観念の限界・解脱

観念の限界・解脱(4)~ 幸運・不運・必然・偶然(Ⅰ) 2019/4/15 

今回の内容は、かなり意識を拡大した神法則から見た話になるので、矛盾を感じ
るところもあるかもしれない。
まず、幸運と不運について、私はこれをどう捉えているかを話してみたい。
結論から言うと、幸運も不運もない、私にとってそれは当然のことであってそう
いう生き方をしている。

そうは言っても、いろいろな記事を書く場合は、幸運とか不運と言う言葉を使う
こともあるが、これは一般的な意識で考える場合は仕方ないと考えている。
神の法則の本質でいうと幸運も不運もないが、それを一般の人に言って何の意味
があるのだろうか、となるだけである。
観念レベルと真理では、すべてが大きく違うものである。

どちらが正しいかということではなく、ある面間違いが正しいとなっているのが
観念世界なのである。
この世で、こんなことを言っても仕方ないことであるが。
どうやったら幸運を引き寄せることができるのだろうか、どうすれば不運を防ぐ
ことができるのだろうか。
これは、この世に生きている人にとって潜在的大関心に違いないだろう。

そのために、占いや引き寄せの法則や、また幸運を引き寄せるためのあらゆる思
い込みをその実現のために祈り、定着させようとしている。
ほとんどの人は、そのような気持ちをどこかに持っているはずである。
そして、もう一つの関心事は、それがいつ来るか実現するかである。
表向きは余裕の顔を見せながら、心の中では相当な集中力を発揮している人もい
るだろう。

早く実現させたいという方法だけなら、精神世界に行けばいつでもあるだろう。
不思議なことではないが、そういうところにはいつもたくさんの人が集まるもの
である。
何度痛い目に遭っても、都合のいい願望実現に期待したくなるのが人間なのか。
冷静に考えてみれば疑問の方が多く出てくるはずだが、これも非現実的確率の逆
転思考で冷静な判断をさせないのだろう。

実現などずっと続くものはないし、また一攫千金や超確率を期待できるものはな
いし、ずっと都合よく幸運が続くことなどもあるはずがないだろう。
それでも、誰でも一度はそのような超幻想に期待したくなるのも事実である。
ほんの一握りの人が、そのような幸運といったものに出合うだろうし、確率的な
仕組みでその幸運を掴む人もいる。

喉から手が出るくらいの幸運を掴みながら、逆にそれで不幸になる人もいるとい
うのも皮肉なものである。
この世的な見方をすれば、幸運も不運もいろいろあり、それは一喜一憂の世界に
過ぎないのかもしれない。
幸運も不運も、本当にいつ来るかは誰も分からないので、いきなりやってくると
れは偶然になってしまうだろう。

幸運と不運と言えば、ちょっと大きなことになるので、普通私たちに起こるのは
ついているとかついていないということかもしれないが、どちらも同じことだ。
これもいつ来るかなど誰も分からないので、それがいきなり来ると、どうしても
「偶然」という言葉が出てくるものである。
では、幸運や不運、またついているとかついていないというのは、それは本当に
偶然に発生するものなのだろうか。

偶然であれば、これは神の法則とは全く関係ないとなる。
神の法則が関係していなくても、そこには神が関与しているものは何もないとい
うことである。
少し難しいが、この機会に、本当に偶然というものがあるかどうかを考えてみる
といいだろう。

神の法則といっても、まだよく理解できていない人も多いだろう。
私は、人間は完全に神の法則の中に支配され、その法則から離れた生き方を出来
る者は誰一人いないと書いたことがある。
神の法則の中でも、人にとって因果法則というのは誰もがその法則の中で生きる
ようにされている絶対的な神の法則なのである。

神の法則は、絶対必然の中において調和的公平である。
ここには、少しの乱れや間違いなどあるはずがないのである。
これは人間思考で考えるようなものではなく、真理レベルの意識で感じ受け止め
るしかないことである。
この中に、どうやったら偶然というものを入れられるのだろうか。

グズグズ言っても仕方ないので、それは完全な間違いとしていいだろう。
この世には偶然という言葉はあるが、それは真理でない相対世界の中だけで成立
する言葉である。
間違いについて考えても時間の無駄なので、ではどうして幸運や不運が偶然では
なく必然なのかとなる。

これがはっきり分ければ、無駄な生き方はどんどん少なくしていけるだろう。
このことを突き詰めれば、因果法則の深い理解にとつながるものである。
話せば、内容は深く関連し多くの話をしなければならなくなるので、今は大雑把
に説明してみる。
人は何かの目標を立て行動するにおいて、その先に何が起こるかは誰も知らない。

ほとんどは、何も起こらずスムーズに終了するのかもしれない。
しかし、その途中予期せぬことが起こると、それは偶然となる。
気持ち的には、それを偶然としてもいいが、それ以上に本当のことを分かってお
くと自分の意識も上がるというものである。
人の偶然は、全部自分中心に考えてのことであるが、実際は見えないところで自
分だけがそうなるために準備されているのではないのである。

相手がいれば相手、複数であれば複数、事件や事故であればそれに関係する人た
ちまでが、人が出合う必然(一般的には偶然)に向け動いているのである。
それは因果法則に関係する人たちがその出来事に向け動いているのであるが、そ
れはあくまで個人の原因によるものである。
その原因の結果を受けるために、いろいろな関係が動いているということである。

それは、これと決まったものでもなく流動性とか変化のあるものだろう。
何故なら、このようなレベルは人間が考えても分かるものではなく、すべて神レ
ベルの因果法則の公平性の法則として現れなければならないからである。
今回の内容は、つかみ所がない本当に難しいことかもしれないが、大事なことは
もっと因果法則を理解してそのような生き方をすべきということである。

因果法則の完全理解とその生き方が神方向の道である。
因果法則の完全理解に近づくことが、神側に近づくことである。
それを完全理解した者は、幸運や不運といったものに心を振り回されることもな
くなるだろう。
神の法則を理解していけば、自分はどうすればいいかが分かってくるだろう。



観念の限界・解脱(3)~ 観念を知り尽くすことの価値・・ 2019/3/15 

イエスやシャカの教え以外に、聖者方が登場する本などには、本当にすばらしい言葉がたくさん載っている。
人はそれを元に、これまでの自分を反省し、さらなる意識向上を目指して努力を積み重ね思い思いの目標に向かってがんばっている。
聖者方の説いていることのすべては、真理に通じているということに疑いの余地はないだろう。

その内容は、それほど詳しく説明していることもなく短い言葉で終わることも多い。
例えば、「人の意識は神と一体で神の能力のすべてを持っている」といったことだが、この大事な言葉も精神世界や個人のサイトなどで適当に利用している人がいる。
聖者方の説いていることは、このような「人は本来神である」といったことが多く、今すぐにでもその力を発揮できると言うのである。

聖者方は、真理から見たことで言っているのだから、それは簡単に言えることだろうし、実際にそうできるのは当然なのだろう。
しかし、これを精神世界系になると、その通りに簡単に人に言うのである。
聖者がそう言っているから、それは簡単に実現するものだと思っているのだろうか。
もしそう言ってその通りになるのなら、とっくに人類は破滅しているだろう。

自分でもできないことを人に言うこと自体どうかしているが、実際にまだあるのである。
「自分は神である」という言葉を何度も自分の中で繰り返し、そうなっている自分を思い込みなさいと言う。
そうすると、それが自分の意識の中で徐々に育っていき、いずれそのような自分に近づいていくと言うのである。

聖者方がそう言っているのだし、聖者は絶対ウソを言うはずもないだろう。
と、そう言われるとその気になる人もいるのかもしれない。
また、「もしかしたら」という思いが気持ちのどこかによぎるのだろうか。
今回は、このようなことをどう理解するか、また本当に大事なことは何なのかを説明していきたい。

確かに、聖者方が説く真理については、どんな角度から表現しても間違いがあるはずもないのだが、それが意識向上の躓きの原因になるなら見直した方がいいだろう。
人をその気にさせ期待させる真理の言葉を巧みに使うところもたくさんある。
意識成長したいと思っている人には、何よりも簡単で実現性のある夢を持てる内容は、とても魅力的に映るだろう。

しかし、聖者方の説いていることは、普通の歩みではほとんどの人には実現不可能なことなのである。
この間には、意識の段階というものがあり、どんな人も自分が実現を目指す点までは必ずそこを通らなければならないのである。
その点に簡単に到達できる魔法の言葉や潜在意識の使い方など、ある訳がないのである。

最初に夢みたいなことをチラつかされて、それに夢中になって求めていく人は最初から大きな躓きに遭っている気の毒な人である。
このような人のことを、何か否定的なことで言っているのではなく、もっと慎重に足下をしっかり見てはどうかと思っているだけである。
実際、私達の意識向上は、神ではなく聖者レベルを目指していくことになるのである。

その聖者レベルを目指すには、真理の理解というところが大きな目標になるはずである。
聖者レベルを目指すといっても、実際に聖者意識到達を目指すということではなく、意識向上でする勉強はこの道を通るということである。
この道に入るにも、たくさん知っておかなければならないことがある。
真理の理解など、誰もスグにできる訳ではないので、当然その前にすることは山ほどあるということである。

そのことを考えないで、随分簡単に思ったり言ったりする人が本当に多いのである。
別にそこまでのことは考えてはいないからという人もいるだろうが、そのようなことではなくどんな人も道は一本しかないということを知るべきである。
最初はどんな入り方をしようが、自分の好きな道を通ろうが、結局は一つの道になるのだから、しっかりその道を知った方がいいのである。

レベルの高い本を通して、高い意識レベルの知識をたくさん持っていようが、結局は基本的なことを知らないと足踏み状態になるのである。
その基本というのは、自分自身を知ったり、精神世界や宗教などの本を読んだりして、目に見えない世界や霊的なことを分かっていく勉強である。
そして、それと同時、観念というものをよく知っていくことである。

特に、観念をよく知っていくことである。
長い間、人間の精神や意識に関する勉強をしてきた人は、今言ったことはとっくに知っているというかもしれない。
では、観念をよく知るということはどういうことなのだろうか。
観念はこの世、観念は自我、観念はネガティブ、と私は思っている。

観念を知るには、同時にポジティブや真理の知恵も必要である。
神の能力を得るためだけに、このポジティブや真理の知恵をそれに向けても、何も来るものはないだろう。
逆である。
ポジティブや真理の知恵を、徹底した観念理解に向けるのである。

こうするには理由がある。
聖者意識や霊意識や真我一体意識は、観念レベルがあっては撥ね返えされるからである。
また、人の心に悩みや問題があっては、それも撥ね返えされるのである。
神意識に入っていく前に、悩みや問題で苦しんでいる自分を何とかしなければならないのである。

この世は観念の世界で、私たちは観念の世界に生きているのであるが、この観念が神意識に近づくことを邪魔する障害ということである。
とても難しく感じるかもしれないが、それはどうしてだろうか。
それは人類全体が、神意識より観念意識が大事という暗示にかかっているからである。
この暗示力は強力である。

まとめると、意識向上の目的は、神意識がどうのこうのというより、その前に自分を悩みや問題から解放させるためにすることである。
それが実現すれば、自動的に神意識が降りてくるだろう。
観念を知るという中身は、真理と同様に非常に濃いものである。
ネガティブだが、観念を知り尽くすことは、それだけ価値のあることである。

  • いつもありがとうございます。聖者方の本を読んだり、知ろうとしたりしていると、だんだんと上ばかり・・・それも途中のステップを抜かしていきなり上だけを見てしまい、自分自身の足元・自分のことから離れて理想や希望だけ意識しても何も進むことはできないということを、先生のブログで改めて思い出すことができました。実際のところ、思い出すことができたけれども、そのやり方すらまだまだ手探り状態であることに気づかされます。それでも、ここで立ち止まっているつもりはありませんので、少しでも成長できるように日々注意深く自分の心と反応を見ていきたいと思います。本当にありがとうございます。 -- yumi 2019-03-15 (金) 10:43:30
  • Yumiさん、ありがとうございます。まず、自分の弱点から見ていくといろいろ広がってくるかもしれません。意外に弱点と思っていないところも弱点になっていることもあります。がんばってください。 -- F・H・S 2019-03-17 (日) 17:17:29


観念の限界・解脱(2)~「我」も「観念」も同じようなものである! 2019/2/15 

観念というものがはっきり分からないという人は、自分という人格を作り上げて
いる「我」と考えてもいいだろう。
「我」は、個人個人の思いや考えや感情などが集まったもので、これも様々な経
験が積み重なって形成してきたものである。
また、この世的意識で考えれば、善もポジティブも愛もすべて「我」の範囲である。

我自体の意識レベルを分類すれば、低級意識から高級意識まで分けられるのであ
るが、高級意識であっても「我」の範囲に入るのである。
ただ、意識はすべての段階ごとにはっきりと線を引くことはできない。
我意識から真理意識に入っていく段階になると、意識的には物的霊的という分離
意識の感じがはっきり出てくるものである。

そこまで自分の意識を高めれば、今言った内容は自然に分かるものである。
国語辞書では、「我」と「観念」の意味は当然違うが、意識段階を上げていくこ
とからすると、「我」も「観念」も根本は同じようなものである。
言葉の意味にこだわる人は、この説明には抵抗を感じるかもしれないが、潜在意
識まで入って理解できればなるほどと思うだろう。

私は、「我」も「観念」も、意識的に見れば全く同じものとして考えている。
意識探求が深くなっていくと、いずれこのような見方になってくるので、今から
そのように考えていた方がネガティブ意識の本質も理解しやすいかもしれない。
また、こう言うとさらに抵抗を感じるかもしれないが、「我」と「観念」はネガ
ティブ意識なのである。

もちろん、「我」と「観念」の中にもポジティブが含んでいるのは当然である。
しかし、実際に意識探求が進んでくると、いずれはそのポジティブもネガティブ
として扱う段階に入ってくるのである。
だから、ネガティブとしての「我」と「観念」を知り理解することが、早く自己
意識向上につながっていくのである。

自己意識の成長を考えると同時に、自身の「我」と「観念」にも意識を向けて見
ていくと、いろいろなことに気づくようになっていくだろう。
こうして、「我」と「観念」のことを深く理解していければ、周りの人間からだ
んだん拡大して人間意識が何であるかまで分かってくるだろう。
「我」と「観念」は、人間の物的意識であるから、それを理解するには意識の基
本的構造を知っておいたほうがいいのである。

人間の意識の段階を大きく分けると、心、意識、潜在意識、無意識、神秘意識、
霊意識となる。
心から離れどんどん霊意識に近づいていくと、当然自分の意識レベルも向上して
いく。
ただ、「我」と「観念」というのは、心、意識、潜在意識までの範囲である。

潜在意識が3次元の限界、観念の限界である。
この潜在意識の限界近くまで理解が進めば、一般的に言われている潜在意識に関
係する特殊能力や願望実現などの本当のことが分かるだろう。
これまで何回か書いてきたが、私は潜在意識自体には特別な力があるとは思った
ことがないのである。

それどころか、観念的な潜在意識は使いものにならないので、逆に自分の理想と
する潜在意識に変えてきたくらいである。
ここで取り上げる観念レベルというのは、心、意識、潜在意識までの範囲で、そ
れ以上の意識世界についてはなるべく触れないつもりである。
基本として、観念がどういうものか、何であるかをしっかり知っていくことが、
意識成長を早めるためにとても大事なのである。

自分の意識が、他人の意識よりどんなに高くなったとしても、次の段階を目指す
にはいずれ必ず躓きが来るのである。
それは、真理ではなく、観念を十分に知らないために直面する壁である。
ほとんどの人の知らないことは向上の壁で、それが今言ったことなのである。
人の思い考え感情は、潜在意識まで深く浸透し自分が関係するほとんどのことに
強い影響を及ぼしているのである。

深い意識で見る世界、深い意識で読む世界は、それがどうなっているかをよりは
っきりと説明できるものである。
聞きたくない、見たくない、考えたくない、触れたくもない、そして今のまま
で、何とか楽しく生きいけられればそれでいい、と思う人も多いだろう。
しかし、今生で終わればそれでいいかもしれないが、意識は来世もその先もずっ
と続くのである。

自分の理想の未来を築くのはそう簡単ではないが、それでも努力なしでは何も実
現させることはできないのである。
「我」と「観念」は、自分の意識を物的世界に閉じ込め、真の自由を奪うネガテ
ィブ意識なのである。
「我」と「観念」は、真理を見せなくするネガティブ意識フィルターである。

多くの人は、真理、霊的な勉強や修行を一生懸命やっていれば、いずれはその域
に到達するだろうと思っているのである。
しかし、どんなに真理、霊的な勉強や修行を一生懸命やっても、自分の意識にネ
ガティブがあってはずっと目の前の壁とにらめっこ状態が続くだけである。
だから、ネガティブである「我」や「観念」をよく知った方がいいのである。

どんなに真理や霊的なことに深く入ったとしても、最後の詰めがどういうことか
を知らない限り、何も起こらないだろう。
神側から援助が来るというのは、そのために自分の意識を準備するということで
あるが、それがどういうことかその中身を知らない人が多いのである。
この世は、曖昧や騙しが多すぎるので、この大混乱の中で気づくのも大変である。

本当に自分が求める気づきや意識成長の道を歩くには、今回書いたことをどのく
らい理解し、それに集中できるかにかかっているのである。
答えはある、それは簡単に言えば「観念をしっかり理解すること」であるが、こ
れは真理を理解することに匹敵するくらい努力が必要なことでもある。
しかし、その一歩一歩は、確実に自分の知恵となって返ってくるだろう。

観念の限界・解脱(1)~解脱の道は、観念をよく理解していくこと! 2019/1/15 

今回から、新しいカテゴリー「観念の限界・解脱」で、観念に関係するこ
とをいろいろな角度から理解しやすいように説明していこうと考えている。
観念の限界と言っても、観念については範囲が広いだけでなく簡単に説明できる
ものでもないので、かなり長く続くと考えてもらいたい。
これまでも、このブログでは観念について本当にたくさん説明してきた。

そろそろそのまとめとして、今の自分の意識をしっかり確認するためにも、もう
一度観念の理解に向き合っていくといいだろう。
最終段階に向けて「今、ここから...」新しいスタートを切ってもらいたい。
真理を説いている聖者方が人が真理を理解する前に準備しなければならないこと
は、まず観念を知り尽くし、自分と観念を分離することだと言っているのである。

これから観念の説明が続いていくが、大変厳しい言葉が出てくるかもしれない。
そうしなければならないのは、いつまでも幻のぬるま湯にのんびりつかっている
ことから脱出するためである。
この世の流れにまかせていると、意識がマヒしていくだけである。
観念が何であるか、本当のことに気づかないかぎり、観念の限界なども分かるは
ずもないのである。

そんなことは関係ないと思っている人は、この世の未来に向かって生きる人であ
る。
自分、または人間の未来とは何か、それをじっくり考えたことのある人は少ない
だろう。
一般的に未来と言っているのは、観念世界に関係することに限定されるものであ
る。

観念の限界を知ると一言でいっても、それを理解するには相当な時間がかかるも
のである。
しかし、それを知って自分から分離できるようになっていけば楽しいだろう。
楽しいだけでなく、自分の世界が大きく広がることに喜びを感じるだろう。
それだけ、観念という世界は狭く低級なのである。

ほとんどの人は、その観念にすべてを支配されているということも知らずに生き
ているのである。
聖者意識から見れば、観念レベルは本当に無に等しいくらいの幻にしか感じてい
ないだろうと思う。
観念の限界を知って、初めてそこからが真の魂(神)意識の勉強のスタート点に
立てると思った方がいい。

これについても、観念の限界というものを意識できるようになっていくと気づい
ていけるだろう。
真理の言葉やきれいな言葉を並べても、観念意識が入っていればそれは絵に描い
たもちと言われるような程度のものに過ぎないのである。
どんなポジティブ的なことであっても、それは観念である以上、それには限界が
ある。

どうしてそうなるか、いずれその意味を分からないとならない。
このような内容は、当然一般的なことではないが、だからといってとんでもなく
高いレベルの話でもないので、知らなくてもいいと片付けられるものではない。
順序よく理解していけば、誰でもこのような深い内容でも分かっていけるのであ
る。

真理ということも、高いレベルという考えや見方を外さなければならない時代に
入って来ているのである。
高いレベルではない、低すぎる人間意識から抜け出す意識を持つべきである。
この世にどっぷり浸かってきた意識は、観念は正しい、間違いがないとなるかも
しれない。

しかし、これ自体が間違いなのであるから、観念世界のどこを見ても本当は正し
いものなどあるわけがないのである。
この世を中心に生きていれば、それは正しいになるかもしれないが、魂意識とし
てはずっとこの世に生きてはいけないとなっているのである。
地の果てに向かって生きないように、一人一人に永遠の死が実現するようにと、
聖者方は祈っているのである。

一般から見れば、このような言葉はとんでもないことに感じるだろう。
「視れども見えず、聴けども聞こえず」、聞く耳も見る目も無いのがほとんどの
人であると言われている。
誰にでも振りかかって来る神の法則から、逃げ切れる者は一人もいないのである。

それでも、「そんなことないよ」といって何の根拠ない自分の考えを信じている
人は本当に多いのである。
このことを早く受け入れることができれば、どれほど自分の意識向上が加速する
か、私は本当にこれだけは早く知ってほしいという思いである。
「視れども見えず、聴けども聞こえず」と自分に言われたなら、ほとんどの人は
自分の生き方を否定されたような感じになり、感情的な反応をするかもしれない。

しかし、これにしても本当のことを知らないために起こる反応でしかないのであ
る。
すべてが冷静的でない、理性的でない反応は、周りの人を見るとそれがほとんど
だから自分もそれで間違いではないと思い込んでいるだけである。
このような人は、神の世界をどう思っているのだろうか、またどこまで知ってい
るのだろうかと思いたくなるが、ほとんど何も知らないだろう。

神意識を無視して、人類は素晴らしいというくらい滑稽なことはない。
これらすべて観念の中だけの世界である。
観念には意識の進化などはないのである。
いつまでも変わらない意識の停滞があるのみで、長い人間の歴史はこの意識停滞
の歴史である。

だから、この観念意識の停滞から抜け出すしかないのである。
これ以外の方法で、この世の低級観念から抜け出す方法があっただろうか。
観念が自分の意識になっている限り、この世に縛られて身動きもできなくなるく
らい、自由意識も遠くなっていくのである。
地球という大きなネガティブな籠の中に幽閉された意識ということを、いつ気づ
くのだろうか。

この大きな籠の中は、暗示とか催眠といったもので、それが潜在意識まで浸透し
ている。
このようなことは、意識の勉強をしている人にも、まだ観念の影として進む道を
邪魔するものなのである。
だから、どこまでも自分の意識レベルを高めていくには、観念の徹底した理解が
とても大事なのである。

これでも、私は自分のこれまでの意識勉強の中の経験から、人の意識向上のため
に一番早い進め方を言っているつもりである。
今回は、これから進めていく新しいカテゴリー「観念の限界・解脱」の内容説明
になったが、観念についてはこのカテゴリーで最後の説明にしたいと考えている。

  • 今回浮かんで来たのは、先生のブログに時々出てくる[自分に素直]と[純粋]という言葉です。[自分に素直]は自分のネガティブを素直に認め外す努力が出来るか。[純粋]はプライドや損得など物的には何の得にならなくても自分の向上を第一に出来るか。…なんだと思いました。この世の観念的な意味と視点の違いを感じることが出来ました。ありがとうございました。 -- T.M. 2019-01-15 (火) 22:16:39
  • T.M.さん、ありがとうございました。この世はネガティブです。観念を知り尽くせば、このことがよく理解できます。自分の間違いを認めていくことが自分を素直にすることです。それを通して、自己意識の純粋性に近づいていきます。これは、誰も関係ない自分の世界です。これを目指してがんばっていきましょう。 -- F・H・S 2019-01-20 (日) 09:11:07