッキリしていないために人は混乱している。

チベットの寺院などで、たくさんの修行僧が一斉にマントラを唱えるのは、そこに含まれている霊的振動によって霊的意識を目覚めさせようとするためである。
たくさんの修行僧が本格的な発声でマントラを唱えるのと、その場の空気も揺さぶる振動が内的意識の反応を呼び起こすのである。
しかし、この方法も言霊を知る外的要素に過ぎないのである。

言葉を知る、または近づいていく方法は別にある。
日本でも、言霊の使い方で勘違いしている例がある。
それは、空海の悟りの段階、修行の時の内容である。
簡単に説明すると、当時19歳だった空海(弘法大師)は、高知県の室戸岬にある御厨人窟(みくろど)で、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の厳しい行に入った。

その修行方法とは、真実の言葉、つまり仏の言葉である真言を五十日、七十日、百日といった一定期間内に百万回唱えるといったものである。
それを唱えるという行は、最低でも一日一万回になると書かれてあった。
時により、伝説は人々に大きな誤解と間違った信念を植え付けることもある。
一日一万回を2時間睡眠を引いて分で計算してみると、1分間に約7回近く唱えなければならないことになる。

伝説だから、こんなオーバーなことを言ってもいいのかとなるが、そんなこと
より真言が霊的意識の道を開くとでも言いたいのだろう。
空海が行った虚空蔵求聞持法という集中も、かなり興味を惹かれる。
ウィキペディアから引用すると、「『虚空蔵』はアーカーシャガルバ(『虚空の母胎』の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。」とある。

アーカーシャガルバとは、「虚空の母胎」という意味で、そこにはすべての智恵や記録が蓄えられているという霊域である。
アーカーシャとは、アカシックレコードと関係のある言葉である。
私の推測では、空海は真言を長時間も唱えてはいなかっただろうと思っている。
何故なら、真言は到達点ではなく道だからである。

人が神秘霊的なことに触れる修行(訓練)をする前に、また同時でもいいが、必ず言霊に近づく意識を養い準備していかなければならないのである。
言霊は、たくさんの知識を覚えていくことで身につくということは決してない。
言霊に触れる準備は、これまでも随分言ってきたのであるが気づいているだろうか。

それは、言葉の深い意味を知っていく、または内的意識で真の言葉の意味に変えていくということである。
この世で使っている言葉の意味では、何も気づくこともなく霊的なことなどの理解にも全く役に立たず、ほとんどそのことでは使いものにならないのである。
例えば、イエスやシャカや聖者方の説いている言葉の深い意味などは、一般ではまるで何を言っているのかさっぱり分からないというのは、このことである。

聖者方が真に発する言葉は、言霊で充満しているのだろう。
言霊の含まない言葉では、さらに高い意識レベルのことは理解することは無理である。
自分の意識レベルを上げるということは、本を何百冊読んでも無理なのである。
言霊に触れていく勉強こそが、自己意識向上には最短の道である。

また、意識レベルが上がるにつれ、言霊も変化するということも分かるだろう。
すべてに、段階ごとの表現があるのである。
それをしっかり理解できなければ、意識向上の足踏み状態が続くだけである。
観念レベルから抜け出せというのは、観念世界の言葉にはほとんど言霊など含んでいないからである。

言霊からでも、物的世界と霊的世界の違いを説明できるのである。
これでハッキリ理解できたと思う。
言霊は、都合良く使える魔法の言葉ではないのである。