魂の名言

魂の名言(7)・・誰にでもある孤独感の正体は!(Ⅱ) 2016/08/11 

「人生とは孤独であることだ。誰も他の人を知らない。みんなひとりぼっちだ。自分ひとりで歩かねばならない。」
(ヘルマン・ヘッセ:ドイツの小説家、ノーベル文学賞受賞 )
この名言はそのとおりだが、ひとりぼっちの人にとってこの言葉はとても受け入れられるものではないだろう。

「みんなひとりぼっちだ。自分ひとりで歩かねばならない。」
といっても、どこに向かって歩くのだろうか、ただ自分一人で生きろというのだろうか。
次の名言は、人が向かう方向と孤独のことを言っているが、要点のみで中身がよく見えない。

「我々はみな真理のために闘っている。だから孤独なのだ。寂しいのだ。しかし、だから強くなれるのだ。」 (イプセン:ノルウェーの劇作家、詩人) 
真理のために闘っているというのは、自分のネガティブと闘っているということである。
だから孤独で寂しいというのは、ネガティブを相手するのはいつも自分だからである。

いつになったら光を感じるのか、それでも人は心配不安を抱えながら進むしかない。
こうして真理に近づいていけば、孤独にも強くなっていけるだろう。
孤独も大きく分けると、苦痛と喜びという相対としての孤独で考えることができる。

孤独から抜け出したいために苦しんでいる人もいれば、反対に自ら孤独を追い求める人もいるのである。
孤独はネガティブと考えていいが、自ら喜び方向の孤独を追い求める人もいるので、ここは2つの孤独のポジティブ孤独とネガティブ孤独に分けて話を進めていきたい。

ポジティブ孤独は、このネガティブ孤独から抜け出すための道に入ることである。
ネガティブ孤独は、他の力を借りて一時的に孤独から抜け出したとしても、自分の中にある孤独は何も変化していない。
ポジティブ孤独は真理に向かう道であるから、当然その中を歩くと孤独に対する意識も変わってくるはずである。

意識が変わる前に、思考の段階を考えなければならない。
「最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は混乱のうちになされる。」
(トーマス・エジソン:米国の発明家、起業家 )
雑音、とは言わないが、自分の横に人がいれば心が落ち着けない、これも混乱の一部だ。

自分を知り、深いことを気づくには1人でいた方がいいのである。
ポジティブ孤独方向に入ると、だんだんネガティブ孤独とは違う意味が出て来る。
「孤独の中でしか、自分自身を豊かに深めていくような濃密な時間は得られない。」 (齋藤孝:教育学者、作家) 

ポジティブ孤独方向側は、単純にこれしかないのであって、これが最高である。
ここを知った者は、真の孤独に向かって喜んで入っていくだろう。
だんだん孤独の意味も変化し、ポジティブ孤独とネガティブ孤独というのは、全く中身が違うことにも気づけたと思う。
さらにポジティブ孤独の中に進んでいけば、孤独というのも意識しなくなっていくだろう。

次の名言の意味も当然分かると思う。
「人と一緒にいる時が、最も孤独な時だ。」
(キケロ:共和政ローマの政治家、哲学者)
小さな観点から離れ、真の孤独の意味だけを考えてみれば、孤独の意味が意識成長とともに変化することも分かってくる。

「画家は孤独でなければならない。なぜなら、1人なら完全に自分自身になることができるからだ。たった1人の道連れでもいれば、半分しか自分ではなくなる。」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ:芸術家) 
「孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。 しかし、 孤独はいいものだと話し合うことのできる相手を持つことは一つの喜びである。」(バルザック)

孤独の重要性に気づければ、誰かと孤独の良さを話し合う喜びもいらないだろう。
孤独について、もっと高いレベルの名言はショーペンハウアーの2つの名言である。
「孤独は優れた精神の持ち主の運命である。」

「孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間になってしまう。
なぜなら、孤独でいるときにのみ、人間は自由になれるのだから。」
(ショーペンハウアー:ドイツの哲学者) 
「孤独は優れた精神の持ち主の運命である。」の優れたというのは、自然にその道に入った意識状態と考えていいのであって、この世における優劣を意味するのではない。

その道に入った意識状態は、真理の道であるから一般意識と違うのは当然である。
「孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間になってしまう。」
自由は、2つの孤独の中の意識からみればその違いがはっきりするだろう。
孤独から逃れられない意識、自由に手をかけられない意識がネガティブ孤独である。

その反対に、ポジティブ孤独を通りながら自由と意識拡大を感じていける道がある。
すべてはいつも言っているポジティブネガティブのどちらかしかないのである。
いつまでも混乱から抜け出せないのは、ただ一つだけだ。
それは、自分が良いと思っている世界にどっぷり漬かってしがみついているからである。

本当は孤独というのはないのである。
それは、神から離れている意識という結果をいうだけだ。
神、魂に近づいていけば、どこに孤独を感じるというのだろうか。
今となっては、孤独という言葉も私にとって死語だ。
あなたにとっても、いずれそうなるだけだ。

誰の無意識の中にも、神意識が残っている。
それがどんなものか気づけなくても、神意識をどこかで無意識に感じているのである。
それから離れている感じが、魂のあなたに対する呼びかけである。
意識の中に何とも言えない意識の寂しさ、むなしさ、怖さがよぎるとき、それが自分の魂の援助である。

霊意識は、人の意識を目覚めさせるためにいろいろしてくれているのである。
その感じをキャッチできるような意識にしていくために、孤独がある。
孤独になるのではない。
孤独の使い方だ。
ポジティブ孤独であれば、いずれネガティブ孤独は消えていくだけだ。

ネガティブ孤独があれば、この世、要するに観念意識の中に自分の意識がまだ何かに執着しているということになる。
これが、自分の意識レベルを調べる要素にもなる。
ネガティブ意識はこの世しかないのであるから、真理意識が分かれば今知らないことまで見え分かるようになるのである。

孤独を良く熟考するといいだろう。
自分を救うのは、孤独を通るしかないのだから。

魂の名言(6)・・誰にでもある孤独感の正体は!(Ⅰ) 2016/07/27

孤独というのは、誰もが知っているように「一人ぼっち」ということである。
人の意識は様々なので、孤独に押しつぶされそうになる感じも一人ひとり微妙に違うだろう。
感情面において、人が抱いている孤独感を分かろうとすることくらい難しいものはない。

孤独感は心の中で起こるのではなく、それは潜在意識から意識に作用するものである。
一般的に孤独と言うと、大体は寂しいといった感じに捉えるので、孤独は複雑な意識が絡んでいるというところまでは考えないかもしれない。
孤独についての説明は、かなり意識の複雑性が絡むのでここではできないが、分かりやすい範囲で孤独の名言を説明しながら進めていきたい。

今回は、一般的に知られている孤独について説明し、次回で孤独の必要性に触れたい。
一人ぼっちで孤独を感じるのは分かるが、たくさんの人に囲まれていても、孤独を感じている人もいる。
孤独は内的に愛を感じる度合いによっても違う。

それは、孤独を感じるのは、愛に対する執着度合いの問題か、それとも愛が分からないからなのかということになる。
愛が少ない、また愛がどういうことか分からないという人は、孤独の背後に不安感がある。
孤独の中で、ただむなしさだけに沈んでいては、ますます自分の意識は愛から遠ざかってしまうだろう。

そうは言っても、ほとんどの人は孤独の解放法は知らない。
また、簡単に解放できる方法もないのである。
物やお金や愛情的があれば、一時的に解放されるかもしれないが、真に解放になることはほとんどない。
現代は、人の孤独に触れる前に、何らかの心の病気にしてしまうだろうと思っている。

孤独、それは愛に触れられない寂しさかもしれない。
また、愛にどう触れていいか分からない戸惑いが孤独を引き寄せるのかもしれない。
人は、やさしさや愛に長い間触れることも思うこともなければ、生命の働きも弱くなっていくだろう。

孤独を癒すのは、やさしさや愛の感じを待つのではなく、自ら触れていくことである。
「人間は生まれた時から一人で生まれ、死ぬ時も一人で死んでゆきます。孤独は人間の本性なのです。だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。」(瀬戸内寂聴~天台宗の尼僧 ) 

一人で生まれ、一人で死んでゆくのが孤独で人間の本性なのだろうか。
人は、生まれて来る瞬間も死んでいく瞬間も、自覚もなければ孤独も知らない。
孤独が人間の本性なら、もう孤独から人は抜け出せないということになる。
この名言からいうと、人間は神とつながっているというのはどこにいってしまうのか。

「だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。」は、孤独とつなげるには、少し強引過ぎる感じがする。
「肌であたため合いたい」は、寂聴さんの孤独を癒す最適な方法なのだろうか。
孤独から湧き上がってくるものは、意識の底に沈んでいる何ともいえない心細さの不安。

これは、その状態の自分でなければ、そこから来る押しつぶされそうになる思いは分からないだろう。
これは、人が思う苦悩の中でも、本当に辛い状態の一つに入るだろう。

どん底の孤独は、恐怖だ。
物的な意識で、孤独の恐怖を押し返せる人はほとんどいないだろう。

孤独の陰に入っている人は、いずれこの感じの押しつぶされそうな恐怖を味わう。
そこから抜け出させる答えが見つからなければ、一時的でもその恐怖から逃れるものを求める。
嘘でもいいから、その中にいる方がまだましだと思うからである。

この孤独の恐怖である地獄からすれば、この方がまだ楽だと常識とかけ離れたことにものめり込みやすいのである。
何かに対する依存症、それは本当の依存心かそれとも孤独からの逃避のためなのか。
人の背後にある意識は複雑で、見た目行為だけで簡単に判断できないことは多いのである。

本当のことも知らない、どうすることもできない、こうして、さらに自分を失っていく。
孤独からの安易な逃避は、最終的に自分を身動きできない状態に追い込んでいくことになるのである。
どう動くかはその人次第だが、それも持って生まれた性格、意識が大きく左右するのである。

次の名言のように、そのチャンスを生かせればいいのだが。
「孤独なとき、人間はまことの自分自身を感じる。」
(トルストイ~ロシアの小説家、思想家)
孤独な時、目の前には2つの方向があるのである。
一つは、孤独の闇に捕まって深く沈んで行く。

もう一つは、この名言にある、まことの自分自身を感じ、気づいていくことだ。
孤独を感じ、落ち込んでいる時は、良い集中ができる。
まことの自分自身を、どう感じていくか。
素直に自分を見られるか、また評価できるか。
人には孤独のチャンスは、一生に何度か巡ってくるだろう。

その時は、自己意識の成長のチャンスにすることもできるだろう。
こうして、意識成長とともに孤独の闇に光が差してくるのである。
それとも、それどころではないとネガティブになってしまうのだろうか。
人の意識がネガティブである以上、必ず孤独を感じる時はやってくるだろう。
これも、気づくため、成長のためなのだが、ほとんどの人はそこには目を向けない。

本を読んで勉強するより、こういう時こそ大事な勉強になるのである。
「人生において、一番大切なことは自己を発見することである。そのためには、時には一人きりで静かに考える時間が必要だ。」
(フリチョフ・ナンセン~ノルウェーの科学者、探検家、ノーベル平和賞受賞 )
一人きりで静かに考える時間は、孤独の中には入らない。

その孤独は、この世のネガティブを遮断するためのバリアの役目を果たすものだ。
次回は(Ⅱ)です。

魂の名言(5)・・人生に関係する名言から、開眼の道を開く(Ⅳ) 2016/05/31

前回の続きだが、「人生は学校である。そこでは幸福より不幸の方が良い教師である」という名言は、しっかりと気づく、見つめる、そして考えることを知るきっかけになると言っているのだろう。
そこから、人生の意味や目的に気づき、また何かを学ぶきっかけにつながる人もいるだろう。

この世的なことに限定しても、当然人生の成功にもつがることである。
人は知らないから不幸を背負い込んでしまうのであるから、これを理解すれば、二度と同じ轍は踏みたくないと身に染みてこの名言の意味が分かってくる。
この名言の内容にしても、しっかり理解するために必要な知識や知恵はある。
その重要なポイントを、若いときから少しずつ理解していけば、大きなつまずきや失敗をしない意識が創られていくだろう。

知識や知恵というものがあるのだから、それを理解納得し、あとはそれを確信と自信にするための経験を積むだけである。
行き着くところ、すべては自分である。
その知識や知恵を疑いや迷いもなく理解するために、さらに基本的な理解の準備として、ポジティブよりネガティブの知識と知恵があると考えるといいだろう。

本当に基本となるのは、この世、そして人の意識であるから、それをまとめて早めにこの世の観念を知ることである。
これが基本的なことで、それから全体の理解につながっていく。
基本的なことをしっかり理解していないから、途中でつまずくのである。
実にシンプルなことだが、ほとんどの人は早く何とかなる方法を探しているのである。

もろく不安定な基本や土台の上に建てるものの譬えで砂上楼閣という言葉があるが、結局何が一番大事かというと、やはりしっかりとした基本を身に付けることである。
基本をしっかり身に付けている人は、途中で大きくブレることもなくなるだろう。

基本というものが基本で終わるのではなく、それはどこまでも自分の意識を支えていくのであって、成長の段階で「気づく力」「先を読む力」「耐える力」が付いてくるのである。
「近道」と「回り道」ということについても、今度話してみたいと考えている。
人生にとって、この内容はとても大事なことであるが、人生や意識全体から見なければ、その二つの道の違いに気づくことはない。
本を読む、瞑想をするというのは、勉強の一部であるが、それは当然のことであって、それは意識成長の本当の勉強ではないと考えた方がいい。

本当の勉強とは、自分のネガティブを直視してポジティブに変えていくこと、そして成長した自分をこの世で試しながら、さらに向上していくことである。
この世には、あらゆる種類の意識を持った人がたくさんいるので、勉強材料には事欠かない。
人生は自己意識のレベルを知ることができるすばらしい場だ。

本当の自己意識レベルを知ることができるのは、ネガティブから成長できた自分に気づいたときである。
「ネガティブは、良い自分の教師だ。しかし、そのときだけの教師だ。レベルアップした自分を自覚できたときから、二度と必要とされない教師だ。」
本当に不幸や苦悩の中で良い教師に会うのではなく、幸せなときに、自分に合った良い教師を付けて自己意識を高めていくことは、一番幸せなことかもしれない。

最後に、二つの名言を考えてみたい。
言葉が足りないというより、短い文で人が反応するポイントを突いてくるのが名言である。
名言は、ひとそれぞれ、そのときの心や感情の在り方で捉え方が大きく違ってくる。

ちょっと視点を変えた見方をすれば、意味がガラッと変化する名言も多い。
名言は、感情と同調させ自分を慰めたり励ましたり、また奮起させるために使うのもいいが、それとは別に、それからいろいろな解釈をしていくのも面白いものだ。
そういう意味でいうと、名言でも本当に分かりにくいものもある。

それでも、またどんな言葉でも人それぞれ反応するものがあるので、それはそれで余り深く考えることでないかもしれない。
「過去に溺れることなかれ。将来を夢見ることなかれ。今この瞬間に精神を集中すべし」 (仏陀)
仏陀の言葉を名言として扱うのはどうかと思うが、この言葉の「今この瞬間に精神を集中すべし」という教えの意味は深く広すぎる。

この言葉は、本当に大事で、誰もが理解納得して自分のものにしてほしいと思う名言である。
特に、「今この瞬間に精神を集中すべし」は、いろいろな人が言葉の表現を変えて使っているが、だれもその深い意味には触れていない。
もう一つの名言は、どうやって理解していいか分からないものだ。

「一度だけの人生だ。だから今この時だけを考えろ」 (中村天風)
これは人生全般を通じて、いつのときも、今この時だけを考えろということなのだろうか。
このような言葉に似たもので、「いまここ」を強調している言葉も多くの人が言っている。

その内容は間違いはなく言ってることも分かるが、何か「今」ということに私は狭い限定を感じてしまう。
今というのは、時間的にいっても、もっと広く捉えていいのではないかと感じている。
また、瞬間というのは、今に比べるともっと狭くきわめて短い時間のことをいう。

私は、今に集中するより、仏陀の「今この瞬間に精神を集中すべし」の瞬間の方が、はるに広く深く、永遠に時間が続いている感じがするのである。
これも、人それぞれの意識が反応することだと思うが・・・。
人生の意味と目的は、人間の使命として一人ひとりが持っているものである。
それを第一にしなければならないが、それ以外の人生の意味と目的は自由である。

他人に迷惑をかけないのなら、好きなことをすればいいのである。
そこに、自分の中に誰かをたくさん入れると、それだけ自由が減ってくるものである。
現実がどうのこうのという人は多いが、実際、物事を変えていくのは自分の意識からである。

現実にも、目先と全体という見方があるのだが、ほとんどの人の見る範囲は狭いのである。
果たして、それで本当に現実がどうのこうのと言えるのだろうか。
現実がどうのこうのというなら、特に自分の人生に当てはめて考えてみるといいだろう。

目先か、人生全体か、それにしてもまだまだ狭い見方にすぎない。
輪廻転生と因果法則を入れて、初めて人間の人生、そして個人の存在の意味が見えてくるのであるが、これ以上の拡大した見方はまだまだあるのである。

魂の名言(4)・・人生に関係する名言から、開眼の道を開く(Ⅲ) 2016/05/15

ほとんどの人は、他人を自分の中に入れ過ぎるのである。
他人を入れ過ぎるというのは、自分が見つめるべき大事なことを後回しにして大してプラスにもならないことに時間を使うことになる。
時間の浪費だけでなく、そんなことから得られるものはほとんどなく、ただネガティブ感情だけを助長していくだけになる。

ほとんどの人は、毎日、このような無意識的束縛状態の中で生きている。
人は、人間関係の悩みで潜在意識はもがき、それが無意識に自己防衛するように働き、いつの間にか自分をネガティブな方向に持っていかれている。
このような自分を、人生の主役にしていいのだろうか。
人というのは、意識的成長を目指すどころか、わざわざ人のことを自分の中に取り入れ、内的にこのようなことをお互いにぶつけ合っているようにみえる。

他人の存在が、自分の中に多ければ多いほど、そのような人は自分の人生の意味や目的に気づくのが遅くなるのである。
自分の中に他人が多くいればいるほど、自分の存在が薄くなり価値も認めにくくなるのである。
そのような人は、他人の賞賛を集めることで自分の価値を高めようとするしか自分を満足させることはできないだろう。

真の価値を知らない人に、いったい何を認めてもらいたいのだろうか。
きつい言い方になるが、これがこの世における価値観論争の堂々巡りにつながっていく元凶に、目を向けさせてくれる気づきになるかもしれない。
自分、目的、そして真の人生を考える人は、人の言う価値など考えている暇もなければ、自分の中にそのような人を接待する場所もないのである。

もちろん、簡単にすぐに付く価値観などはない。
この世なんて考え方一つで、裏が表にもなるし表が裏になることもある。
人は考えているようで、本当に考えているのかというと、考えるということがどういうことかも分からない人が多いと私は思っている。
こう言うと、ちょっと信じられないかもしれないが、これも事実だ。

今言ったことで何か掴めたら、次の名言も受けいれやすくなるだろう。
「自分自身に価値を見つけた時、人生の本当の意味が見えてきます。自分自身を価値あるものとみなしなさい」 (ブライアン・アダムス)
このような名言をいきなり目にすると一般的に「そう言われても」となるだろう。

「自分自身を価値あるものとみなしなさい」と言われても、すぐにそう思える訳もない。
その前に、自分を価値あるもの、または自分が価値あるものとして認めることに、どうやって気づくかが先だ。
「あなたは生まれたときから元々価値があるのです」、といった言葉もある。

それは、「あなたと神は一体です」につながっていくが、またこれは最高に価値のある言葉だが、しかし実際にそう思えるだろうか。
それから一段、二段落とした言葉で、「元々あなたの中に答えはあるのです」という言葉も、けっこう使う人がいるだろう。
私は、何を寝ぼけているのかと思ってしまう。

こんなことを言われなくても、人は自分の中を見つめ、悩みや問題解決のための答えを一生懸命探しているのである。
その結果、答えが見つからない、分からないというより、実際はこういうことだと思う。
考え抜いて、自分が出したアイデアや答えが正しいかどうか、それが通用するかどうかの判断ができないだけなのである。

その人なりの答えは出せるのであるが、その次の決め手がないだけかもしれない。
その時、誰かや不特定多数の反応の自己妄想が湧き上がり、さらに自分を迷わすのである。
自分を知る、そして自分を成長させる勉強というのは、このような深いところで反応する自分の意識構造と仕組みを知ることなのである。

これまであった表面的なことやテクニックで変わるなら、今頃右も左もたくさんの幸せ人間であふれているだろう。
何だかんだと言っても結局、本質に触れ本質を知ることに生きることが人生で、その結果として満足している自分につながるだけである。
人はすべてのことについて、すぐに分かったりできたりするものはないので、当然理解が進む段階で自分の価値観も変化していくのである。

死ぬまで、自己意識のレベルアップ、本来ならこれが当然なことで本当の意味で人生の目的の第一番に掲げるものではないだろうか。
これにすべての時間をかけるべきだと言っているのではなく、自分の時間の1割から2割くらいは当ててはどうかと思っているのである。
初めから分かっている人はいないのだから、いろいろ努力していると、そのうち人生の意味と目的に気づくようになり、自ずと道は見えてくるだろう。

その道を歩むことは、初めのうちは大変厳しく感じ、また途中でも新たな壁に何度もぶつかるかもしれない。
しかし、その成果はいずれ満足感と幸福感に変わり、自分に勇気と自信を与えてくれるようになる。
次の名言は、これと似たようなことは随分見聞きしてきたと思う。

「人生は学校である。そこでは幸福より不幸の方が良い教師である」
(フリーチェ) 

人生の意味に気づいている人は、この名言にある通り厳しい状態に直面したことがあるはずである。
わざわざ不幸になることもないのだが、不幸を経験しなければ人生の意味にも気づけないというのは問題だ。

しかし、私もそうだが、大多数が不幸や行き詰まりを経験して大事な生き方のポイントに気づいているのである。
不幸や苦悩は避けたいだろうが、多くの過去世で自分が作ったネガティブがそうはさせないのである。
「人生は学校だ」、何の学校だろうか。

同じような意味だが、このような言葉もある。
「人生は修行の場だ」「人生は勉強の場だ」、けっこう「人生は・・・の場だ」という言葉は作れるものだ。
この「人生は・・・の場」という言葉に、意識成長するための意味を加えると、さらに理解が広がっていくのである。
次回は(Ⅳ)です。

魂の名言(3)・・人生に関係する名言から、開眼の道を開く(Ⅱ) 2016/04/28

人生の意味を考える名言はまだまだあるが、二―チェの名言だけを考えているとその意味を知るにも切り口がなく、どこから見つめていいか迷ってしまう人もいるだろう。
では、この名言を考えてみるとどうだろうか。
「一見して人生には何の意味もない。しかし一つの意味もないということはあり得ない」 (アインシュタイン)

少し、堅苦しさが抜けた感じがする。
アインシュタインも、人生にはそれほど価値のあるものはないと思っていたというのは、この言葉から感じることができる。
もし、本当に人生のすべてが意味なし、価値なしとなるなら、神はいないと考えた方が正解かもしれない。

しかし、この人生には大事な意味も価値もあるのである。
その答えは一つであるが、観念世界だけで考えれば、その答えは幾つも出てくるだろう。
すべては人間と神の世界、その意識の理解と段階で人生の意味や価値も変化し、それに対する回答は幾つも出てくるのである。

このようなことを前提に考えると、人生に関する意味や価値というのは、人それぞれの理解の段階で気づいていくしかないのかもしれない。
人生の名言は、その名言によっていろいろな受け止め方があるので、まず私が確信していることから話してみたい。
人生において、最大の意味あり価値ありは、「解脱」に向かう意識の道を歩むことである。

解脱すれば、その魂は神の世界に入る。
神の世界に入れない魂は、この世界に戻るのみ。
輪廻転生にもはっきりとした意味がある。
人生の最大の目的は輪廻転生を止めることで、そのために生きることが人生に意義と価値があるとなる。

それ以外は、あくまで我欲、そして何かに対する執着があるのみだ。
我欲や執着は、ネガティブの根源につながるものだが、その複雑な仕組みや無知が意識に及ぼす破壊的な影響などについては誰も知らない。
よく誰もが知っている言葉で、また知ったかぶりで言う人の言葉で、「知らない方が幸せだよ」というのがあるが、私は知らないことは最大の不幸と誰にも言う。

知らないから苦しむ、ニーチェもしかり。
何も知らないときは私も苦しんだが、いろいろ知った今は、そんなことはどうでもいいと相手にしないだけになった。
これで、アインシュタインの言う「一つの意味もないということはあり得ない」に意識を向けられるようになった人もいるかもしれない。

人生の意味がたとえ物的なことであっても、それも大事な一つの道に向かう過程なのかもしれない。
信じない人も多いと思うが、人は誰でもこの道に向かうように何らかの心の障害に遭うようになっているのである。
もし、一つの意味もない人生なら、意味のない存在の自分がいるだけとなる。

それは、絶対にあり得ないことである。
何故なら、どんな人も魂(神)につながっているからである。
人生で、本当に大事な道を見いだせるかどうかは、この意味が心にどのくらい浸透しているか、その量で自分の意識が反応するだろう。
人は神から逃れられることは不可能だから、神に近づくための目覚めのショックは、誰にもいつか必ず来るということである。

だから、1日に自分の時間の1割でもいいから、正しい智恵のある言葉に触れ、それを少しずつ理解できるようにしていかなければならないのである。
けっして、訳の分からない超能力や知らない世界、またすばらしい世界であっても最初から求めてはならないのである。
こうやって、人生を、また自分をしっかり知っていくと、自分の生き方も次第に変化してくるだろう。

それでも、この世に執着があれば、それは物的人生といって再び輪廻の大きな波のうねりにもまれながら最後までいくことになるだろう。
自分の進むべき方向を決め推し進めていける人は、本当に大事なことの真の意味にもどんどん気づいていくだろう。
結局、最初から人生の意味や価値を知っている訳ではないのであるから、どんな人も一つずつ気づいていくしかないのである。

そういうことだ、どんな人もその道にいて、その経過の中を生きているのである。
そうやって気づいていけば良いのであって、気づくということは、それだけでも人生に意味があると言えるかもしれない。
人生で大きな気づきを得られれば、自分の将来もとても明るく感じるだろう。

「自分の人生の意味と目的を理解し、その実現のために行動できれば、人生の満足感と幸福感は上昇する」  (サイモン・レイノルズ)
この名言は、解脱や意識向上を目指すこと以外にも物的なことにも言えるだろう。
目標や目的を掲げるということは、ある面、それに自分の人生をかけることでもある。

人は、本当に自分の好きなことをやっていければ、心から満足し幸せな気持ちになるだろう。
そのために掲げた目標、それに向かっていく努力など、それほど苦にも感じないだろう。
それは理想だ、それに気づくのは大変なことだと、誰もが言いたくなるかもしれない。

もし、それが若いうちだとどうやって気づくのだろうか。
たとえ気づいたとしても、相当な努力が待っていることだろう。
よほどやりたいと思うことが内側から自分を駆り立てるか、どうしてもその方向に気持ちがとらわれるかしない限り、目標に向かっていくということは難しいことだ。

たとえそうなったとしても、若いうちに人生の意味や目的など分かるわけもない。
気づき方にもいろいろあるが、人生の勉強は先人が残してくれた知識や知恵を得ることからでもいい、また様々な経験も早くに自分を気づかせてくれるために役立つものである。

ここで私が感じている、人生の意味や目的を理解している人の共通点を一つ言うとすれば、こういうことに尽きると思っている。
それは、「他人のことを気にしている人はほとんどいない」ということである。
このブログにも書いたことがあるが、人を自分の中に入れるなということでもある。

他人、イコールこの世。
だから大事な気づきも遅くなるのである。
次回は(Ⅲ)です。

魂の名言(2)・・人生に関係する名言から、開眼の道を開く(Ⅰ) 2016/04/11

このカテゴリーでは、一つのテーマに関連したいくつかの名言の説明も加えていくので、1回で完結することはなく、2回、または3回と続くこともある。
今回は、その(Ⅰ)である。
今回のテーマは、「人生の意味」に関係することである。
最初の名言はニーチェの言葉で、それを中心に話を展開させていきたい。

「人間は、生を見ることが深ければ深いほど、苦悩を見ることが深くなる。」
「人生そのものには、何の意味もない。それは、醜悪で、不気味で、誤謬で、虚偽で、無である」「無意味な生をそのまま愛し、受け入れよ、運命を愛せ」 (ニーチェ)
これが名言と言えるかどうか、これからニーチェの意識を考えながら、この言葉の意味を分析してみたい。

ニーチェの晩年は、精神病院に入院するくらい精神が病んでいた。
ここまで真剣に人生の意義、価値を求めていたにも関わらず、何故魂の援助がなかったのだろうか。
この名言は、ニーチェの著作「ツァラトゥストラ」の中にあるようだ。
というのは、私はこの「ツァラトゥストラ」は読んでいない。

これまでも、いろいろな偉人の名言を説明してきたが、私はその著書は1冊も読んだことがない。
ウィキペディアをざっと見て、その偉人の思想、意識を分析して書いている。
これからも思想、哲学書などは、読むことは一切ないと思っている。
それでも答えは出せるので、これからの説明でその意識の活用方法のヒントがつかめるかもしれない。

「ツァラトゥストラ」、この著作は、ニーチェが35歳で完成したらしく、そのために約2年間執筆に費やしたとなっている。
40歳頃には発狂したと書かれてあるので、それ以降はニーチェの意識の進化はなかったとみていい。
この著作の中で、面白い言葉が出てくる。

それは、「神が死んだ」とか「隣人愛の精神は自分自身への逃避」などである。
まず、ニーチェは自分の言ったことをどこまで理解していたか、彼の意識を私はこう分析している。
「人生そのものには、何の意味もない。」
それと「無意味な生をそのまま愛し、受け入れよ、運命を愛せ」

この言葉から、ニーチェは自分が書いたこの言葉の意味を途中までは理解していたが、その先まで分かっていなかったとなる。
もう一歩、その先に大きな壁が・・・、
「人間は、生を見ることが深ければ深いほど、苦悩を見ることが深くなる。」につながる。

ニーチェはここ止まりで、一生懸命探求したがとうとう自滅することになってしまった。
それでも、私はその当時のニーチェの考えは、誰よりも進んでいたと思っている。
言っていることは間違いのないことであり、それまでの代わり映えのしない人間意識、思想などを壊したいと思っていたかのかもしれない。

しかし、ニーチェ自身の意識を喜びで満たせない限り、自分が主張したいことを真に理解しているとは認めにくいのである。
だから、この言葉はニーチェが言ったから名言と言えばそうなるが、中途半端な言葉だと言えばそうなる。
ニーチェの意識の中の気づきから言えば、この言葉は間違いだと決めつけられない。

私がもう一歩進んでやってほしかったことは、このようなことを主張できる自分自身、その自分の意識を自ら「自己破壊」にもっていけたらと思ってしまった。
一歩進んで、ニーチェが真理に入っていれば、もうちょっと先が見えて理解に入っていれば、この答えが分かったものを。
この世意識の中では、神は死んでいる、と思うことは正しい、私も同感だがこれにも説明が必要だ。

しかし、隣人愛は自己逃避ではない。
逆だ、愛を自分の中に広げられることだと思えばいい。
愛を、ニーチェのようにこの世の人間愛の範囲で考えると、隣人愛は自己逃避と考えられなくもないが、その程度の愛しか知らないために自己意識を投影するような言葉になった。

ニーチェは、観念の矛盾を超えられなかっただけで、この世の限界まで挑戦した感じだ。
限界の中で、答えを知ろう、出そうと思考のみに集中したため、限界に飲まれてしまった。
焦点を変えられなかったのか、一本気なのか、意味のない人生、それはすべてが意味のない世界ということになる。

何故、そんなものに固執するのか、何故矛盾を自分の意識で包含できなかったのか。
だから「苦悩を見ることが深くなる」のだ。
当然、苦悩だけが深くなる人生なんて、何の意味もないという答えに行き着くだろう。
「無意味な生をそのまま愛し、受け入れよ、運命を愛せ」

この言葉、よく考えるとおかしくないだろうか。
私は、「無意味な生」は、受け入れることも愛することもお断りだ。
私は、これまで無意味なものを受け入れることも愛することもしたことはない。
そんなことより、何故無意味かを知ったなら、あとはそんなことに影響されない、また超えることをするだけで、後は何があるというのだろうか。

本当は、ニーチェはこのことを言いたかったのだろうか。
それなら、それが本当に分かっていたなら、何故苦悩が続いたのだろうか。
その時の意識の表れが自分そのものだから、隠しようがない。
いろいろなことを書いているが、ニーチェの意識を分析すると、実際はいつも迷っていたというのが本当のところではないのだろうか。

ニーチェのこの名言はある段階までは正しいと言えるが、私はそこまでと見た。
その先が分からないと、この言葉の中で苦しむだけ、そして矛盾の渦に飲み込まれていくことになるだろう。
そんなことで終わる人生だったら、確かに何の意味もないと思いたくなるのも当然である。

これが、この世の思考の限界ということになる。
答えが出せない、それは思考に頼るからである。
一般的な考えとしては、思考に頼らないでどうやって答えを導き出すのかという疑問が涌いてくるだろう。
それが意識の世界で、思考は意識とは違うのである。

思考は意識にはなれないのだから、今は、思考は思考止まりだということを知るしかない。
その先にこそ、意識の世界にこそ、喜びに満ちた答えがある。
それは、矛盾を抱え一体になることで可能になる。
何故、矛盾か。

それは相対だからである。
ということは、あらゆる相対を自己意識の中で包含することで、真の自由に気づくことができるのである。
ニーチェの名言を限界的思考止まりというなら、ここまで言わないと先の展開もなくなる。

意識的な自分は移動しなくてもいい、それが矛盾の理解につながっていくのである。
私は、難しいことだがあえて意識の世界のことを話しているだけである。
意識から見る世界は、人が想像するようなことはほとんど無いかもしれない。
しかし、そこから出てくる答えは、心底から自分を楽にしてくれるものばかりである。
次回は(Ⅱ)です。

魂の名言(1)・・魂との一体化への道は、言葉の意味を高めることから! 2016/03/31

ずっと、偉人聖人の名言の解説をやっているが、何となく不自由を感じてきている。
一応、偉人聖人、または有名人の名言ということで、その言葉の中で私なりの深い意味や解釈の仕方を説明してきた。
それはそれでいいが、実際私の中ではずっと不満を感じていた。

それは、思い通り表現できないということである。
名言に沿って、その言葉の中にある深い意味を説明することは大変勉強になると思うが、本当は、もっと違うところを説明したいということもけっこうあった。
しかし、そうすると名言とは別に違う表現に取られたり、2つの内容という分離感を持たれたりする可能性もあったので、なるべくそうならないようにしてきた。

ただ私の中では、これではつまらないといったブレーキを感じている。
そこで、これからはもっと自由にこの枠を壊し外して、とにかく大事なことを重点的に勉強できるように、新しいカテゴリーを作ることにした。
そのカテゴリーの名前は「魂の名言」である。
誰かの名言と私の思いを合わせて、魂への道をしっかり歩けるようにという意味で名付けたので、そのような内容にしていきたいと考えている。

いきなりこの内容で進めると、後でいろいろ誤解されることもあるので、今回はその説明をするために書いている。
私は、名言を潜在意識から解説するために、これまでたくさんの名言に触れてきた。
その時、その名言をこのような言い方をすれば、さらに広く深く説明できると感じたことがけっこうあった。

しかし、誰かの名言ということで取り上げるので、勝手に言葉を変えることは許されない。
このようなことが大変不自由でつまらなく感じるようになってきたのである。
これからは、様々な人の名言を引用し、また同じような意味の名言もまとめて載せたりしていこうと考えている。

もちろんその人の名前も載せるが、その名言をさらに私なりに作り替えたり、言葉を足したりして、広く深くそして意識拡大につながるようにしていこうと思っている。
要は、だれがこのような名言を言ったかというより、その内容の理解と分析、そしてそれが人の潜在意識にどのように影響を与えるかなどを説明していきたい。

ということは、その言葉が名言でなくてもいいのかもしれない。
そのうち、私が勝手に文を作り替えたり、他の言葉とつなげたりすることで、それが名言になってしまうかもしれない。
こうなると、とても楽しくやりがいも出てくるので、そうなるように努力していきたい。

もちろん、偉人聖人の名言が単独で解説できるのものは、これまで通り「名言格言」の中で解説していく。
私が思っている意識勉強で、受け入れやすいものの一つとして名言の解説は大事だと思っている。
偉人、聖人だけでなく様々な世界で活躍して結果を残している人の言葉を、その人の意識の感じを読みながら適切に解説していけば、全くかけ離れた世界にはならないだろう。

同じ人間として何が違うのか、ここが分かれば、自分の意識成長に大きなヒントになるのは間違いない。
既存のものに自分の意識を固定させることなく、どんどん拡大させていける意味の変化を理解できることを目指して、意識進化の道を歩んでいける勉強は喜びになるだろう。

この世だけに通じる言葉の意味は、それほど価値はないのである。
それは、人の意識を足踏み状態にさせるだけで、けっして意識成長の役には立たない。
こういうだけでも、大きな誤解を生むかもしれないが、分かったものからみればその通りだというだろう。

名言となるような様々な善い言葉を、意識成長の基本として理解発展させていくことであなた自身が変化していくだろう。
どんな人にも通じる、自分の意識を成長させる方法も道もあるのである。
ただ、人は知らないということもあるが、知ってもほとんどはやりたくないと思っているかもしれない。

なぜなら、簡単ではないからである。
絶対無い簡単を探し求める方を選ぶのであるから、この方が大変だと思うのだが。
とにかく、このような内容で進めていこうと思うが、きっちりまとまってくるのはしばらく続けていった後だと思っている。

ちょっと思いついたまま書いてきたので、とりとめのない文になってしまったかもしれない。
やはり面白いのは、バラバラになっているものの中から統一の意味を探しだすことだ。
また、たくさんの似たようなものから、一つにまとめる意味を作りだすことだ。

これを理解していければ、この世の観念はほとんど理解できたのも同然だろう。
これを土台にすれば、まだまだ意識の世界は大きく展開していくのである。